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第22話灯り


 水城さんと会った日から、直哉のことを前より見るようになりました。


 何かが大きく変わったわけではありません。


 声が荒くなったわけでも。


 帰ってこなくなったわけでも。


 子どもたちに冷たくなったわけでもありません。


 直哉は、いつも通りに見えました。


 けれど、いつも通りに見えることが、かえって分からなくなりました。


 水城さんは、疲れていると言いました。


 近い相手には余計に平気な顔をする、とも。


 もしそれが本当なら、私は近くにいるのに、何も見えていなかったのかもしれません。


 その夜、結衣さんはなかなか眠りませんでした。


 寝具へ入ったあとも、何度も身体を起こして、部屋の隅を見ました。


「まっくら」


「まだ明るいですよ」


「まっくら、いや」


「小さい灯りをつけています」


「ちいさい」


 結衣さんは、天井ではなく壁の方を見ていました。


 壁に付いた小さな灯りが、淡く部屋を照らしています。


 センターでは、時間になると決められた明るさに落とされました。


 子どもたちが眠る部屋に残る灯りも、私が選ぶものではありませんでした。


 ここでは、明るさを変えられます。


 それだけのことに、まだ少し戸惑います。


「もっと明るくしますか」


「まぶしい」


「では、今くらいで」


「まっくら」


「真っ暗ではありません」


 結衣さんは納得しない顔をしました。


 悠人さんが隣から言いました。


「これ、明るいよ」


「まっくら」


「目を閉じたら、もっと暗いよ」


「いや」


「じゃあ、閉じなければいい」


「寝られませんよ」


 私が言うと、悠人さんは少し考えました。


「じゃあ、少しだけ閉じる」


「少しだけでは眠れません」


「日向さん、難しいこと言う」


「眠ることは、少し難しいですから」


 結衣さんは、まだ灯りを見ていました。


「久世さん、できる?」


「何を?」


 入口の方で、直哉が答えました。


 水を飲みに来たところだったようです。


 結衣さんは壁の灯りを指しました。


「あかり」


「もう少し明るくする?」


「まぶしい」


「じゃあ、もう少し暗くする?」


「まっくら」


「なるほど」


 直哉は少し困った顔をしました。


「ちょうどいいところを探すか」


 そう言って、壁の近くへ行きました。


 灯りの調整は、つまみを少し動かすだけでした。


 直哉は何度か明るさを変えました。


 少し明るくすると、結衣さんが目を細めます。


 少し暗くすると、すぐに、


「まっくら」


 と言います。


 悠人さんは寝具の中から真剣に見ていました。


「そこ」


 結衣さんが言いました。


「ここ?」


「そこ」


「これでいい?」


「いい」


 直哉は手を離しました。


 灯りは、最初とほとんど同じ明るさでした。


「さっきと同じではありませんか」


 私が言うと、直哉は小さく笑いました。


「たぶん、同じだね」


「同じなの?」


 悠人さんが聞きました。


「結衣さんが決めたから、同じでも違うんだと思う」


「そうなの?」


「たぶん」


 結衣さんは満足したように、寝具の中へ戻りました。


 しばらくして、また顔だけをこちらへ向けます。


「日向さん」


「はい」


「あかり、消えない?」


「消えませんよ」


「さっき、久世さん、した?」


「はい。久世くんがちょうどよくしてくれました」


「ちょうど?」


「明るすぎなくて、暗すぎないくらいです」


 結衣さんは壁の灯りを見て、それから小さくうなずきました。


「じゃあ、こわくない」


「はい。こわくありません」


「日向さん、いる?」


「いますよ。眠るまで、ここにいます」


「うん」


 結衣さんは、ようやく目を閉じました。


 直哉は壁際に立ったまま、少しだけその灯りを見ていました。


 何を考えているのかは分かりません。


 ただ、手を下ろすのが少し遅かったように見えました。


「久世くん」


 声をかけると、直哉はすぐにこちらを見ました。


「うん?」


「いえ」


 言いかけて、止めました。


 悠人さんも結衣さんも、まだ起きています。


 今、聞くことではありませんでした。


「ありがとう」


 代わりにそう言うと、直哉はうなずきました。


「おやすみ」


「おやすみなさい」


「おやすみ」


 悠人さんが言いました。


「すみ」


 結衣さんも、小さく言いました。


 直哉は部屋を出ていきました。


 私は二人が眠るまで、しばらくそばにいました。


 小さな灯りは、壁の低い位置でついたままでした。


 明るすぎず、暗すぎず。


 結衣さんが決めた灯りです。


 それだけで、さっきまでと同じ明るさでも、違うもののように見えました。


 悠人さんの呼吸が深くなりました。


 結衣さんも、灯りを気にしなくなりました。


 二人が眠ったのを確かめてから、私は立ち上がりました。


 居間へ戻ると、直哉が起きていました。


 何かをしているわけではありません。


 ただ、椅子に座っていました。


 灯りはついたままでした。


 私が戻ると、直哉は少し遅れて顔を上げました。


「寝た?」


「はい」


「そっか」


 その返事は、いつもより少し遅く聞こえました。


 私は向かいに座りました。


 直哉は少しだけ姿勢を直しました。


「千鶴?」


 呼ばれて、私は顔を上げました。


 子どもたちが眠ったあとの名前でした。


 まだ少し慣れません。


 でも、返事はできました。


「はい」


「どうしたの?」


「話をしてもいいですか」


「うん」


 居間の灯りは、子ども部屋の灯りより明るいものでした。


 それでも夜の部屋では、直哉の目元に薄い影ができていました。


「水城さんから聞きました」


 直哉は、すぐには何も言いませんでした。


「直哉が、疲れていること」


「水城が言ったんだ」


「はい」


「そっか」


 直哉は困ったように笑いました。


「水城らしいな」


「疲れていますか」


 直哉は少し黙りました。


 その沈黙を、私は見ました。


 以前なら、そこで答えを待たずに、自分で引いていたと思います。


 聞いてはいけないことだったかもしれない。


 困らせているかもしれない。


 そう思って、別の話に変えたと思います。


 でも、その日は黙ったままでいました。


「大丈夫だよ」


 直哉は言いました。


 私は、首を横に振りました。


「大丈夫だけでは、分かりません」


 直哉が少し驚いた顔をしました。


 自分でも、強い言い方だったと思いました。


 けれど、取り消しませんでした。


「水城さんは、直哉が平気な顔をしていると言いました」


「うん」


「私には、平気なのかどうかも分かりません」


「千鶴」


「だから、聞いています」


 直哉は視線を落としました。


 灯りが、机の上に淡い影をつくっていました。


「君たちに心配をかけたくなかった」


 しばらくして、直哉は言いました。


「私たちに、ですか」


「うん」


 直哉は少しだけ子ども部屋の方を見ました。


「千鶴にも。悠人さんと、結衣さんにも」


「心配はします」


「うん」


「何も知らないままだと、もっとします」


 直哉は黙りました。


 私は膝の上で手を重ねました。


「知らないまま待つのは、あまり得意ではありません」


 その言葉を口にしてから、自分でも少し驚きました。


 待つこと。


 知らされないこと。


 何もできないまま、誰かの言葉だけを信じること。


 私はそれが苦手でした。


 ずっと前から。


「千鶴に、自分たちのせいだと思わせたくなかった」


 直哉は静かに言いました。


「思います」


 私は答えました。


 直哉が顔を上げました。


「言われなくても、思います。直哉が疲れているのを見れば、私たちがいるからだと思います」


「それは違う」


「違うと言われても、思います」


 直哉は言葉を止めました。


「だから、何も知らない方が怖いです」


 私は続けました。


「何が起きているのか分からないまま、大丈夫だと言われると、信じるしかありません」


「信じるしか」


「はい」


「それは、怖い?」


「怖いです」


 直哉は、深く息を吐きました。


 疲れている人の息でした。


 その時、ようやく少しだけ、水城さんが言っていたことが分かった気がしました。


 直哉は、平気な顔をしていたのではありません。


 平気な顔をしようとしていたのだと思いました。


「周りから、何か言われているんですか」


 私は聞きました。


「水城さんは、目を覚ませと言われることもあると」


「ああ」


 直哉は小さく苦笑しました。


「言われることはあるよ」


「そうですか」


「でも、そんなに変な話じゃないと思う」


「変な話ではない?」


「心配して言う人もいるし、忠告のつもりで言う人もいる。何をしているんだって呆れる人もいる」


「はい」


「全部が敵みたいな話じゃないよ」


 直哉は、そこだけ少しはっきり言いました。


「僕も、そう思ってない」


「はい」


「ただ、毎回ちゃんと受け止めると、少し疲れる」


 直哉はそこで、やっと笑いました。


 弱い笑い方でした。


「情けないけど」


「情けなくはありません」


「そうかな」


「はい」


 直哉は何か言いかけて、やめました。


 その顔を見て、私は少しだけ分かりました。


 きっと直哉は、私たちの前に持ってこないようにしていたのだと思います。


 言われた言葉。


 心配されたこと。


 呆れられたこと。


 怒られたこと。


 その全部を。


 私たちに心配をかけないために。


 私に、自分のせいだと思わせないために。


「水城さんは、直哉を見ていますね」


 私が言うと、直哉はうなずきました。


「昔からね」


「怒るのですか」


「怒るよ」


「想像できます」


「千鶴にも怒ったことある?」


「あります」


「やっぱり」


 直哉は少しだけ笑いました。


「でも、水城だけじゃないよ」


「はい」


「普通に話せる友人もいる」


 その言い方は、特別なことを言う声ではありませんでした。


 自分の周りにあるものを、ただ一つ思い出したような声でした。


「そうなんですね」


「うん」


「その方も、直哉を心配しているんですか」


「たぶんね」


 直哉は少し考えました。


「賛成してるかは分からないけど、話は聞いてくれる」


「そうですか」


「今度紹介するよ」


「はい」


 そこで直哉は、少しだけ息を吐きました。


 友人の話をしたから楽になった、というより、そこまで話したことで力が抜けたように見えました。


「直哉」


「うん」


「今日は、疲れていますか」


 直哉は、今度はすぐに答えませんでした。


 けれど、さっきより長い沈黙ではありませんでした。


「うん」


 小さく、直哉は言いました。


「今日は、少しまいってる」


「はい」


「だから、今日はもう休むよ」


「はい」


「千鶴も、休んで」


「そうします」


 直哉は立ち上がりました。


 灯りの下から離れると、顔の影が少し濃くなりました。


 でも、もう見えないとは思いませんでした。


「おやすみ、千鶴」


「おやすみなさい、直哉」


 直哉は自分の部屋へ向かいました。


 私は居間に残りました。


 灯りはまだついていました。


 さっき、結衣さんは暗いのを嫌がりました。


 小さな灯りがあるか、何度も確認しました。


 大人でも、同じなのかもしれません。


 何も見えないままより。


 少しだけでも見えている方が、怖くない。


 直哉は疲れていました。


 それを、私たちに心配させたくなくて隠していました。


 水城さんは、それに気づいていました。


 私は灯りを消しました。


 部屋が暗くなりました。


 子ども部屋には、小さな灯りが残っています。


 居間は暗くなっても、その灯りだけが、廊下の向こうで静かについていました。


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