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第23話横顔


 それから何日かして、直哉が午後から出かける日がありました。


 結衣さんは、玄関に出してある靴を見つけると、それだけで外へ行けると思っていました。


「くつ」


「まだですよ」


「くつ、ある」


「ありますね」


「じゃあ、いく」


「靴があることと、今行くことは別です」


 結衣さんは少しむずかしい顔をしました。


「べつ」


「別です」


「くつ、あるのに」


「ありますけど」


 同じところへ戻ってきます。


 悠人さんはもう、靴下を片方だけ持っていました。


「今日は川、作る」


「公園へ行けたら、ですね」


「この前のは消えてるから」


「砂ですからね」


「でも続き」


「消えているのに、続きですか」


「新しい続き」


 悠人さんは当然のように言いました。


 その言い方が少し面白くて、私は笑いそうになりました。


 新しい続き。


 消えていても、同じ場所なら続きを作れる。


 悠人さんにとって、公園の砂場はもう、そういう場所になっていました。


 直哉は部屋の奥から出てきました。


 上着を手に持っています。


 それを見て、結衣さんがすぐに振り返りました。


「久世さん」


「うん」


「くつ」


「靴?」


「ある」


「あるね」


「いく?」


 直哉は上着を腕にかけたまま、少しだけ笑いました。


「出かけるまでなら、少し公園に行ける」


「こうえん?」


「うん」


「すな?」


「砂場もある」


「すべる?」


「滑り台もある」


「いく」


 結衣さんは即答しました。


 悠人さんは靴下を履きながら、直哉を見ました。


「川、海まで作れる?」


「時間までなら」


「じゃあ急ぐ」


「走らない」


「砂場で急ぐ」


「それならいい」


 直哉はそう言って、私の方を見ました。


「この前話していた友人も、時間になったら公園に来ることになってる」


「この前の方ですか」


「うん。紹介するよ」


「はい」


 それだけ聞いて、私は鞄を取りました。


 結衣さんは靴を左右逆に履こうとして、悠人さんに止められていました。


「結衣さん、そっち違う」


「ちがう?」


「線が外」


「せん、そと」


「うん」


 結衣さんは真剣な顔で靴を持ち替えました。


「くつ、むずかしい」


「慣れますよ」


「日向さんも、むずかしい?」


「今は大丈夫です」


「前は?」


「前は、難しかったかもしれません」


「おとななのに?」


「大人になる前もありましたから」


 結衣さんは、それを聞いて少し考えました。


「結衣さんも、おとななる?」


「なりますよ」


「くつ、できる?」


「きっとできます」


「じゃあ、いい」


 何がいいのかは分かりませんでした。


 でも結衣さんは納得したようでした。


 玄関の扉を開けると、外の光が入ってきました。


 結衣さんは一歩出て、すぐに私を振り返りました。


「日向さん」


「はい」


「出た」


「出ました」


「久世さんも?」


「いるよ」


 直哉が後ろから答えました。


「悠人さんも?」


「いる」


 悠人さんが言いました。


「みんな?」


「みんなです」


 私が答えると、結衣さんは安心したように私の手を握りました。


 道を歩く時、結衣さんは花や石を見つけるたびに少し遅れます。


 悠人さんは前を歩きすぎて、何度か振り返ります。


 直哉はそのたびに歩幅を合わせました。


 急がせることも、遅いと言うこともありません。


 ただ、時々、上着を持ち替えます。


 その動きに、少し前の夜の言葉を思い出しました。


 今日は、少しまいってる。


 そう言った時の直哉の声は、まだ耳に残っていました。


 公園に着くと、悠人さんは迷わず遊具広場の方へ向かいました。


 広い園路の向こうに、砂場と滑り台のある場所があります。


 木の下にはベンチが並び、少し離れた芝生では、別の子どもたちが走っていました。


 結衣さんは途中で滑り台を見ました。


 それから砂場を見ました。


「すな」


「滑り台はいいんですか」


「あと」


「砂が先ですか」


「今日は、すな」


 結衣さんの中ではもう決まっているようでした。


 悠人さんは砂場の端にしゃがみ、枝を探しました。


「ない」


「枝ですか」


「川の」


 直哉が近くの木の下を見て、細い枝を一本拾いました。


「これ?」


 悠人さんは受け取ると、先を見ました。


「使える」


「よかった」


「ここから」


 悠人さんは砂場の端に線を引きました。


「ここが山」


「今日は山からですか」


「山から海まで」


「長いですね」


「途中で曲がる」


 枝の先が砂の上を進みます。


 結衣さんはその横で、両手で砂を集めていました。


「これ、やま?」


「それは山ですか」


「はっぱの山」


「葉っぱはまだありませんよ」


「あとで乗せる」


「準備の山ですね」


「じゅんび」


 結衣さんはその言葉を気に入ったようで、砂を集めながら小さく繰り返しました。


「じゅんびの山」


 直哉は砂場の縁にしゃがんで、悠人さんの川を見ていました。


「そこ、海にするなら、こっちに広げた方がいいんじゃない?」


「海、大きい?」


「川よりは」


「じゃあ、ここ全部」


「大きいね」


「久世さん、海見たことある?」


「あるよ」


「大きい?」


「大きい」


「どれくらい?」


 直哉は少し考えました。


「見えるところ全部、まだ続いてるくらい」


 悠人さんは手を止めました。


 砂場の端を見て、それから公園の向こうの芝生を見ました。


「ここじゃ足りない」


「砂場では足りないね」


「じゃあ、ここは小さい海」


「小さい海」


 直哉が繰り返すと、悠人さんは満足したようにうなずきました。


 結衣さんが、その小さい海の横に砂を足しました。


「山も」


「海の横に山ですか」


「ある」


「ありますね」


 結衣さんは自分で決めると強い顔をします。


 私はその近くに立って、二人が砂で作るものを見ていました。


 直哉は上着をベンチに置かず、腕にかけたままでした。


 出かける前の時間です。


 でもその時間の中で、直哉はちゃんとしゃがんで、砂の川を見て、子どもたちの言葉に返事をしていました。


「久世」


 声がしました。


 遊具広場の外側を通る園路の方からでした。


 直哉が顔を上げました。


 私も、その声につられて振り返りました。


 木の影が落ちる道の上に、男の人が立っていました。


 背が高く、姿勢がまっすぐな人でした。


 人の多い公園の中でも、その立ち方だけが少し違って見えました。


 余計な動きがありません。


 男の人は直哉に軽くうなずいてから、こちらへ歩いてきました。


「この前話していた友人」


 直哉が言いました。


 私は頭を下げようとして、その人の顔を見ました。


 息が、少し遅れました。


 知っている顔でした。


 すぐに名前は出てきませんでした。


 けれど、知らない顔ではありません。


 海の絵。


 午後五時。


 静かな部屋。


 必要なことだけを言う声。


 私の中で、それらが順番もなく浮かびました。


 男の人は、静かに頭を下げました。


「三枝です」


 その名前を聞いて、胸の奥にあったものが形を持ちました。


 三枝。


 三枝修司。


 初めての業務の日に見た名前。


 私は少し遅れて頭を下げました。


「日向です」


 声は出ました。


 でも、自分がちゃんとそこに立っている感じがしませんでした。


 公園の音が少し遠くなっていました。


 砂を掻く音も、結衣さんの声も、直哉の気配も、全部が薄い膜の向こうにあるようでした。


「日向さん」


 足元に重みが来ました。


 砂場から走ってきた悠人さんが、私の足に抱きついていました。


 片手には、さっきの枝を持っています。


「海、できた」


 悠人さんは私を見上げました。


 私は悠人さんを見下ろしました。


 砂が頬についています。


 いつもの顔でした。


 何度も見てきた顔です。


 朝に眠そうにしている時の顔。


 絵本を持ってくる時の顔。


 結衣さんに順番を教える時の顔。


 私を呼ぶ時の顔。


 私の足に抱きついたまま、悠人さんは枝を持った手で砂場を指しました。


 私は、その手を見ました。


 それから、もう一度、三枝さんを見ました。


 三枝さんは、悠人さんの声に反応して、こちらを見ていました。


 視線が、私の足元へ落ちています。


 悠人さんを見るために、ほんの少しだけ顎が下がっていました。


 その横顔を見た瞬間、息の仕方が分からなくなりました。


 似ていました。


 まったく同じではありません。


 悠人さんは悠人さんです。


 三枝さんは三枝さんです。


 年齢も、背の高さも、表情も違います。


 それなのに、目元の線が似ていました。


 口を結ぶ時の硬さが似ていました。


 何かを言う前に、少しだけ黙るところが似ていました。


 悠人さんが真剣な時にする顔。


 何かを決めて、曲げない時の顔。


 それが、三枝さんの横顔の中にありました。


「日向さん?」


 悠人さんが私を呼びました。


 私は瞬きをしました。


「見ないの?」


「……見ます」


 声は出ました。


 少し掠れていました。


「海ができたんですね」


「できた」


 悠人さんは私の足から手を離しました。


 でも、私はまだすぐには動けませんでした。


 さっきまで毎日見ていたはずの顔に、別の人の輪郭が重なっていました。


 それは、もう見なかったことにはできませんでした。


「三枝さん」


 悠人さんが言いました。


 三枝さんは、わずかに顎を引きました。


「はい」


「久世さんの友達?」


「そうです」


「悠人さんです」


 悠人さんはいつものように言いました。


 自分の名前に敬称をつける、その言い方。


 センターで覚えたままの言い方。


 三枝さんは一瞬だけ、目を伏せました。


 それは本当に短い動きでした。


 誰かが見ていても、気づかないくらいの。


 でも私は見ていました。


「結衣さんもいる」


 悠人さんが言いました。


 結衣さんは少し離れた砂場で、手を止めています。


 知らない人が来たので、こちらへ来るかどうか迷っているようでした。


「結衣さん」


 私が呼ぶと、結衣さんは砂のついた手を見てから、そろそろと近づいてきました。


 私の後ろに隠れます。


「こちら、三枝さんです」


「さえぐささん」


「はい」


 三枝さんは結衣さんにも、同じように頭を下げました。


「三枝です」


「久世さんの?」


「友人です」


「ともだち」


 結衣さんはその言葉を確認するように言って、私を見上げました。


「日向さんの?」


「私は、今日会いました」


「今日」


「はい」


 今日。


 その言葉が、胸の奥で冷たく響きました。


 今日会った。


 そう言うしかありませんでした。


 悠人さんは、もう一度砂場の方を指しました。


「海、見る?」


「見ます」


 私は答えました。


 でも足がすぐには動きませんでした。


 直哉が私を見ていました。


「千鶴」


 小さな声でした。


 子どもたちに向けた声ではありません。


 私は直哉を見ました。


「大丈夫です」


 直哉は何も言いませんでした。


 何も言わないまま、私の横に立っていました。


 三枝さんも、余計なことは言いませんでした。


 ただ、少しだけ砂場の方へ視線を向けました。


 悠人さんが作った小さい海。


 その横に、結衣さんの準備の山。


 さっきまで、ただいつもの遊びだったものです。


 私は悠人さんに手を引かれて、砂場の方へ行きました。


「ここ」


 悠人さんが言いました。


「ここが海」


「はい」


「川、ここから」


「曲がっていますね」


「途中で曲がるから」


「そうでしたね」


「久世さんが、海は大きいって言った」


「はい」


「でもここは小さい海」


「きれいです」


 そう言うと、悠人さんは少し誇らしそうにしました。


 その顔も、悠人さんの顔でした。


 私の知っている顔です。


 でもさっき見てしまった横顔が、消えません。


 砂場の向こうで、直哉と三枝さんが短く言葉を交わしていました。


 声は聞こえません。


 三枝さんはあまり動かず、直哉の話を聞いています。


 その姿勢に、私はまた息が浅くなりました。


 聞く人。


 余計なことを言わない人。


 必要なことだけをする人。


 そういう人だと、直哉は言っていました。


 私はそれを、別の場所で知っていました。


「日向さん、こっち」


 結衣さんが私の袖を引きました。


「山」


「はい」


「葉っぱ、乗せる」


「乗せましょう」


 結衣さんは小さな葉を一枚持ってきて、砂の山の上に乗せました。


「できた」


「できましたね」


「三枝さん、見る?」


 結衣さんがそう言ったので、私は一瞬、返事に詰まりました。


 三枝さんは聞こえていたようで、こちらを見ました。


「見るだけなら」


 短く言って、砂場の端まで来ました。


 悠人さんが少し場所を空けます。


 三枝さんは砂場に入らず、外側から見下ろしました。


「山」


 結衣さんが言いました。


「そうですね」


「はっぱの山」


「葉っぱの山」


「こっちは海」


 悠人さんが言いました。


 三枝さんは海の方を見ました。


「広いな」


「小さい海だよ」


「そうか」


「本当の海は、もっと大きいって」


「大きい」


 三枝さんは短く答えました。


「三枝さん、見たことある?」


「あります」


「久世さんもあるって」


「そうですか」


「日向さんは?」


 悠人さんが私を見ました。


 私は少し考えました。


「あります」


「みんなある」


「結衣さんは?」


 結衣さんが自分を指しました。


「まだかもしれません」


「じゃあ、結衣さんだけない」


「いつか見られるといいですね」


「うみ?」


「はい」


「小さい?」


「大きいです」


 結衣さんは砂場の小さい海を見ました。


「これも、うみ」


「はい。これも海です」


 その会話は、何でもないものでした。


 何でもないはずでした。


 子どもたちが砂場で作ったものを、大人が見ているだけです。


 でも私は、その中に立っていることが、急に難しくなっていました。


 三枝さんが悠人さんを見る。


 悠人さんが三枝さんを見る。


 そのたびに、二つの横顔が私の中で重なります。


 重なって、離れません。


「そろそろ戻ろう」


 直哉が言いました。


 声は穏やかでした。


 けれど、私の方を見ていました。


「もう?」


 悠人さんが聞きました。


「僕が出かける時間だから」


「川、途中」


「続きはまた作ろう」


「新しい続き?」


「そう。新しい続き」


 悠人さんは少し考えて、うなずきました。


「じゃあ、枝置いてく」


「はい」


 結衣さんは葉っぱの山を見ました。


「山も置いてく?」


「置いていきましょう」


「風、くる?」


「来るかもしれません」


「なくなる?」


「少し崩れるかもしれません」


「また作る」


「はい」


 子どもたちは、いつものように公園を離れる準備をしました。


 砂を払って、靴の中を気にして、もう一度だけ自分たちの作ったものを見ます。


 その全部がいつも通りでした。


 だから余計に、私だけが違う場所に立っているように感じました。


 三枝さんは園路の方へ少し下がりました。


「待ってる」


 直哉に向かって、短く言いました。


「悪い」


「構わない」


 直哉はうなずきました。


 それから私たちと一緒に歩き出しました。


 公園を出る時、私は振り返りませんでした。


 振り返れば、また見てしまうと思いました。


 でも見なくても、もう残っていました。


 三枝さんの横顔。


 悠人さんの横顔。


 二つが重なった瞬間。


 帰り道、結衣さんは靴の中の砂を気にしていました。


「すな、いる」


「帰ったら出しましょう」


「くつの中、すなば」


「靴の中は砂場ではありません」


「でも、すな」


「砂はありますね」


 悠人さんは枝を置いてきたことを、少し気にしているようでした。


「次、同じ枝ないよね」


「ないかもしれません」


「じゃあ、違う枝」


「はい」


「違う枝でも、続きできる?」


「できます」


「さっきの川と違うけど」


「違っても、続きにできます」


 悠人さんはそれを聞いて、少しだけ安心した顔をしました。


 私はその顔を見ました。


 見慣れた顔です。


 私が毎日見てきた顔です。


 そのことだけを、必死に確かめるように見ていました。


 家に戻ると、結衣さんは靴の中の砂を気にして、先に玄関へ座り込みました。


 悠人さんは、置いてきた枝の話をまだしていました。


 私は二人のそばへ行こうとして、直哉に小さく呼ばれました。


「千鶴」


 振り返ると、直哉が玄関の端に立っていました。


 子どもたちから少しだけ離れた場所です。


「今日は、行くのをやめてもいい」


 私は直哉を見ました。


 直哉の顔には迷いがありました。


 公園での私を見て、何かを察したのだと思います。


 全部ではないかもしれません。


 でも、何もないとは思っていない顔でした。


「三枝さんが待っています」


「でも」


「行ってください」


「千鶴」


「あとで、話します」


 それ以上は、今は言えませんでした。


 悠人さんと結衣さんがいます。


 靴を脱いで、手を洗って、服についた砂を払わなければなりません。


 いつものことを、いつものようにしなければなりません。


 直哉はしばらく私を見ていました。


 それから、ゆっくりとうなずきました。


「分かった」


 悠人さんが靴を脱ぎながら聞きました。


「久世さん、行くの?」


「うん。少し出てくる」


「三枝さんと?」


「そう」


「帰る?」


「帰るよ」


「じゃあ、いってらっしゃい」


 直哉は少し驚いた顔をしました。


 それから、やわらかく笑いました。


「いってきます」


 結衣さんも顔を上げました。


「いってらっしゃい」


「いってきます」


 直哉は最後に私を見ました。


 私も言いました。


「いってらっしゃい」


「いってきます」


 扉が閉まりました。


 家の中に、子どもたちの声が残りました。


 結衣さんは靴の中の砂を出したがり、悠人さんは手を洗う順番を結衣さんに教えていました。


「先に水」


「みず」


「次、石けん」


「せっけん」


「流す」


「ながす」


 私はその横に立って、二人の手を見ていました。


 いつもの手です。


 砂のついた、小さな手。


 その手を洗いながら、私はまだ公園にいました。


 園路から聞こえた声。


 直哉が呼ばれた瞬間。


 三枝さんの顔。


 足元に抱きついてきた悠人さん。


 視線を下げて、上げた時に重なった横顔。


 私は悠人さんを見ました。


 悠人さんは何も知らない顔で、結衣さんの袖が濡れないように押さえていました。


 その横顔は、いつもの悠人さんでした。


 私の知っている、悠人さんでした。


 それなのに、一度重なってしまった輪郭は、もう見なかったことにはできませんでした。


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