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少女漫画みたいな恋に、人間牧場を混ぜるな  作者: 白瀬余白


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24/40

第24話名前のあと


 昼の時間は、いつもより長く感じました。


 結衣さんは水を飲むたびに、コップの中をのぞきました。


「へった」


「飲んだからです」


「もうない?」


「まだ少しあります」


「ちょっと」


「はい。ちょっとです」


 結衣さんは残った水を慎重に飲みました。


 それから、空になったコップを見せてきます。


「ない」


「なくなりましたね」


「もう一回?」


「もう少しだけにしましょう」


「ちょっと?」


「ちょっとです」


 悠人さんは棚から絵本を一冊持ってきました。


「これ、読む?」


「読みましょうか」


「日向さん、読む?」


「はい」


 私は絵本を受け取りました。


 何度か読んだことのある本です。


 道を歩いて、橋を渡って、最後に家へ帰る話でした。


 悠人さんは私の隣に座りました。


 結衣さんは少し遅れて、反対側へ座ります。


 ページを開くと、結衣さんがすぐに絵を指しました。


「みち」


「道ですね」


「ながい」


「長いですね」


 悠人さんは、その道を指でなぞりました。


「ここ、曲がる」


「曲がりますね」


「まっすぐじゃない」


「はい」


「でも、帰る」


「帰ります」


「ここ、橋」


 悠人さんが言いました。


「はい」


「結衣さん、橋、知ってる?」


「しってる」


「渡るやつ」


「わたる」


「落ちない」


「おちない?」


「落ちないように歩く」


「こわい?」


「絵本だから大丈夫」


 結衣さんは納得したようにページを見ました。


「えほん、だいじょうぶ」


「はい」


 私は読み進めました。


 声は出ていました。


 でも、自分の声がどこか薄く聞こえました。


 悠人さんがページをのぞき込むたびに、私は少しだけ視線を迷わせました。


 見ないようにしている。


 そう気づくと、胸の奥が冷たくなりました。


 見たいのに。


 いつものように、見たいだけなのに。


「日向さん、次」


「はい」


 ページをめくりました。


 家へ帰る場面です。


 結衣さんが、絵の中の家を指しました。


「おうち」


「家ですね」


「帰った?」


「帰りました」


「よかった」


 結衣さんはそう言って、少し笑いました。


 その笑い方に、私はようやく息を吐きました。


 夕方が近づくまで、子どもたちは何度か同じ絵本を見返しました。


 結衣さんは水を少しずつ飲み、悠人さんは道の曲がる場所を何度も確認しました。


 私はその横にいました。


 返事をしました。


 ページをめくりました。


 水を足しました。


 できることだけを、順番にしました。


 直哉が帰ってきたのは、外が少し暗くなってからでした。


 扉の音がして、結衣さんが顔を上げます。


「久世さん?」


「うん」


 玄関の方から声がしました。


「帰ったよ」


 結衣さんは立ち上がって、玄関へ行こうとしました。


「走らない」


 悠人さんが言いました。


「はしらない」


 結衣さんは少しだけ速く歩きました。


 それは走っていないつもりなのだと思います。


 悠人さんも後からついていきました。


 私は少し遅れて立ち上がりました。


 直哉は玄関で靴を脱いでいました。


 結衣さんがすぐに聞きます。


「三枝さん?」


「うん。会ってきた」


「話した?」


「話したよ」


「絵本?」


「絵本の話はしてないかな」


「みち?」


「道の話も、今日はしてない」


「じゃあ、なに?」


 直哉は少し考えました。


「大人の話」


 結衣さんは眉を寄せました。


「おとな」


「うん」


「むずかしい?」


「少し」


「じゃあ、いい」


 それで興味が薄れたようでした。


 悠人さんは直哉を見上げました。


「三枝さん、また来る?」


 直哉は一瞬だけ、私を見ました。


 その視線に気づいて、私は目を伏せそうになりました。


「分からない」


 直哉はそう答えました。


「久世さんは、また会う?」


「会うと思う」


「そっか」


 悠人さんはそれ以上聞きませんでした。


 結衣さんは、直哉の靴を見て言いました。


「すな、ある?」


「今日はないと思う」


「ない?」


「うん。公園には入ってないから」


「じゃあ、すなばじゃない」


「そうだね」


 直哉はそう言って、小さく笑いました。


 いつもの声でした。


 子どもたちに向ける時の、やわらかい声。


 でも、私の方を見る時だけ、少し違っていました。


 聞きたいことがある。


 でも、子どもたちの前では聞かない。


 そういう顔でした。


 夕方から夜にかけての時間は、いつも通りに進みました。


 結衣さんは絵本の道をまた見たいと言いました。


 悠人さんは、橋のページを開いて、ここは落ちないと言いました。


 直哉はそれに返事をしました。


 私はその横で、必要なことをしました。


 水を出す。


 タオルをたたむ。


 子どもたちの服を整える。


 絵本を棚へ戻す。


 できないことはありませんでした。


 ただ、少しずつ遅れているようでした。


 結衣さんが眠る前に、ふと思い出したように言いました。


「みち、帰った」


「はい。帰りましたね」


「結衣さんも帰った?」


「帰りましたよ」


「久世さんも?」


「帰ったよ」


 直哉が答えました。


「日向さんも?」


「はい」


「みんな、帰った」


「はい。みんな帰りました」


 結衣さんはそれで安心したように、布団の中へ入っていきました。


 悠人さんは隣で、しばらく天井を見ていました。


「日向さん」


「はい」


「次、違う本でもいい?」


「もちろんです」


「でも、これも読む」


「はい」


「道、曲がるから」


「曲がりますね」


「でも帰るから」


「はい」


 私は返事をしました。


 声が詰まらなかったことに、少しだけ安心しました。


 子どもたちが眠ったあと、居間へ戻ると、直哉が立っていました。


 椅子に座ってはいませんでした。


 私が戻ってくるのを待っていたのだと思います。


「話してもいい?」


 直哉が言いました。


「はい」


 私は向かいに座りました。


 直哉も少し遅れて座ります。


 机の上には何もありません。


 夜の灯りだけがありました。


「三枝からは、何も聞いてない」


 直哉は最初にそう言いました。


「はい」


「千鶴のことも、子どもたちのことも、何も言わなかった」


「そうですか」


「でも、公園での千鶴を見たら、何かあったのは分かった」


 私は膝の上で手を重ねました。


「聞いてもいい?」


「はい」


 そう答えたのに、言葉はすぐに出てきませんでした。


 直哉は待っていました。


 急かすことも、言葉を足すこともしませんでした。


「三枝さんは」


 私は言いました。


「センターで会った人でした」


 直哉の顔が、少し止まりました。


「……業務で?」


「はい」


 私はうなずきました。


「最初の」


 それだけで、直哉の目元が固くなりました。


 私は膝の上の手を見ました。


「名前を、見ていたんです。その頃は、まだ」


 直哉は目を伏せました。


「知らなかった」


「分かっています」


「本当に、知らなかった」


「はい」


 そこは疑っていませんでした。


 直哉が知っていて会わせたとは思っていません。


 そんなことをする人ではないと分かっています。


 それでも、公園にあの人が来たことは消えません。


「ごめん」


 直哉が言いました。


「直哉が悪いわけではありません」


「でも、僕が紹介した」


「はい」


「僕が、あの場所に呼んだ」


 直哉の声は、自分に向けているようでした。


「ごめん」


「謝らないでください」


「謝らないと、どうしていいか分からない」


 その言葉に、私は少しだけ顔を上げました。


 直哉は、私を見ていませんでした。


 机の上の何もない場所を見ていました。


「千鶴に、何を言えばいいか分からない」


「私も、分かりません」


「うん」


「三枝さんが何かしたわけではありません」


「うん」


「今日、何かを言われたわけでもありません」


「うん」


「直哉が、知っていたわけでもありません」


「うん」


 直哉は小さくうなずきました。


 私は続けようとして、そこで止まりました。


 その先には、言葉にしたくないものがありました。


 直哉は、そこを聞きませんでした。


 私も言いませんでした。


 沈黙が少し長くなりました。


 けれど、その沈黙の中に、何もないわけではありませんでした。


 言えないものが、そのまま置かれていました。


「三枝は」


 直哉が、ゆっくり言いました。


「千鶴のことを、覚えていたと思う」


 私は目を閉じました。


「そうですか」


「たぶん」


「はい」


「でも、何も言わなかった」


「そうですね」


「昔も?」


 私は少しだけ迷って、うなずきました。


「余計なことは、言わない人でした」


 口にしたあと、胸の奥が苦しくなりました。


 三枝さんをかばいたいわけではありません。


 懐かしんでいるわけでもありません。


 ただ、事実としてそうでした。


 それを私が言えることが、嫌でした。


 知っているから言える。


 知らない人ではないから言える。


 そのことが、嫌でした。


「そうか」


 直哉はそれだけ言いました。


 部屋は静かでした。


 子ども部屋の方から、小さな寝返りの音がしました。


 私はすぐに顔を上げました。


 直哉も同じ方を見ました。


 しばらく待っても、泣き声はしません。


 起きたわけではないようでした。


「見に行きます」


「うん」


 立ち上がろうとした時、直哉が小さく言いました。


「千鶴」


「はい」


「無理に、普通にしなくていい」


 私はその言葉を聞いて、立ち止まりました。


「普通にしたいです」


「うん」


「悠人さんにも、結衣さんにも」


「うん」


「直哉にも」


 直哉は少しだけ目を伏せました。


「うん」


「でも、できなかったら」


 そこまで言って、声が小さくなりました。


「ごめんなさい」


「謝らなくていい」


「でも」


「謝らなくていいよ」


 直哉の声は静かでした。


 私はうなずきました。


 うなずいたのに、胸の奥はまだ固いままでした。


 子ども部屋へ向かうと、小さな灯りがついていました。


 悠人さんは眠っていました。


 結衣さんも、隣で小さく丸まっています。


 絵本は棚に戻してあります。


 水の入った小さなコップも、空になっていました。


 私は扉のところで立ち止まりました。


 悠人さんの顔が、灯りの中にありました。


 見慣れた顔。


 毎日見てきた顔。


 私を呼ぶ顔。


 眠っている時は、少し幼くなる顔。


 私はそっと近づき、布団の端を直しました。


 何も言いませんでした。


 言うと、何かがこぼれてしまいそうでした。


 悠人さんは起きません。


 いつものように眠っています。


 私はそのそばに、少しだけ座りました。


 悠人さんは悠人さんです。


 心の中で、何度も繰り返しました。


 その言葉だけは、どうしても手放したくありませんでした。


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