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少女漫画みたいな恋に、人間牧場を混ぜるな  作者: 白瀬余白


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25/40

第25話いつもの顔


 朝から雨が降っていました。


 強い雨ではありません。


 窓に細い線がついて、外の音が少しだけ遠くなるような雨です。


 結衣さんは窓のそばに立って、しばらく外を見ていました。


「そと?」


「今日は難しいですね」


「こうえん?」


「雨が降っていますから」


「あめ、やむ?」


「いつかはやみます」


「いま?」


「今は、まだです」


 結衣さんは窓の外をもう一度見ました。


「まだ」


「はい。まだです」


 悠人さんは、机の上に置いてあった布を見ていました。


 乾いた洗濯物です。


 昨日の夜に取り込んで、そのまま端に置いてありました。


 小さなタオル。


 子どもたちの服。


 直哉のシャツ。


 私のもの。


 センターにいた頃、洗濯物は畳まれた状態で届きました。


 誰かが洗って、誰かが整えて、棚に置く。


 私はそれを使うだけでした。


 ここでは違います。


 洗うものも、干すものも、畳むものも、家の中にあります。


「これ、する?」


 悠人さんが聞きました。


「手伝ってくれるんですか」


「うん」


「ありがとうございます」


「結衣さんも」


 結衣さんが窓から振り返りました。


「する」


「では、タオルを畳みましょうか」


「たたむ」


 結衣さんはすぐに近づいてきました。


 雨の音が、窓の向こうで続いています。


 外へ行けない日。


 家の中で過ごす日。


 それは、特別なことではありません。


 ただ、その日はいつもより、部屋の中の音がはっきり聞こえる気がしました。


 私は小さなタオルを一枚取り、角を合わせて畳みました。


「こうです」


 結衣さんは真似をしようとして、タオルを丸めました。


「できた」


「丸くなっています」


「だめ?」


「だめではありませんが、畳むとは少し違います」


「まるい」


「丸いですね」


 結衣さんは丸いタオルを両手で持って、満足そうに見ました。


 悠人さんは隣で、タオルの角を合わせていました。


 思っていたより丁寧でした。


 少しずれているところを見つけると、指先で直します。


 口を結んで、真剣な顔をしていました。


 私は声をかけようとして、一拍遅れました。


「日向さん?」


 悠人さんが顔を上げました。


「はい」


「これでいい?」


 私はタオルを見ました。


 きれいに四角く畳まれています。


「上手ですね」


 声は出ました。


 少しだけ、明るくしすぎた気がしました。


 悠人さんは、タオルと私の顔を交互に見ました。


「ほんと?」


「はい。本当です」


「じゃあ、もう一枚」


「お願いします」


 悠人さんは次のタオルを取りました。


 私はその横顔を、見ないようにしてしまいました。


 すぐに、そうしたことに気づきました。


 見ないようにする。


 それは、見たくないということとは違うはずでした。


 でも、違うと自分に言い聞かせなければならないことが、もう前とは違っていました。


「日向さん、これ」


 結衣さんが丸めたタオルを差し出しました。


「はい」


「まるい」


「丸いですね」


「これ、結衣さんの?」


「結衣さんのタオルにしましょうか」


「する」


 結衣さんは嬉しそうにうなずきました。


 悠人さんが言いました。


「丸いと、棚に入らないよ」


「はいる」


「転がる」


「ころがる?」


「落ちるかも」


「いや」


「じゃあ、少しだけ畳む?」


 結衣さんは丸いタオルを見て、少し悩みました。


「ちょっと、たたむ」


「半分だけ?」


「はんぶん」


 悠人さんは結衣さんのタオルを受け取って、端を少し折りました。


「こう」


「まるくない」


「少し丸い」


「じゃあ、いい」


 二人は真剣でした。


 タオル一枚の形を決めるだけなのに、そこには二人なりの決まりがあります。


 私はそれを見ていました。


 見ていたかったのです。


 何も考えずに。


 ただ、悠人さんが結衣さんに教えているところを。


 結衣さんが納得しているところを。


 いつものように。


 直哉が部屋へ入ってきたのは、タオルが半分ほど畳み終わった頃でした。


「手伝ってるの?」


「してる」


 結衣さんが答えました。


「これは?」


「結衣さんの」


「丸いね」


「ちょっと、たたんだ」


「ちょっと畳んだんだ」


 直哉は笑いました。


 悠人さんが、自分の畳んだタオルを直哉に見せます。


「こっちは?」


「きれいだね」


「日向さんも言った」


「そうなんだ」


 直哉は私を見ました。


 私が返事をする前に、少しだけ視線を止めました。


 気づかれたのだと思いました。


 何に、とは言えません。


 でも、直哉は私の遅れに気づいたようでした。


「千鶴」


 子どもたちには聞こえないくらいの声でした。


 私は首を横に振りました。


 大丈夫です、と言いたかったのかもしれません。


 今は言わないでください、という意味だったのかもしれません。


 自分でも分かりませんでした。


 直哉はそれ以上、何も聞きませんでした。


「僕も一枚やろうかな」


 そう言って、直哉はタオルを取りました。


 結衣さんがすぐに見ます。


「久世さん、できる?」


「たぶん」


「たぶん?」


「自信がなくなってきた」


「くつより、むずかしい?」


「靴とは別の難しさかな」


 直哉がわざと少し大きくずらして畳むと、悠人さんがすぐに言いました。


「違う」


「厳しい」


「角、ここ」


「はい」


「こっち」


「はい」


「できた」


「先生みたいだね」


「先生?」


「教える人」


「日向さんも先生?」


「日向さんは、もっと先生かもしれない」


「そうなの?」


 悠人さんが私を見ました。


 私は少し遅れずに、今度は返事ができました。


「先生ではありませんよ」


「じゃあ、日向さん」


「はい。日向さんです」


 悠人さんは納得したように、またタオルへ視線を戻しました。


 それだけの会話でした。


 それだけで済んだことに、私は少し安心しました。


 安心したことに、また少し苦しくなりました。


 昼前になると、雨は少し強くなりました。


 窓の外が白く霞んでいます。


 結衣さんは水を飲みながら、何度も窓を見ました。


「やまない」


「まだですね」


「あめ、ながい」


「長いですね」


「こうえん、ない?」


「今日はないと思います」


「ない」


「はい」


 結衣さんは少し残念そうでしたが、すぐに別のことに気を取られました。


 畳んだタオルを棚に入れる仕事です。


「ここ?」


「そこです」


「これ、まるい」


「結衣さんのですね」


「ここ?」


「一番上に置くと転がるかもしれません」


「じゃあ、した」


「そうしましょう」


 結衣さんは丸いタオルを下の方に押し込みました。


 悠人さんが横から見ていました。


「つぶれるよ」


「つぶれる?」


「丸くなくなる」


「いや」


「じゃあ、ここ」


 悠人さんは少し場所を空けました。


 結衣さんはその隙間にタオルを入れます。


「できた」


「できましたね」


 棚の中は、少し歪んでいました。


 でも、きれいすぎないその形が、この家のものに見えました。


 昼食のあと、結衣さんは少し眠そうにしていました。


 雨の日は、外へ行かなくても疲れるのかもしれません。


 窓の外を見たり、家の中を歩いたり、同じことを何度も聞いたりしているだけでも、子どもたちには十分な出来事なのだと思います。


「ねむい?」


 悠人さんが聞きました。


「ねむくない」


 結衣さんは答えました。


 目は半分閉じています。


「眠そうですよ」


「ねむくない」


「では、横になりますか」


「ねむくない」


「眠らなくても、横になるだけです」


「よこ」


「はい」


 結衣さんは少し考えてから、うなずきました。


 寝具へ行く前に、丸いタオルをもう一度見たいと言いました。


「ある?」


「ありますよ」


「まるい?」


「少し丸いです」


「よかった」


 それを確認してから、結衣さんは横になりました。


 悠人さんは絵本を一冊持ってきました。


「読む?」


「結衣さんが眠るまで、小さい声で読みましょうか」


「僕が見る」


「読みますか」


「読めるところだけ」


「お願いします」


 悠人さんは絵本を開きました。


 まだ全部は読めません。


 分かる文字だけを拾って、分からないところは絵を見て進みます。


「ここ、雨」


「はい」


「こっち、家」


「そうですね」


「雨でも、帰る」


「帰ります」


「濡れる?」


「傘がありますね」


「傘、あるから大丈夫」


「はい」


 悠人さんは絵本の中の傘を指でなぞりました。


 その指先は、さっきまでタオルの角を合わせていた指です。


 小さくて、まだ少し丸い指。


 私はその指を見ていました。


 顔ではなく。


 指を。


 それなら大丈夫だと思いました。


「日向さん、ここは?」


 悠人さんが顔を上げました。


 急に視線が合って、私は少しだけ息を止めました。


「そこは」


 私は絵本を見ました。


「橋ですね」


「橋」


「はい」


「雨でも渡る?」


「渡ります」


「滑る?」


「ゆっくり歩けば、大丈夫です」


「ゆっくり」


「はい」


 悠人さんは真剣にうなずきました。


 それから、絵本の中の人をゆっくり指で動かしました。


「こう」


「そうですね」


「落ちない」


「落ちません」


 結衣さんは、その声を聞きながら、だんだん静かになりました。


 私は結衣さんの髪を少しだけ整えました。


 悠人さんは絵本を閉じて、私を見ました。


「結衣さん、寝た?」


「もう少しで眠りそうです」


「静かにする」


「ありがとうございます」


 悠人さんは口を結んで、音を立てないように本を棚へ戻しに行きました。


 私はその後ろ姿を見ました。


 見られました。


 横顔ではなく、後ろ姿だったからかもしれません。


 それとも、少しだけ慣れたからなのかもしれません。


 どちらなのかは分かりません。


 直哉は台所の方にいました。


 水を注ぐ音がして、それから小さな足音が近づいてきます。


「結衣さん、寝た?」


「もうすぐです」


「そっか」


 直哉は声を落としました。


 悠人さんは棚の前で本を選び直しています。


 直哉はその背中を見てから、私の方へ視線を戻しました。


「大丈夫?」


 小さな声でした。


 私はすぐには答えませんでした。


 大丈夫と言えば、嘘になる気がしました。


 大丈夫ではないと言えば、何かを決めてしまう気がしました。


「分かりません」


 そう答えると、直哉はうなずきました。


「うん」


「でも、今は」


 私は結衣さんを見ました。


 眠りかけている顔です。


「このままで」


「分かった」


 直哉はそれ以上聞きませんでした。


 聞かないでいてくれることが、ありがたくて、少しつらかった。


 夕方になっても、雨はやみませんでした。


 部屋の灯りを少し早めにつけました。


 窓の外が暗くなると、結衣さんは起きてすぐに言いました。


「夜?」


「まだ夕方です」


「くらい」


「雨の日は、少し暗くなりやすいですね」


「あめ、ながい」


「長いですね」


「明日、やむ?」


「分かりません」


「分からない多い」


「そうですね」


 結衣さんはそれを不満そうに聞いていました。


 悠人さんは窓のそばで、雨の線を見ていました。


「雨って、全部落ちるの?」


「全部?」


「上から来て、下に落ちる」


「そうですね」


「途中で止まらない?」


「普通は止まりません」


「じゃあ、最後まで行く」


「そうですね」


 悠人さんはしばらく雨を見ていました。


 その顔は、窓に映っています。


 私はその映った顔を見てしまいました。


 直接ではないのに、胸の奥が少し詰まりました。


「日向さん」


「はい」


「雨、見てる?」


「見ています」


「いっぱいある」


「はい」


「数えられない」


「数えるのは難しいですね」


「でも、全部落ちる」


「そうですね」


 悠人さんはそれで満足したようでした。


 窓から離れて、棚の方へ行きます。


 私は窓に映った自分の顔を見ました。


 疲れた顔をしていました。


 泣いたわけでもありません。


 大きな声を出したわけでもありません。


 ただ、一日中、少しずつ息を止めていたような顔でした。


 夜、子どもたちが眠ったあと、私は居間へ戻りました。


 直哉は椅子に座っていました。


 今日はすぐには顔を上げませんでした。


 机の上には、昼間畳んだタオルが一枚だけ残っていました。


 結衣さんの丸いタオルではありません。


 悠人さんがきれいに畳んだ、小さなタオルです。


 棚に入れ忘れていたものだと思います。


「千鶴」


 直哉が言いました。


「はい」


「今日は、ごめん」


「何がですか」


「何もできなかった」


 私はタオルを見ました。


「何かをしてほしい日ではありませんでした」


「でも」


「直哉がいてくれたことは、分かっています」


 直哉は少しだけ顔を上げました。


 その顔にも疲れがありました。


 私だけではありません。


 直哉も、一日中どこかで息を止めていたのだと思いました。


「僕が会わせなければよかった」


 直哉は言いました。


 その言葉は、昨日も聞いたものに近い形をしていました。


「そういう話ではありません」


「そう言うと思った」


「なら、言わないでください」


 少し強く聞こえたかもしれません。


 直哉は黙りました。


 私は息を吸いました。


「すみません」


「謝らなくていい」


「でも」


「僕の方が、言わなくていいことを言った」


 直哉はそう言って、目を伏せました。


「会わせなければよかったって言うのは、簡単だ」


「はい」


「でも、それだと、何もなかったことにしようとしてるみたいになる」


 私は直哉を見ました。


「何もなかったことには、なりません」


「うん」


「でも、全部が悪いことだったと言いたいわけでもありません」


「うん」


「分からないんです」


 その言葉は、今日何度も胸の中にありました。


 分からない。


 どう見ればいいのか。


 どう呼べばいいのか。


 どうすれば、いつものままでいられるのか。


「悠人さんを、普通に見たいです」


 私は言いました。


「はい、と返事をして、顔を見て、話を聞いて、いつものようにしたいです」


「うん」


「でも、一瞬だけ、遅れます」


 直哉は黙って聞いていました。


「それが嫌です」


「うん」


「悠人さんは何もしていません」


「うん」


「何も知らないのに」


「うん」


「私が勝手に、遅れるんです」


 直哉の手が、机の上で少し動きました。


 触れようとしたのかもしれません。


 でも、直哉は触れませんでした。


「千鶴」


「はい」


「一日で戻らなくていい」


「戻りたいです」


「うん」


「戻りたいんです」


 声が小さくなりました。


「戻らないと、悠人さんに悪い気がします」


「悪くない」


「でも」


「悪くないよ」


 直哉は、今度は少しだけ強く言いました。


 私は顔を上げました。


「千鶴が、悪いわけじゃない」


「直哉も、悪いわけではありません」


「うん」


「でも、誰も悪くないと、どこにも置けません」


 直哉は黙りました。


 その沈黙は、昨日の夜と少し似ていました。


 言葉にできないものが、また机の上に置かれています。


 タオルの横。


 灯りの下。


 私たちの間。


「今日」


 直哉が言いました。


「悠人さんが、タオルを畳んでた時」


「はい」


「千鶴、少し止まった」


「分かりましたか」


「分かった」


「そうですか」


「そのあと、無理に明るく返事をした」


「……はい」


 見られていたことに、少しだけ恥ずかしさがありました。


 でも、それ以上に、隠せていなかったことが怖かった。


「悠人さんは、気づいていましたか」


「少しだけ」


 直哉は言いました。


「でも、たぶん理由までは分かってない」


「そうですか」


「心配はしたと思う」


 私は目を閉じました。


 悠人さんが、私の顔を見上げた時のことを思い出しました。


 日向さん?


 それだけでした。


 ただ呼ばれただけです。


 なのに私は、一拍遅れました。


「明日は」


 私は言いました。


「遅れないようにします」


「千鶴」


「はい」


「それは、たぶん無理をすることになる」


「でも」


「無理をしてほしくない」


「無理をしないと、普通にできません」


 言ってから、部屋が静かになりました。


 直哉は、何かを言おうとして、言いませんでした。


 私も、今の言葉を戻せませんでした。


 無理をしないと、普通にできない。


 それを直哉に言ってしまった。


「ごめんなさい」


「謝らなくていい」


「でも、今のは」


「本当のことだと思う」


 直哉の声は苦しそうでした。


「本当のことなら、なおさら謝らなくていい」


 私は何も言えませんでした。


 直哉は小さく息を吐きました。


「今日は、もう休もう」


「はい」


「明日のことは、明日考えよう」


「はい」


 直哉は立ち上がりかけて、机の上のタオルに気づきました。


「これ、悠人さんの?」


「はい。畳んでくれたものです」


「きれいだね」


「はい」


 私はタオルを手に取りました。


 角が少しだけずれています。


 でも、何度も指で直した跡がありました。


 丁寧に畳もうとしたことが分かる形でした。


「棚に入れてきます」


「うん」


 私はタオルを持って、棚の前へ行きました。


 結衣さんの少し丸いタオルの隣に、悠人さんの四角いタオルを入れます。


 きれいに並びすぎない棚。


 少し歪んだ、でも家の中の棚。


 私は手を離しました。


 タオルはそこに収まりました。


 戻っても、直哉はまだ居間にいました。


「直哉」


「うん」


「今日は、そこにいてくれて、ありがとうございました」


 直哉は少し驚いた顔をしました。


「何もできなかったよ」


「いました」


 私は言いました。


「それは、分かっています」


 直哉はしばらく黙っていました。


 それから、小さくうなずきました。


「おやすみ、千鶴」


「おやすみなさい、直哉」


 子ども部屋をのぞくと、結衣さんは丸まって眠っていました。


 悠人さんは少しだけ布団から肩が出ています。


 私はそっと布団を直しました。


 悠人さんは起きませんでした。


 いつもの顔で眠っています。


 私はその顔を見ました。


 今度は、目をそらしませんでした。


 少しだけ、息が苦しくなりました。


 それでも、見ました。


 悠人さんは悠人さんです。


 何度も繰り返した言葉です。


 でもその夜、私は初めて、その言葉を祈りのようにではなく、約束のように思いました。


 明日も、そう見る。


 遅れても。


 怖くても。


 私はもう一度、悠人さんの布団を整えました。


 小さな手が、布団の端を少しだけ握っています。


 いつもの手でした。


 私はその手に触れずに、少しだけそばにいました。


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