第20話少しずつ
直哉が「ただいま」と言うことは、一度だけではありませんでした。
翌日も。
その次の日も。
夕方になると、玄関の鍵が鳴りました。
扉が開き、靴を脱ぐ音がして、
「ただいま」
と聞こえました。
最初に走っていくのは、いつも悠人さんでした。
「おかえり」
少し遅れて、結衣さんが続きます。
「おかえり」
私は、最初の頃、少しだけ遅れました。
「……おかえりなさい」
言うたびに、直哉は同じように笑いました。
「ただいま」
その言葉は、毎日同じでした。
けれど、毎日少しずつ違って聞こえました。
雨の日は、直哉の肩が濡れていました。
暑い日は、玄関に立ったまま水を飲みました。
荷物の多い日は、悠人さんが鞄を持とうとして、すぐに重さで諦めました。
結衣さんは、直哉が帰ってくるたび、自分の髪留めを見せました。
「はな」
「うん。今日も花だね」
「日向さんは?」
「私は付けていません」
「今日は家の中だから?」
「はい」
「外へ行く時だけ?」
「そうです」
何度か同じやり取りをしました。
そのたびに直哉は、少しだけ楽しそうにしました。
だから、外へ行く日には、私は黄色い花の髪留めを付けるようになりました。
結衣さんが自分の髪留めを指して、
「いっしょ」
と言います。
「形は少し違いますよ」
「いっしょ」
「では、一緒です」
玄関の鏡で二つの花が並ぶと、結衣さんは満足そうにうなずきました。
悠人さんは、直哉に積み木の道の作り方を教えました。
「そこは曲がる」
「ここ?」
「違う。そこは車が落ちる」
「車が落ちるんだ」
「落ちる」
「じゃあ、こっち?」
「そこは結衣さんの花」
「花は踏まない方がいい?」
「踏まない」
「難しいな」
最初は何度も直されていた直哉も、少しずつ間違えなくなりました。
台所の前では道を曲げる。
玄関の近くには、黄色い積み木を置く。
結衣さんが道の上に座った時は、橋にする。
直哉がそれを覚えると、悠人さんは少し得意そうにしました。
「久世さん、分かってきた」
「先生がいいから」
「僕?」
「うん」
「日向さんも、分かる?」
「私はまだ、よく間違えます」
「日向さんも練習」
「はい。練習します」
練習することは、たくさんありました。
洗濯物を干すこと。
干したものを畳むこと。
子どもたちの服を、どの棚にしまうか決めること。
冷蔵庫の中のものを見て、何を作るか考えること。
料理の本には、少しずつ付箋が増えました。
直哉が付けたものではありません。
私が、自分で貼ったものです。
作れたもの。
まだ作っていないもの。
材料が足りなかったもの。
悠人さんが食べたもの。
結衣さんが黄色いものだけ先に食べたもの。
付箋の色に意味はありませんでした。
けれど、増えていくと、少しだけ安心しました。
「今日はこれ?」
直哉が帰ってきて、開いた料理本を見ました。
「はい」
「前に作ったやつだ」
「前回より、野菜を小さくしました」
「火の通り、よくなりそう」
「久世くんのようには揃いません」
「僕も揃ってないよ」
「揃っています」
「日向さんが思ってるほどじゃない」
直哉は鍋を覗きました。
「いい感じだと思う」
「味はまだ分かりません」
「じゃあ、あとで一緒に見る」
「はい」
最初は、途中で直哉に代わってもらうことが多くありました。
火加減。
味付け。
子どもたちが同時に声をかけてきた時。
鍋を見ているつもりで、結衣さんの黄色いタオルが居間の真ん中に移動していた時。
私は、何度も手を止めました。
それでも、夕食は少しずつできるようになりました。
直哉は、失敗したとは言いませんでした。
薄い時は、薄いと言いました。
硬い時は、硬いと言いました。
その上で、
「次は少し長めに煮ればいいかも」
と言いました。
直哉がそう言うと、失敗が終わりではなく、次に続くもののように聞こえました。
悠人さんは、夕食のたびに聞きました。
「日向さんが作った?」
「今日は、久世くんと一緒に作りました」
「二人で?」
「はい」
「昨日は?」
「昨日は、私が作って、久世くんが味を見てくれました」
「明日は?」
「まだ決めていません」
「明日も作る?」
「作るかもしれません」
「日向さん、作れるようになってる」
悠人さんは、そう言いました。
「少しずつです」
「少しずつ」
結衣さんも真似をしました。
「少しずつ」
その言葉は、部屋の中で何度も聞こえるようになりました。
結衣さんが自分でタオルを洗濯籠へ入れた時。
悠人さんが食器を棚へ戻せた時。
私が、直哉の帰る時間を何度も時計で確認しなくなった時。
直哉が帰ってきて、私がすぐに、
「おかえりなさい」
と言えた時。
言ったあとで、自分でも少し驚きました。
遅れなかった。
考える前に、言葉が出ました。
直哉も気づいたようでした。
けれど、何も言いませんでした。
ただ、いつもと同じように、
「ただいま」
と答えました。
私の部屋にも、少しずつ物が増えました。
最初は、机と寝台だけでした。
その上に、悠人さんがくれた絵を置きました。
黄色い花の髪留めは、結衣さんの髪留めと並べることが多かったので、私の部屋へ置くことはあまりありませんでした。
けれど、料理本に貼る付箋の余り。
買い物で使う小さな袋。
洗濯物を畳む時に使う布。
そういう小さなものが、机の端に置かれるようになりました。
「日向さんの部屋、少し物が増えたね」
ある夜、直哉が言いました。
「増えすぎないようにします」
「増えてもいいと思う」
「片付かなくなります」
「片付ければいい」
「簡単に言いますね」
「簡単ではないけど」
直哉は、私の部屋の入口から中を見ました。
「何もないより、少しある方がいいよ」
「そうでしょうか」
「うん」
私は机の上を見ました。
悠人さんの絵。
薄い緑のタオル。
付箋。
小さな袋。
どれも、センターから持ってきたものではありません。
この部屋で暮らし始めてから増えたものでした。
その日から、私は時々、自分の部屋で眠るようになりました。
最初の夜は、子ども部屋の扉を少しだけ開けておきました。
隣の部屋から、二人の寝息が聞こえるような気がしました。
実際には、ほとんど聞こえません。
それでも、扉が開いているだけで少し安心しました。
夜中に一度起きて、子ども部屋を見に行きました。
悠人さんは寝台の上で、布団を少し蹴っていました。
結衣さんは、黄色い寝具の中で丸くなっていました。
二人とも眠っていました。
私がいなくても。
眠っていました。
私は布団を直し、自分の部屋へ戻りました。
寝台に入ると、天井が見えました。
最初の日に見た、知らない天井ではありません。
もう何度も見た天井です。
それでも、自分の部屋で眠ることには、まだ少し慣れませんでした。
翌朝、結衣さんは起きてすぐに私を探しました。
「日向さん、ない」
「こちらにいます」
「どこで寝た?」
「私の部屋です」
「こっちじゃない」
「今日は、あちらで眠りました」
「また?」
「またの時もあります」
「こっち?」
「こちらで眠る時もあります」
結衣さんは少し考えました。
「日向さん、ある?」
「ありますよ」
「ならいい」
それだけ言って、私の服をつかみました。
悠人さんは、朝食の時に言いました。
「日向さんの部屋も、日向さんの場所?」
「そうですね」
「子ども部屋は、僕と結衣さんの場所?」
「はい」
「久世さんの場所は?」
「久世くんの部屋です」
「居間は?」
「みんなで使う場所です」
「じゃあ、いっぱいある」
「そうですね。いっぱいあります」
「センターより?」
私は少しだけ黙りました。
悠人さんは、何気なく聞いただけです。
比べようとしたわけではありません。
「センターより、決めることが多いです」
「決めるの、大変?」
「大変です」
「でも、決められる」
「はい」
私は、青い線の器を悠人さんの前に置きました。
「決められます」
その日の夕方も、直哉は帰ってきました。
「ただいま」
「おかえり」
「おかえり」
「おかえりなさい」
声が三つ重なりました。
直哉は玄関に立ったまま、少し笑いました。
「三人いると、すごいな」
「うるさいですか」
「全然」
直哉は靴を脱ぎました。
「いい」
短く、そう言いました。
その言い方が、少しだけ照れているように聞こえました。
不思議なもので、直哉も少しずつ変わっているようでした。
最初の頃は、何をするにも私に聞きました。
どこまで手伝っていいか。
子どもたちに何を言っていいか。
私がどうしたいか。
今も聞くことは変わりません。
けれど、全部が遠慮ではなくなりました。
「悠人さん、その積み木、こっちじゃない?」
「違う」
「違ったか」
「久世さん、まだ間違える」
「厳しいな」
「でも、昨日よりいい」
「少しずつ?」
「少しずつ」
直哉は、悠人さんとそんな話をしました。
結衣さんが黄色い髪留めを持ってくると、自然に受け取りました。
「日向さんに付けてもらおうか」
「久世さん」
「僕?」
「つける」
「僕が付けると、曲がるかも」
「つける」
結衣さんが動かなかったので、直哉は困ったように私を見ました。
「やってみてもいい?」
「はい」
直哉は結衣さんの髪に、黄色い花を付けました。
少し斜めでした。
「まっすぐ?」
結衣さんが聞きました。
「少しだけ斜めです」
私が言うと、直哉は慌てて直しました。
「これで?」
「まだ少し」
「難しいな」
「いつも簡単そうに見ていたんですか」
「日向さんが普通にやってるから」
「慣れです」
「僕も練習する」
「髪留めもですか」
「必要なら」
結衣さんは、鏡を見て満足そうでした。
「くぜさん、はな」
「合格?」
「うん」
直哉は少し安心した顔をしました。
その顔を見て、私は笑ってしまいました。
「日向さん、笑った」
悠人さんが言いました。
「笑っていません」
「笑った」
「少しだけです」
「久世さん、日向さん笑った」
「見た」
直哉まで言いました。
「見ないでください」
「無理かな」
そういう会話が、増えました。
何かが大きく変わったわけではありません。
それでも、少しずつ、部屋の中に音が増えました。
積み木の音。
水の音。
鍋の音。
結衣さんの「はな」。
悠人さんの「違う」。
直哉の「ただいま」。
私の「おかえりなさい」。
数週間が過ぎた頃には、朝の動きも少し決まってきました。
直哉が朝食を作る日。
私が作る日。
二人で作る日。
悠人さんが匙を並べ、結衣さんが自分の器を運ぶ日。
直哉が出かける前には、子どもたちが玄関まで見送りに行きます。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
「しゃい」
「いってらっしゃい」
私は、もう遅れませんでした。
その日も、同じように始まりました。
夕方には直哉が帰ってきて、四人で夕食を食べました。
私が作った料理でした。
直哉は、途中で少しだけ味を見てくれました。
「前より、ずっといい」
「前が悪かったということですか」
「そうじゃなくて」
「そう聞こえました」
「ごめん。でも本当に、よくなってる」
「少しずつです」
「うん。少しずつ」
子どもたちは、食後もしばらく積み木で遊びました。
悠人さんは、玄関へ続く道を作りました。
結衣さんは、黄色い花を並べました。
寝る時間になると、二人とも少し渋りましたが、本を二冊読むと眠くなりました。
その夜、私は子ども部屋で本を読みました。
一冊目は、乗り物の本。
二冊目は、動物の本。
悠人さんは、途中で何度も質問しました。
結衣さんは、犬の絵のところだけ何度も指差しました。
最後まで読み終える頃には、結衣さんの瞼が重くなっていました。
「日向さん」
悠人さんが小さな声で言いました。
「はい」
「今日は、どこで寝る?」
「私の部屋です」
「呼んだら来る?」
「はい。呼ばれたら行きます」
「すぐ?」
「すぐです」
「うん」
「何かあったら呼んでください」
「呼ぶ」
結衣さんは、ほとんど眠りながら私の袖をつかみました。
「日向さん、ある?」
「ありますよ」
「ある」
「はい。あります」
手をそっと外すと、結衣さんはすぐに眠りました。
私は二人の寝具を直しました。
悠人さんは、布団を少し蹴っていました。
結衣さんは、黄色い寝具の中で丸くなっています。
二人とも、よく眠っていました。
私は音を立てないように、子ども部屋の扉を閉めて廊下へ出ました。
居間の明かりは、まだ点いていました。
直哉が台所で、最後の片付けをしていました。
「寝た?」
「はい」
「悠人さん、今日は粘ったね」
「乗り物の本をもう一冊読みたかったようです」
「明日読めばいいか」
「明日、覚えていると思います」
「じゃあ、明日だ」
直哉は洗った鍋を拭いていました。
私は隣に立ちました。
「私がします」
「もう終わるよ」
「では、拭くものを」
「ありがとう」
濡れた器を受け取り、一つずつ拭きました。
青い線の器。
黄色い花の器。
白い器。
灰色の器。
毎日使うようになったので、棚の中の位置も決まっていました。
使って。
洗って。
拭いて。
戻す。
その繰り返しが、少しずつ手に馴染んできました。
「日向さん」
「はい」
「疲れてない?」
「少し」
「今日は早く休んだ方がいい」
「久世くんは?」
「僕も休むよ」
「本当ですか」
「最近、日向さんに疑われるな」
「休むと言ってから本を読んでいることがあります」
「ばれてたか」
「寝不足になります」
「気をつけます」
直哉は笑いました。
その横顔を見て、私は少しだけ黙りました。
直哉の顔を見ることにも、少しずつ慣れました。
公園で再会した時は、見るだけで息が止まりそうでした。
業務室で会った時は、見ているのに、見ていないふりをしたくなりました。
ここでは、毎日顔を見ます。
朝も。
夕方も。
夜も。
それでも、ふいに昔の直哉が重なることがありました。
図書室で本を読んでいた直哉。
坂道で振り返った直哉。
駅で「また明日」と言った直哉。
そして、今、濡れた器を拭く直哉。
同じ人なのに、同じではありませんでした。
「日向さん?」
直哉がこちらを見ました。
「何か付いてる?」
「いえ」
「じゃあ、どうしたの」
「少し、考えていました」
「何を?」
「久世くんは、久世くんなんだなと」
言ってから、自分でも意味が分からないと思いました。
直哉も少し困った顔をしました。
「僕は、僕だと思うけど」
「そうですね」
「でも、言いたいことは、少し分かる気がする」
「本当ですか」
「うん」
直哉は最後の器を棚へ戻しました。
「日向さんも、日向さんだよ」
「私は、変わりました」
「変わったと思う」
直哉は否定しませんでした。
「でも、日向さんだと思う」
その言い方が、静かでした。
慰めようとしている声ではありません。
ただ、見ているものをそのまま言っているようでした。
私は、手に持っていた布巾を畳みました。
「久世くん」
「うん」
「私の部屋ではなく」
言葉がそこで止まりました。
直哉は急かしませんでした。
水道の音も、もう止まっています。
居間も静かでした。
私は、もう一度言いました。
「久世くんの部屋へ行ってもいいですか」
直哉は、すぐには答えませんでした。
驚いたようにも見えました。
けれど、喜ぶより先に、表情が少し真剣になりました。
「日向さん」
「はい」
「無理してない?」
「していません」
「今日じゃなくてもいいよ」
「今日がいいです」
自分で言って、少しだけ息が浅くなりました。
直哉は、私から目を逸らしませんでした。
「本当に?」
「はい」
「僕が言わせたわけじゃない?」
「違います」
「怖くなったら、やめていい」
「はい」
「途中でも」
「はい」
「何もしなくてもいい」
「はい」
私は、少しだけ笑いました。
「久世くん」
「何?」
「確認が多いです」
「多くなるよ」
「そうですね」
多くて、よかったのだと思いました。
私は、触れられる前に聞かれることに、まだ慣れていませんでした。
やめていいと言われることにも。
途中でもと言われることにも。
何もしなくてもいいと言われることにも。
慣れていない言葉は、少し不安で、少し安心でした。
直哉の部屋へ入るのは、初めてではありませんでした。
掃除の時。
衣類を片付ける時。
必要なものを取りに行く時。
それでも、その夜は違いました。
部屋の明かりは、柔らかい色でした。
机の上には本がありました。
椅子の背には、直哉の上着がかかっています。
何度も見た部屋なのに、立っている場所が分からなくなりそうでした。
直哉は、すぐには近づきませんでした。
「座る?」
「はい」
寝台の端ではなく、椅子の方を示しました。
私は少しだけ迷って、椅子ではなく寝台の端に座りました。
直哉はそれを見て、息を飲んだようでした。
「日向さん」
「はい」
「触れてもいい?」
私は、うなずきかけて、言葉で答えました。
「はい」
直哉の手が、私の手に触れました。
それだけでした。
指先。
手の甲。
ゆっくり確かめるように触れました。
もっと重いことは、何度もありました。
それなのに、手に触れられるだけで、息の仕方が少し分からなくなりました。
直哉は、それ以上すぐには進みませんでした。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「大丈夫です」
私は、直哉の手を見ました。
昔、駅でつなぎそこねた手。
坂道で、少しだけ触れた手。
業務室で、触れられてしまった手。
今、私がここにいて、離さずにいる手。
同じ手なのに、同じではありませんでした。
「久世くん」
「うん」
「私は、逃げたいわけではありません」
直哉は、黙って聞いていました。
「でも、うまくできるかは分かりません」
「うまくしなくていい」
「そういうものですか」
「少なくとも、今は」
「今は?」
「日向さんが、ここにいたいと思えることの方が大事だと思う」
私は少しだけうつむきました。
「ここにいます」
直哉の手に、自分の指を重ねました。
「今は、ここにいたいです」
直哉は、ゆっくり息を吐きました。
それから、もう一度聞きました。
「近づいてもいい?」
「はい」
直哉が近づきました。
肩が触れる距離。
息が聞こえる距離。
額に触れる前にも、直哉は一度止まりました。
私は目を閉じませんでした。
逃げるためではなく、見ていたかったからです。
直哉の指が、私の頬に触れました。
それは業務ではありませんでした。
予定表もありません。
時間を告げる職員もいません。
終わったあとに記録する人もいません。
ここには、直哉と私だけがいました。
「日向さん」
「はい」
「嫌だったら、言って」
「言います」
「うん」
短い口づけでした。
昔、駅でできなかったことでした。
あの時の私は、恥ずかしくて逃げました。
今の私は、逃げませんでした。
恥ずかしさはありました。
怖さも、少しありました。
けれど、それだけではありませんでした。
直哉が離れたあと、私は自分の手が直哉の袖をつかんでいることに気づきました。
「すみません」
「謝らなくていい」
「つかんでいました」
「うん」
「気づきませんでした」
「離したい?」
私は、自分の手を見ました。
少し考えて、首を横に振りました。
「まだ」
「うん」
直哉は、それ以上何も言いませんでした。
私は、直哉の袖をつかんだまま、もう一度目を閉じました。
その夜、直哉は何度も聞きました。
私はそのたびに答えました。
大丈夫です。
嫌ではありません。
やめなくていいです。
言葉にするたび、自分の声が少しずつ自分のものに戻っていくような気がしました。
部屋の外には、いつもの居間がありました。
低い棚には、四つの器が並んでいます。
洗面所には、四人分のタオルがあります。
棚の上には、二つの黄色い花があります。
私は、どこかへ連れていかれるためではなく、この部屋にいるために目を閉じました。
翌朝、目を覚ました時、最初に見えたのは知らない天井ではありませんでした。
直哉の部屋の天井でした。
何度か見たことのある天井。
けれど、朝に見るのは初めてでした。
すぐ近くに、直哉が眠っていました。
少し離れた場所で、こちらに背を向けています。
私に触れたまま眠ってはいませんでした。
それが少しだけ、直哉らしいと思いました。
私は、しばらく動きませんでした。
怖くない。
最初に思ったのは、それでした。
そのことに、少し驚きました。
後悔ではありませんでした。
逃げたいとも思いませんでした。
ただ、朝になったのだと思いました。
私は静かに起き上がりました。
直哉を起こさないように寝台を降り、部屋を出ます。
子ども部屋を見に行くと、悠人さんも結衣さんも眠っていました。
悠人さんは、寝台の端に足を出していました。
結衣さんは、黄色い寝具を胸まで引き上げています。
二人とも、昨日の夜と同じように眠っていました。
私が部屋にいなくても。
朝まで眠っていました。
私は悠人さんの布団を直し、結衣さんの髪にかかった毛をそっと払いました。
「日向さん」
小さな声がしました。
振り返ると、直哉が廊下に立っていました。
寝起きの顔で、少しだけ気まずそうでした。
「起こしましたか」
「ううん。日向さんがいなかったから」
「二人を見に来ました」
「そっか」
直哉は子ども部屋を覗きました。
「まだ寝てる?」
「はい」
「よかった」
それから、私を見ました。
「大丈夫?」
その問いは、昨日と同じでした。
私は少しだけ考えました。
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
直哉は、安心したように息を吐きました。
「おはよう、日向さん」
「おはようございます」
呼び方は、何も変わりませんでした。
直哉は私を、日向さんと呼びました。
私は直哉を、久世くんと呼びました。
それでも、昨日までとまったく同じではありませんでした。
朝の光の中で見る部屋は、昨日より少しだけ近く感じました。
「朝ごはん」
直哉が言いました。
「作りますか」
「一緒に?」
「はい」
「じゃあ、一緒に」
台所へ並んで立ちました。
まだ子どもたちは起きていません。
部屋は静かでした。
冷蔵庫を開け、食材を取り出します。
直哉が皿を出し、私は鍋を出しました。
いつもの朝の準備です。
少しずつ覚えてきたこと。
少しずつできるようになったこと。
少しずつ、この部屋の中で迷わなくなってきたこと。
その中に、昨日の夜のことも、静かに混ざっていました。
特別な言葉にはなりませんでした。
大きな約束にもなりませんでした。
けれど、なかったことにはなりません。
私たちは、昨日より少しだけ近い場所で、朝食の準備を始めました。




