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第21話木陰


 子どもたちが眠ったあと、部屋は急に広くなりました。


 昼間はあれだけ声がしていたのに、夜になると、同じ部屋でも別の場所のように感じます。


 悠人さんの声。


 結衣さんの足音。


 直哉の返事。


 そういうものがひとつずつなくなると、残った静けさの中で、自分の呼吸まで少し大きく聞こえました。


 直哉は窓の近くに立っていました。


 外を見ているわけではなく、ただそこに立っているように見えました。


「日向さん」


 呼ばれて、私は顔を上げました。


「はい」


 直哉は少しだけ言いにくそうにしました。


 それだけで、何かあったのかと思ってしまいます。


 でも、直哉は困ったように笑いました。


「いや、そんな大した話じゃないんだけど」


「はい」


「その」


 直哉は一度、視線を外しました。


「ずっと、日向さんって呼ぶのかなと思って」


 私は少し遅れて、その意味を理解しました。


「私を、ですか」


「うん」


「駄目ですか」


「駄目じゃない。駄目じゃないんだけど」


 直哉は、言葉を探すように少し黙りました。


「二人の時くらいは、名前で呼んでもいいのかなって」


 名前。


 その言葉を聞くと、胸の奥が少しだけ静かに揺れました。


 日向さん。


 千鶴。


 どちらも私の名前です。


 けれど、同じではありません。


 センターでは、日向さんでした。


 職員からも、子どもたちからも。


 そこに悪意はありませんでした。


 決められた呼び方でした。


 でも、決められた呼び方が長く続くと、それが自分の形になってしまうことがあります。


「千鶴さん」


 直哉は小さく言いました。


 聞き慣れない響きでした。


 自分の名前なのに、すぐには返事ができませんでした。


「……さん、なんですね」


「呼び捨ては、急に怒られそうで」


「誰にですか」


「千鶴さんに」


 私が少し笑うと、直哉もほっとしたように笑いました。


「今、呼びましたね」


「練習」


「練習ですか」


「たぶん、必要だと思う」


「久世くんでも、練習が必要なんですね」


「必要だよ。かなり」


 直哉は少しだけ耳を赤くしていました。


 それを見ると、私の方も落ち着かなくなりました。


「では、私は」


「うん」


「何と呼べばいいのでしょう」


「呼びやすい方で」


「それが一番難しいです」


「そうかな」


「はい」


 私は膝の上の手を見ました。


 久世くん。


 ずっとそう呼んできました。


 学校にいた頃から。


 公園で再会した日も。


 センターで、あの部屋に現れた日も。


 ここで暮らし始めてからも。


 直哉と呼ぶには、近すぎる気がしました。


 直哉さんと呼ぶには、少しあらたまりすぎている気もしました。


 でも、どちらも間違いではありません。


「直哉さん」


 言ってから、自分の声が思っていたより小さいことに気づきました。


 直哉は、少しだけ目を見開きました。


「はい」


 返事をされると、急に恥ずかしくなりました。


「変ですね」


「変?」


「いえ。変ではありません。慣れないだけです」


「僕も」


「直哉さんもですか」


「うん。千鶴さんも」


 名前が二つ、静かな部屋に並びました。


 それだけのことなのに、部屋の中の距離が少し変わった気がしました。


 近づいたというより、今まで触れずにいた場所に、そっと明かりが届いたようでした。


「子どもたちの前では」


 直哉が言いました。


「今まで通りでいいかな」


「はい」


「急に変えると、結衣さんが全部聞くと思う」


「聞きますね」


「悠人さんも、理由を聞くと思う」


「聞きます」


「じゃあ、二人の時だけ」


「はい」


 そう決めると、少し安心しました。


 全部を一度に変えなくていい。


 変えられるところだけ、少しずつ変えていく。


 それなら、今の私にもできる気がしました。


「千鶴さん」


 直哉が、もう一度呼びました。


「はい」


 今度は返事ができました。


 直哉はそれだけで、少し笑いました。


「呼んだだけ」


「そうですか」


「うん」


 私は少し迷ってから、同じように呼びました。


「直哉さん」


「はい」


「呼んだだけです」


「うん」


 その夜は、それ以上のことは何もありませんでした。


 それでも私は、眠る前までずっと、自分の名前の響きを思い出していました。


 翌日からも、生活は大きくは変わりませんでした。


 子どもたちの前では、直哉は私を日向さんと呼び、私は直哉を久世くんと呼びました。


 悠人さんも、結衣さんも、それを当たり前のように聞いています。


 けれど、子どもたちが眠ったあと。


 ふとした時に、直哉が私を千鶴さんと呼ぶことがありました。


 そのたびに、私は少しだけ返事が遅れました。


 遅れても、直哉は急かしませんでした。


 私も、少しずつ、直哉さんと呼ぶことに慣れていきました。


 慣れていく、というより。


 その名前を口にするたび、ここがセンターではないことを、もう一度確かめているようでした。


 それから数日後、朝の支度をしている時でした。


 結衣さんは、外へ行く日かどうかを気にしていました。


「そと?」


「今日はまだ分かりません」


「まだ?」


「まだです」


「あとで?」


「あとで分かります」


 結衣さんはその答えでは納得しない顔をしました。


 最近の結衣さんは、外へ行くかどうかを朝から気にします。


 外へ行く日は、歩く道も、見るものも、家の中とは違います。


 怖がっているわけではありません。


 ただ、決まる前から知りたがるようになりました。


 悠人さんは、絵本を棚に戻しながら言いました。


「久世さんに聞けばいい」


「久世さん」


 結衣さんが直哉を探すように部屋を見ました。


 直哉は台所から顔を出しました。


「何?」


「そと?」


「外か」


 直哉は少しだけ考えました。


「今日、少し公園に行こうか」


「こうえん」


「うん」


「すな?」


「砂場もある」


「すべる?」


「滑り台もある」


「いく」


 結衣さんはすぐに決めました。


 悠人さんも顔を上げます。


「川、作れる?」


「作れると思う」


「じゃあ、行く」


 直哉は二人の返事を聞いてから、私を見ました。


「それと」


「はい」


「水城が、千鶴さんに会ってみたいって言ってた」


 名前を呼ばれたことと、その名前が出たことが重なって、私は少し反応が遅れました。


「水城さんが、ですか」


「うん」


 直哉はすぐに言い足しました。


「無理にとは言ってない。会ってもいいなら、って」


 水城玲奈。


 白い制服を着ていた頃の、同級生。


 直哉のことを好きだった人。


 私に、逃げるなと言った人。


 その名前は、思っていたより遠くにはありませんでした。


「どうして」


「僕が少し話したからだと思う」


「私のことをですか」


「全部じゃないよ」


 直哉は、台所の火を弱めました。


「ここで暮らしてること。悠人さんと結衣さんも一緒にいること。そのくらい」


「そうですか」


「嫌なら断る」


「水城さんは」


 私は少し考えました。


「久世くんから見て、私に会いたいと言いそうですか」


 子どもたちの前だったので、私は久世くんと言いました。


 直哉もそこには触れませんでした。


「言いそうではある」


「そうなんですね」


「でも、勝手に踏み込む感じではなかった」


「はい」


「千鶴さんが会ってもいいなら、って」


 直哉はそこで、また少しだけ私の名前を呼びました。


 子どもたちは、砂場の話をしていて聞いていません。


 それでも、私は少しだけ目を伏せました。


「会います」


 私が言うと、直哉は少し驚いた顔をしました。


「いいの?」


「はい」


「今日じゃなくても」


「今日で大丈夫です」


「分かった」


 直哉はうなずきました。


「じゃあ、伝えておく」


 昼過ぎに、公園へ行くことになりました。


 結衣さんは、出かける前に何度も靴を見に行きました。


 悠人さんは、砂場で何を作るかを考えているようでした。


 私は支度をしながら、鏡の前で少しだけ立ち止まりました。


 水城さんに会う。


 そう思うと、白い制服の頃の自分が少しだけ戻ってくる気がしました。


 図書室。


 廊下。


 坂道。


 水城さんのまっすぐな声。


 私はあの頃から、どれくらい変わったのでしょう。


 変わったと思いたいところもあります。


 でも、変わっていないところもあります。


 その両方を、今日、水城さんに見られるのだと思いました。


「日向さん」


 結衣さんが呼びました。


「はい」


「いく?」


「行きますよ」


「くつ」


「靴を履きましょう」


 玄関で結衣さんの靴を見ていると、直哉が上着を持って出てきました。


 悠人さんはすでに片方の靴を履いています。


「結衣さん、反対」


 悠人さんが言いました。


「はんたい?」


「線が外」


「せん、そと」


 結衣さんは真剣な顔で靴を持ち替えました。


 私はそれを見て、少しだけ笑いました。


 公園へ向かう道では、結衣さんが私の手を握り、悠人さんは直哉の少し前を歩きました。


 直哉は時々、歩幅をゆるめます。


 子どもたちは、それぞれ違うものを見ています。


 結衣さんは花。


 悠人さんは道の先。


 直哉はその二人。


 私は、三人の少し後ろ。


 それが最近の歩き方でした。


 公園は、いつもの公園でした。


 広い園路の向こうに、遊具広場があります。


 木陰の下にはベンチが並び、芝生の方では別の子どもたちが走っています。


 悠人さんは迷わず砂場の方へ行きました。


「今日は川」


「この前の続きですか」


「前のはないから、新しい続き」


「また新しい続きなんですね」


「うん」


 結衣さんは滑り台を見て、少し迷ったあとで砂場に向かいました。


「すな、先」


「滑り台はあとですか」


「あと」


 直哉は二人についていきました。


 砂場の近くでしゃがみ、悠人さんに細い枝を渡しています。


 結衣さんは砂を集めて、小さな山を作り始めました。


 私は少し離れたところでそれを見ていました。


 その時、後ろから声がしました。


「日向さん」


 振り返ると、水城さんが立っていました。


 白い制服ではありません。


 淡い色の上着を着て、髪も少し伸びています。


 けれど、立ち方は昔のままでした。


 背筋が伸びていて、こちらを見る目がまっすぐです。


「久しぶり」


「……水城さん」


「ええ」


 水城さんは、私を見ました。


 顔を見て、服を見て、それからまた顔を見ました。


「久世から聞いてはいたけど、こうして会うと、少し変な感じね」


「私もです」


「そう。なら、同じね」


 水城さんは公園の方へ視線を移しました。


 直哉は悠人さんの川を見ながら、何かを聞いています。


 結衣さんは砂の山に小さな葉を乗せようとしていました。


「子どもたちは?」


「悠人さんと、結衣さんです」


「そう」


 水城さんは、それ以上すぐには聞きませんでした。


 私は少しだけ息を吐きました。


 聞かれること自体が怖いわけではありません。


 ただ、何をどう聞かれるのかが分からない時、体の奥が少し固くなります。


 水城さんは、そういう聞き方をしませんでした。


「少し歩く?」


「はい」


 私たちは遊具広場から少し離れた方へ歩きました。


 木陰にベンチがあります。


 遊具が見える距離でした。


 遠すぎず、近すぎない場所です。


 水城さんは、私が座ってから隣に座りました。


「元気そうね、とは言わない方がいいわね」


 私は少しだけ水城さんを見ました。


 水城さんは、こちらを見ずに遊具の方を見ていました。


「でも、会えてよかったとは思ってる」


「……ありがとうございます」


「お礼を言われることではないわ」


「はい」


「相変わらずね」


 その言い方は、少しだけ昔のままでした。


 白い制服の頃、廊下で聞いた声に似ています。


 水城さんは、直哉の方を見たまま言いました。


「久世、最近ちゃんと寝てる?」


 私はすぐには答えられませんでした。


「寝ていると、思います」


「思います、なのね」


「私には、そう見せています」


「でしょうね」


 水城さんは、短く息を吐きました。


「あいつ、そういうところあるもの」


「水城さんから見ても、疲れていますか」


「疲れてるわ」


 はっきりと言いました。


 責める声ではありませんでした。


 でも、曖昧にもしてくれませんでした。


「大学で見かけても、前より少し顔色が悪い。話していても、時々返事が遅い。本人は平気な顔をしてるけど」


「そうですか」


「あなたが悪いと言っているわけじゃないわ」


 私は膝の上で手を握りました。


「はい」


「でも、久世が何も言わないなら、あなたには見えにくいでしょう」


「見えにくい、ですか」


「ええ。あいつは、近い相手には余計に平気な顔をすると思うから」


 遊具広場の方で、悠人さんが直哉に何かを言いました。


 直哉は少し困った顔をして、うなずいています。


 結衣さんが、砂のついた手を直哉に見せていました。


 その顔は、いつもと同じに見えました。


 穏やかで、少し困っていて、優しい顔です。


「水城さんは、どうしてそれを私に?」


「久世に言っても、たぶん聞かないから」


「聞かない」


「聞いている顔はするわよ」


 水城さんは少しだけ口元を緩めました。


「でも、聞いた上で自分の中にしまう」


「……分かる気がします」


「でしょうね」


 水城さんは私の方を見ました。


「日向さん」


「はい」


「久世の周りにいる人たちが、みんな同じように受け止めているわけではないわ」


 私は水城さんを見ました。


 水城さんは、言葉を選ぶように少し黙りました。


「あなたたちのことを、詳しく知っている人ばかりじゃない。知っていても、分かる人ばかりじゃない」


「はい」


「久世に、目を覚ませ、みたいなことを言う人もいる」


 目を覚ませ。


 その言葉は、少し遠くから聞こえたような気がしました。


 直哉に向けられる言葉。


 私にではなく。


 直哉に。


「久世くんに、ですか」


「ええ」


「どうして」


「どうして、と思うのね」


 水城さんは静かに言いました。


 私は少し考えました。


 どうして。


 そう思った自分に、少し遅れて気づきました。


 私は、直哉が私たちと暮らしていることを、毎日の生活の中で見ていました。


 朝、子どもたちに返事をすること。


 外へ行く時に歩幅を合わせること。


 帰ってきた時に、ただいまと言うこと。


 夜、私を千鶴さんと呼ぶこと。


 そのどれもが、私にはここにあるものです。


 けれど外から見れば、そうではないのかもしれません。


 直哉が、センターを出た私と、二人の子どもと暮らしていること。


 それを、当然とは思わない人がいる。


「私は」


 言いかけて、止まりました。


 水城さんは急かしませんでした。


「私は、久世くんに、無理をさせているのでしょうか」


「それは、久世が決めることよ」


 水城さんはすぐに答えました。


「少なくとも、私が決めることではないわ」


「はい」


「でも」


 水城さんは遊具広場の方を見ました。


 直哉が、結衣さんの手についた砂を払っています。


 悠人さんは、作った川の説明を続けています。


「久世だけが考えればいい話じゃないと思うわ」


 その言葉は、強くはありませんでした。


 命令でもありません。


 ただ、木陰に置かれた小さな石のように、そこに残りました。


「私も、ですか」


「あなたがどうしたいかも、必要になると思う」


「どうしたいか」


「ええ」


 私は膝の上の手を見ました。


 どうしたいか。


 そう聞かれると、すぐには答えられませんでした。


 センターでは、どうしたいかを聞かれることはあまりありませんでした。


 聞かれても、選べる範囲は決まっていました。


 今は違うはずです。


 違うはずなのに、何を選べばいいのか、すぐには分かりません。


「昔」


 水城さんが言いました。


「私は、あなたに久世のところへ行けと言ったわね」


「覚えています」


「本当に行くとは思わなかったけど」


「そうなんですか」


「半分くらいは」


 水城さんは少しだけ笑いました。


「でも、行ってよかったと思ってる」


「私は」


 私は遊具広場の方を見ました。


 直哉は悠人さんの話を聞き、結衣さんが作った小さな山を見ています。


「その次の日に、行けなくなりました」


「聞いたわ」


 水城さんは短く言いました。


「久世から」


「そうですか」


「あなたが悪いとは言ってなかった」


「久世くんは、そう言うと思います」


「でしょうね」


 水城さんは少し沈黙しました。


 風が木の葉を揺らしました。


 木陰は涼しく、公園の声が少し遠く聞こえました。


「日向さん」


「はい」


「私は、あなたを可哀想だと言いに来たわけじゃない」


「はい」


「久世を止めに来たわけでもない」


「はい」


「ただ、あいつが無理をしているなら、誰かが気づいた方がいいと思っただけ」


 水城さんはそこで、少しだけ私を見ました。


「あなたに言うべきかは迷ったけど」


「なぜ、私に」


「あなたが一番近くにいるから」


 近く。


 その言葉に、胸の奥が少し揺れました。


 私は直哉の近くにいる。


 同じ部屋で暮らしている。


 子どもたちが眠ったあと、名前を呼ばれる。


 名前を呼び返す。


 それなのに、直哉の外側で何が起きているのかを、私はあまり知りませんでした。


「私は、何をすればいいのでしょう」


「それは知らないわ」


 水城さんはあっさりと言いました。


 私は少し驚きました。


「知らない、ですか」


「ええ。私が決めることじゃないもの」


 水城さんは膝の上で指を組みました。


「ただ、考えないでいると、久世は一人で決めると思う」


「一人で」


「そういうところがあるわ」


 私は直哉を見ました。


 直哉は、悠人さんに何かを言われて、少し大げさにうなずいていました。


 結衣さんが笑っています。


 その姿だけを見ると、疲れているようには見えません。


 でも、水城さんが言ったことを聞いたあとでは、少し違って見えました。


 直哉の笑顔の奥に、薄い影のようなものがある気がしました。


 私が気づこうとしていなかっただけかもしれません。


「水城さん」


「何?」


「水城さんは、久世くんの味方ですか」


 水城さんは、少しだけ眉を動かしました。


「難しいことを聞くのね」


「すみません」


「謝らなくていいわ」


 水城さんは遊具広場の方を見ました。


「味方というより、知っているだけ」


「知っている」


「久世がどういう人か。あなたが、どういう顔であいつを見ていたか。昔のことを、少しだけ」


 私は答えませんでした。


「だから、完全に他人の顔はできない」


 水城さんはそう言いました。


「それだけよ」


 その言葉は、優しさとは少し違いました。


 けれど、冷たくもありませんでした。


 水城さんは立ち上がりました。


「そろそろ戻りましょう。結衣さんが、こっちを見てる」


 見ると、結衣さんが直哉のそばからこちらを見ていました。


 手に砂がついたままです。


「あ」


 私は立ち上がりました。


「呼んでいますね」


「ええ。行った方がいいわ」


 私たちは遊具広場の方へ戻りました。


 結衣さんは私を見ると、すぐに走ってきました。


「日向さん」


「はい」


「山」


「できましたか」


「できた」


「見に行きます」


 私は結衣さんに手を引かれて、砂場の方へ行きました。


 小さな山の上に、葉が一枚乗っています。


 悠人さんの川は、その横を曲がっていました。


「こちらが山で、こちらが川ですね」


「うん」


「海は?」


「まだ」


 悠人さんが言いました。


「あとで海」


「間に合いますか」


「急ぐ」


「走らない急ぎ方でお願いします」


「砂場で急ぐ」


「それならいいです」


 直哉が、私の方を見ました。


「話せた?」


「はい」


「そっか」


 直哉は、水城さんを見ました。


「ありがとう」


「別に。私は少し話しただけ」


「うん」


「久世」


 水城さんが言いました。


 直哉が顔を上げます。


「ちゃんと寝なさいよ」


 直哉は一瞬だけ困った顔をしました。


「寝てるよ」


「そういう返事をする時は、だいたい足りてない」


「水城は厳しいな」


「昔からでしょう」


「そうだったかも」


 直哉は笑いました。


 いつもの笑顔でした。


 でも私は、その笑顔をさっきとは同じように見られませんでした。


 水城さんは、結衣さんの作った山を見ました。


「きれいね」


 結衣さんは少しだけ私の後ろに隠れました。


「やま」


「ええ。山」


 悠人さんが直哉の横から言いました。


「水城さんも、久世さんのお友達?」


 水城さんは少し考えました。


「そうね。昔からの知り合い」


「ともだちじゃない?」


「友達でいいわ」


 悠人さんはうなずきました。


「久世さん、友達いた」


「いるよ」


 直哉が少し笑いました。


「失礼だな」


「だって、ここには来ない」


「今日は来ただろ」


「水城さん来た」


「そう」


 悠人さんは納得したようでした。


 水城さんは、そのやり取りを見ていました。


 何かを言いかけたようにも見えましたが、結局言いませんでした。


 しばらくして、水城さんは帰ることになりました。


「また会うかは、日向さんが決めて」


 水城さんは言いました。


「私がですか」


「ええ。久世じゃなくて」


 私は少しだけ迷ってから、うなずきました。


「はい」


「じゃあ、また」


「また」


 その言葉を返したあと、胸の奥が少しだけ痛みました。


 また。


 昔、直哉と交わした言葉。


 もう会えないと分かっていて、公園で言った言葉。


 今、水城さんに返した「また」は、そのどれとも違いました。


 約束ではありません。


 けれど、嘘でもありませんでした。


 水城さんが園路を歩いていくのを見送りました。


 その背中は、昔より少し大人になっていました。


 けれど、まっすぐでした。


 帰り道、悠人さんは今日の川の話をしました。


 結衣さんは途中で眠くなり、直哉に抱えられました。


 直哉は何も言わずに歩いていました。


 いつもより少し静かでした。


「久世くん」


 私は声をかけました。


「うん?」


「疲れていますか」


 直哉は、すぐに大丈夫とは言いませんでした。


 少しだけ黙ってから、答えました。


「少しだけ」


 その答えに、水城さんの言葉を思い出しました。


 久世だけが考えればいい話じゃないと思うわ。


「そうですか」


「うん」


「帰ったら、今日は早めに休んでください」


「日向さんも」


「私は休んでいます」


「本当に?」


「最近、疑われていますね」


「お互い様かな」


 直哉は少し笑いました。


 その笑い方は、いつもより弱く見えました。


 でも、隠されてはいませんでした。


 私はそれだけで、少しだけ安心しました。


 部屋に戻ると、結衣さんは眠いまま水を飲みました。


 悠人さんは、砂場の川が途中だったことを少し気にしていました。


「海まで行かなかった」


「また作れますよ」


「新しい続き?」


「はい。新しい続きです」


 悠人さんはそれを聞いて、少しだけ安心したようでした。


 夜、子どもたちが眠ったあと、私は居間に戻りました。


 直哉は椅子に座っていました。


 今日は、いつもより少し背中が丸く見えます。


「直哉さん」


 呼ぶと、直哉は顔を上げました。


 昼間の名前とは違う、夜の名前でした。


「うん」


「今日は、休んでください」


「千鶴さんも」


「はい」


 直哉は少しだけ笑いました。


 名前を呼ぶ時の笑い方でした。


 けれど、その笑顔の奥に、水城さんの言葉が残っていました。


 私は、まだそれをどうすればいいのか分かりませんでした。


 近くにいる。


 そう言われたのに、見えていないものがある。


 そのことだけが、木陰から持ち帰った影のように、部屋の中に残っていました。


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