第19話ただいま
朝食を終えたあと、直哉は出かける支度をしました。
昨日買った器は、低い棚の中に並んでいます。
悠人さんの器。
結衣さんの器。
私の器。
直哉の器。
まだ一度しか使っていないのに、そこにあることが少し不思議でした。
「久世さん、どこ行くの?」
悠人さんが、積み木の箱の前から尋ねました。
「大学」
「大学?」
「学校みたいなところ」
「日向さんの学校?」
「日向さんが通ってたところとは違うよ」
直哉は靴下を直しながら答えました。
結衣さんは、昨日買った黄色い花の髪留めを握っています。
今日は外へ出る日ではありません。
それでも、朝から何度も棚の上を指差しました。
「はな」
「今日は家の中にいる日ですよ」
「はな」
「家の中でも付けたいんですか」
「つける」
私は少し迷ってから、結衣さんの髪へ黄色い花を付けました。
結衣さんは満足そうに、直哉の方へ歩いていきました。
「はな」
「うん。似合ってる」
「日向さんは?」
直哉が聞きました。
「私は付けません」
「そう」
「なぜ少し残念そうなんですか」
「昨日、似合ってたから」
「外へ行く時だけです」
「そっか」
直哉は笑って、それ以上は言いませんでした。
鞄を持ち、玄関へ向かいます。
悠人さんが積み木を置いて立ち上がりました。
「久世さん、帰ってくる?」
その質問に、私は少しだけ手を止めました。
直哉は、いつも通りの顔で振り返りました。
「帰ってくるよ」
「いつ?」
「夕方。暗くなる前には戻る」
「ほんと?」
「ほんと」
悠人さんは、まだ少し疑っているようでした。
「久世さんの部屋なのに?」
「僕の部屋だけど、日向さんたちもいるから帰ってくる」
「じゃあ、四人の部屋?」
直哉は一瞬だけ私を見ました。
私は、答えを待たれている気がしました。
「久世くんの部屋です」
そう言うと、悠人さんは首をかしげました。
「でも、日向さんのタオルある」
「ありますね」
「結衣さんのはなもある」
「あります」
「僕の器もある」
「あります」
「じゃあ、四人の部屋」
悠人さんは、そう決めました。
直哉は靴を履きながら、小さく笑いました。
「そうだね。四人の部屋」
その言葉に、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなりました。
直哉が扉に手をかけます。
「じゃあ、行ってくる」
「いってくる?」
結衣さんが繰り返しました。
「外へ行って、また戻ってくる時に言うんだよ」
「もどる?」
「うん」
「久世さん、もどる」
「戻るよ」
直哉は結衣さんへ手を振りました。
「日向さん、何かあったら連絡して」
「はい」
「昼の分は冷蔵庫に入れてある。温めるだけで食べられるから」
「分かりました」
「夕食は、帰ってから作るよ」
「いえ」
私は少しだけ考えてから言いました。
「夕食は、私が作ってみます」
直哉が瞬きをしました。
「無理しなくていいよ」
「無理ではありません。手順が分かれば、できると思います」
「昨日もそう言ってたけど」
「今日は時間があります」
「二人を見ながらだから、大変だと思う」
「できる範囲でやります」
直哉は、少し考えてから台所の方を見ました。
「料理の本、台所の棚にあるから。困ったらそれ見て」
「本ですか」
「うん。僕も最初はそれ見て作ってた」
「久世くんも?」
「最初からできたわけじゃないよ」
それは少し意外でした。
直哉は、昨日も今日も、当たり前のように台所に立っていました。
「難しくないやつにした方がいいと思う。炒めるだけとか、煮るだけとか」
「分かりました」
「火を使う時だけ気をつけて。分からなかったら、帰ってから一緒にやろう」
「はい」
「本当に、失敗しても大丈夫だから」
「失敗する前提で言わないでください」
「ごめん」
直哉は笑いました。
そして、もう一度言いました。
「行ってきます」
私は、その言葉に少し遅れて返しました。
「……いってらっしゃい」
悠人さんも続きました。
「いってらっしゃい」
「しゃい」
結衣さんも真似をしました。
扉が閉まりました。
廊下の足音が遠ざかります。
鍵の音。
エレベーターの小さな音。
それから、部屋の中が静かになりました。
誰かが出ていったあとの部屋。
けれど、いなくなったのではありません。
帰ってくる。
直哉は、そう言いました。
「日向さん」
悠人さんが言いました。
「久世さん、帰ってくる?」
「帰ってきます」
「夕方?」
「はい。夕方です」
「夕方って、いつ?」
「昼食を食べて、少し遊んで、夕食の前くらいです」
「夕食、日向さんが作る?」
「その予定です」
「お菓子?」
「夕食です」
「お菓子じゃないの?」
「お菓子ではありません」
「でも、日向さんはお菓子作れる」
「今日は夕食です」
「じゃあ、今度お菓子?」
「今度です」
悠人さんは、納得したように積み木の箱へ戻りました。
結衣さんは玄関を見ていました。
「久世さん、ない」
「出かけました」
「ない」
「夕方に戻ります」
「もどる」
「はい」
結衣さんは、その言葉をしばらく口の中で転がすようにしてから、居間へ戻りました。
午前中は、いつも通りに過ごしました。
けれど、いつも通りと言っても、まだこの部屋でのいつもは二日目でした。
洗濯物を洗濯籠へ入れる。
昨日買ったタオルを洗面所に置く。
子ども部屋の寝具を箱へ入れる。
悠人さんが作った積み木の道を、掃除のために少しだけ移動する。
一つずつ、どこに置くかを決めながら動きました。
センターでは、場所は決まっていました。
使うものも。
戻す場所も。
誰が何をするかも。
ここでは、分からないことが多すぎました。
「日向さん、ここは?」
悠人さんが、青い線のタオルを持って聞きました。
「洗面所です」
「使ったら?」
「洗濯籠へ入れます」
「帰ってくる?」
「タオルですか」
「洗ったら」
「はい。洗ったら戻します」
「タオルも帰ってくる」
「そうですね」
悠人さんは、タオルを洗面所へ置きに行きました。
結衣さんは、黄色い花のタオルを抱えています。
「結衣さん、それはまだ使いませんよ」
「はな」
「花は付いていますが、持ち歩くものではありません」
「もってく」
「どこへですか」
「ここ」
「ここは居間です」
「ここ」
結衣さんは、自分の横へタオルを置きました。
私は少しだけ考えました。
「では、昼食までです。昼食の前には洗面所へ戻します」
「ひる?」
「お昼ごはんの前です」
「あと?」
「あとです」
結衣さんは満足したように、タオルの横へ座りました。
昼食は、直哉が用意してくれたものを温めました。
鍋を火にかけるだけでした。
それでも、火を使う時には少し緊張しました。
悠人さんと結衣さんを居間の方へ座らせ、近づかないように言いました。
「ここから先は来てはいけません」
「どうして?」
「熱いからです」
「久世さんは行ってた」
「久世くんは大人です」
「日向さんも大人」
「私は大人ですが、今は火を使っています」
「じゃあ、僕も大人になったら」
「その時に教えます」
「いつ?」
「まだ先です」
悠人さんは少し残念そうでした。
結衣さんは、私の足元へ来ようとしました。
「結衣さん」
「みる」
「見るなら、あちらからです」
「みる」
「熱いものがあります」
「あつい?」
「触ると痛いです」
痛いと言うと、結衣さんは少し離れました。
昼食は問題なく終わりました。
直哉が用意したものだったからです。
器を洗い、棚へ戻しました。
青い線の入った器。
黄色い花の器。
白い器。
灰色の器。
灰色の器だけは、まだ使われていません。
夕方に直哉が帰ってきたら使う器です。
私はそれを見て、少し不思議に思いました。
使う人がいないのに、置かれている器。
帰ってくる人のために、そこにあるもの。
午後になると、夕食のことを考え始めました。
冷蔵庫には、昨日買った野菜や肉が入っています。
どれを使えばいいのか、見ただけでは分かりませんでした。
台所の棚を開けると、直哉が言っていた料理の本がありました。
背表紙に、簡単な家庭料理の本だと書かれています。
私はそれを食卓へ置き、何度かめくりました。
写真。
材料の名前。
切り方。
火加減。
煮る時間。
書かれていることは分かります。
けれど、どれを選べば今ある材料で作れるのか、そこから少し迷いました。
「日向さん、勉強?」
悠人さんが聞きました。
「夕食の作り方を確認しています」
「作り方?」
「はい」
「本に書いてある?」
「書いてあります」
「本の通りにしたらできる?」
「できると思います」
「思います」
悠人さんは、朝の私の言葉を覚えていたようでした。
「そうですね。できると思います」
「僕もやる」
「火を使うので、見るだけです」
「混ぜるのは?」
「火を止めてからなら、少しだけ」
「少しだけ?」
「少しだけです」
結衣さんが、黄色い積み木を持ってきました。
「まぜる」
「結衣さんもですか」
「まぜる」
「混ぜるのは、あとです」
「あと」
「はい」
二人ともやる気だけはありました。
私は本を見ながら、使うものを決めました。
野菜と肉を煮る料理。
難しくはなさそうでした。
材料も、だいたい揃っています。
だいたい、というところが少し不安でした。
私は冷蔵庫から野菜を取り出しました。
まな板を置きます。
包丁を持ちました。
その重さに、手が止まりました。
包丁を持つのは、センターへ入る前以来でした。
家にいた頃、母の横で手伝ったことはあります。
学校の調理実習でも使いました。
お菓子を作る時には、果物を切ったこともありました。
けれど、センターで包丁を持つことはありませんでした。
火を使うことも。
台所に立って、誰かの夕食を作ることも。
私は、包丁の持ち方を思い出すように、指の位置を直しました。
「日向さん?」
悠人さんが、少し不安そうに私を見ています。
「大丈夫です」
「切れる?」
「切れます」
「手、切らない?」
「気をつけます」
「僕、見てる」
「離れて見てください」
私は野菜を一つずつ切りました。
本の写真では、野菜の大きさが揃っていました。
四角く。
薄く。
同じ形に。
私もそうするつもりでした。
けれど、切ってみると少しずつ違いました。
センターで出てきた料理の野菜は、いつも形が揃っていました。
厚みも。
角度も。
同じように見えました。
今、まな板の上にある野菜は、そうではありませんでした。
「大きい」
悠人さんが言いました。
「どれですか」
「これ」
「では、もう少し切ります」
「これは小さい」
「そうですね」
「違う」
「多少違っても食べられます」
「久世さんのは同じだった」
「久世くんは慣れていますから」
「日向さんは?」
「練習中です」
「練習」
悠人さんは納得したようでした。
結衣さんは、椅子の上から身を乗り出そうとしました。
「結衣さん、座ってください」
「みる」
「座って見てください」
「みる」
「包丁があります」
「ほうちょう」
「危ないものです」
「あぶない」
「はい」
結衣さんは、少しだけ椅子の奥へ座り直しました。
野菜を切るだけで、思ったより時間がかかりました。
本を見る。
子どもたちを見る。
鍋を出す。
もう一度本を見る。
肉を出す。
結衣さんが椅子から降りようとする。
悠人さんが積み木の道を台所の入口まで伸ばす。
「悠人さん、そこは通れなくなります」
「道だから」
「台所の前は、今は道にしないでください」
「どうして?」
「私が鍋を持つからです」
「じゃあ、こっちへ曲げる」
「お願いします」
悠人さんは、台所の前で道を曲げました。
結衣さんが黄色い積み木を置きました。
「はな」
「今は花を置く場所ではありません」
「はな」
「では、道の横にしてください」
「よこ」
二人の返事を聞きながら、私は鍋に火をつけました。
油を入れる。
肉を入れる。
野菜を入れる。
本には簡単に書かれていました。
けれど、実際には音がしました。
湯気が上がりました。
匂いも変わりました。
どこまで火が通ればいいのか。
どのくらい混ぜればいいのか。
少し迷うたびに、本を見ました。
本は開いたままにしているはずなのに、見るたびに少しずつ場所が分からなくなりました。
お菓子なら、分量を量って、順番通りに混ぜればよかった。
温度も。
時間も。
型に入れる量も。
きちんと決まっていました。
けれど夕食は、同じではありませんでした。
野菜の大きさも違います。
火の通り方も違います。
二人が声をかけるたび、手を止めなければなりません。
「日向さん、混ぜる?」
悠人さんが聞きました。
「まだ熱いです」
「あと?」
「あとです」
「結衣さんも」
「あとです」
「あと」
結衣さんが言いました。
私は水を入れました。
鍋の中で音が変わります。
少し安心しました。
煮込む時間なら、手を離せます。
そう思ったところで、結衣さんが積み木の道の上に座りました。
「結衣さん、そこは道ですよ」
「すわる」
「座る場所ではありません」
「すわる」
「悠人さんが困ります」
「困る」
悠人さんが本当に困った顔をしました。
「そこ、車通る」
「くるま」
「結衣さんがいたら通れない」
「とおれない」
「だから、どいて」
「や」
私は火を弱め、台所から離れました。
「結衣さん」
「や」
「そこに座りたいんですね」
「すわる」
「では、車が通る時だけ、少し横へ移動しましょう」
「いや」
「結衣さんが道になるんですか」
悠人さんが言いました。
「道?」
結衣さんが顔を上げました。
「トンネルでもいい」
「とんねる」
「車が下を通れないから、橋かな」
「はし」
結衣さんは、少し楽しそうになりました。
悠人さんは積み木を二つ置き、結衣さんの横に小さな橋を作りました。
「こっちを通る」
「はし」
「結衣さんは座ってていいよ」
「はし」
二人の中では解決したようでした。
私は台所へ戻りました。
鍋は、まだ焦げていませんでした。
少しだけ安心しました。
味付けをしました。
本に書かれた量を入れました。
味見をしてみます。
薄いような気がしました。
でも、子どもたちにはこれくらいがよいのかもしれません。
もう少し入れるべきか。
入れない方がよいのか。
私は匙を持ったまま、鍋を見つめました。
センターでは、味が決まった料理が出てきました。
薄いと思っても、濃いと思っても、それを食べるだけでした。
自分で決める必要はありませんでした。
今は、私が決めなければなりません。
けれど、どれが正解なのか分かりませんでした。
もう一度味見をしました。
やはり、分かりません。
「日向さん」
悠人さんが台所の入口から言いました。
「はい」
「久世さん、まだ?」
時計を見ました。
直哉が言っていた夕方には、まだ少し早い時間でした。
「もう少しです」
「帰ってくる?」
「帰ってきます」
「ほんと?」
「はい」
そう答えながら、自分にも言い聞かせている気がしました。
帰ってくる。
夕方に。
暗くなる前に。
部屋の中には、直哉の器がありました。
洗面所には、直哉のタオルもあります。
靴箱には、まだ靴が残っています。
帰ってくる人のものが、いくつもありました。
鍋の火を止めました。
予定より少し早くできました。
正しくできたのかは分かりません。
皿を出します。
青い線の器。
黄色い花の器。
白い器。
灰色の器。
四つを食卓へ並べました。
その時、玄関の方で音がしました。
鍵の音。
扉が開く音。
悠人さんが顔を上げました。
「久世さん?」
結衣さんも立ち上がりました。
「くぜさん」
直哉が玄関から入ってきました。
「ただいま」
そう言いました。
私は、すぐには返事ができませんでした。
ただいま。
その言葉は、私に向けられているようで、部屋全体に向けられているようでした。
センターでは、誰かが部屋へ来ることはありました。
職員。
医師。
業務の相手。
でも、その人たちは「ただいま」とは言いませんでした。
来る人であって、帰ってくる人ではありませんでした。
「おかえり」
悠人さんが言いました。
直哉は少し驚いたようにしてから、笑いました。
「うん。ただいま」
「おかえり」
結衣さんも真似をしました。
「ただいま、結衣さん」
直哉は靴を脱ぎ、二人の方へ歩いてきました。
それから、私を見ました。
「日向さん」
「……おかえりなさい」
少し遅れて、ようやく言えました。
直哉は、静かにうなずきました。
「ただいま」
同じ言葉が、もう一度返ってきました。
直哉は台所を見ました。
「作ったんだ」
「はい」
「すごいじゃん」
「まだ、食べられるかは分かりません」
「食べられないものは入ってないんだろ?」
「入っていません」
「じゃあ、大丈夫」
「そういう問題ではありません」
直哉は鞄を置き、手を洗いに行きました。
戻ってくると、鍋の中を見ました。
「いい匂い」
「味が薄いかもしれません」
「見てもいい?」
「はい」
直哉は匙で少しだけ味見をしました。
「薄いけど、子どもたちにはちょうどいいかも」
「本当ですか」
「うん。僕の分だけ、あとで少し足せばいい」
「最初からそうすればよかったんですね」
「やりながら覚えればいいよ」
「野菜の大きさも揃いませんでした」
「揃ってなくても食べられる」
「火の通り方が変わります」
「それはそう」
「やはり問題では」
「でも、ちゃんと柔らかくなってる」
直哉は、鍋の中の野菜を一つ見ました。
「ここまでできてるなら、十分だよ」
「気を遣わなくていいです」
「気を遣ってる言い方じゃないよ」
直哉は火をつけ直し、自分の分だけ少し味を足しました。
その手つきは自然でした。
私が途中まで作ったものを、直哉が整えている。
それは、失敗を直されているというより、続きを一緒にしているように見えました。
「悠人さん、結衣さん、食卓へ来てください」
「日向さんが作った?」
悠人さんが聞きました。
「途中まで私が作って、最後は久世くんが手伝ってくれました」
「日向さんが作った」
「久世くんもです」
「二人で作った」
「そうですね」
「二人で作ったごはん」
悠人さんは少し嬉しそうでした。
結衣さんは黄色い花の器を見つけて、自分の席へ座りました。
「はな」
「結衣さんの器です」
「はな」
「はい。花です」
四人で食卓につきました。
直哉の器にも、料理が入っています。
朝から空いていた灰色の器が、ようやく使われました。
「いただきます」
直哉が言いました。
「いただきます」
私も続きました。
悠人さんも、きちんと手を合わせました。
結衣さんは匙を持ってから、慌てて言いました。
「いただきます」
最初に食べたのは、悠人さんでした。
一口食べて、少し考えています。
「どうですか」
聞くと、悠人さんはもう一口食べました。
「やわらかい」
「味は?」
「食べられる」
「それは、おいしいという意味ですか」
「うん」
分かりにくい答えでした。
でも、二口目を食べているので、嫌ではないようでした。
結衣さんは、黄色い野菜だけを先に食べています。
「結衣さん、ほかのものも食べましょう」
「きいろ」
「黄色だけではありません」
「きいろ、おいしい」
「ほかもおいしいと思いますよ」
直哉が笑いをこらえていました。
「何ですか」
「いや、ちゃんと食べてるなと思って」
「黄色だけです」
「黄色から始まっただけかもしれない」
「そうでしょうか」
「たぶん」
直哉も食べました。
私は、その反応を見ないようにしました。
「おいしいよ」
直哉が言いました。
「気を遣わなくていいです」
「これ、二回目」
「本当にそう思ったので」
「気を遣ってる味じゃないよ」
「どういう意味ですか」
「ちゃんと夕食の味がする」
夕食の味。
その言葉の意味は、よく分かりませんでした。
でも、直哉は普通に食べ続けました。
悠人さんも食べました。
結衣さんは黄色以外も、少しずつ食べました。
私も食べました。
野菜の大きさは揃っていません。
味も少し薄いままでした。
それでも、四人で食べる夕食でした。
食後、私は皿を重ねました。
直哉も立ち上がります。
「今日は私が洗います」
「じゃあ、僕もやる」
「久世くんは帰ってきたばかりです」
「日向さんは夕食を作ったばかりだろ」
「でも」
「二人でやれば早い」
直哉は灰色の器を持ちました。
「洗う方と拭く方、どっちがいい?」
「では、拭きます」
「了解」
直哉が洗い、私が拭きました。
居間では、悠人さんと結衣さんが積み木の道を作り直しています。
「久世さん、道長くする」
「洗い終わったら見るよ」
「ほんと?」
「ほんと」
「戻ってくる?」
「戻るよ。台所から」
悠人さんは、それで納得したようでした。
結衣さんが黄色い積み木を並べています。
「はな」
「また花か」
直哉が笑いました。
「結衣さんは、花が好きですから」
「日向さんも黄色い花、付ける?」
「付けません」
「今日は家の中だし?」
「その通りです」
「外へ行く時だけ?」
「はい」
「じゃあ、次に外へ行く時だ」
直哉は洗った器を私へ渡しました。
私はそれを拭きました。
青い線の器。
黄色い花の器。
白い器。
灰色の器。
一つずつ水気を取り、棚へ戻しました。
「ただいまって」
私は、棚を閉めながら言いました。
「はい」
「久世くんが言った時、すぐ返せませんでした」
「うん」
「聞き慣れていなかったので」
「そっか」
「センターでは、誰も言いませんでした」
直哉は、手を止めませんでした。
ただ、水を少し弱くしました。
「明日も言うよ」
「明日も?」
「帰ってきたら」
「毎日ですか」
「毎日帰ってくるなら、毎日言う」
それは、あまりにも当たり前のような言い方でした。
「私は、うまく返せないかもしれません」
「少しずつでいいよ」
「悠人さんの方が早かったです」
「悠人さんは強いな」
「はい」
直哉は最後の匙を洗いました。
「でも、日向さんも言ってくれた」
「遅れました」
「遅れても、言ってくれた」
私は拭いた匙を引き出しへ戻しました。
居間から積み木の音がしました。
木と木が当たる、軽い音。
結衣さんの笑う声。
悠人さんが直哉を呼ぶ声。
「久世さん、できた」
「今行く」
直哉は手を拭きました。
「日向さんも見る?」
「はい」
二人で居間へ行きました。
積み木の道は、朝より長くなっていました。
台所の前で一度曲がり、食卓の横を通り、玄関の方へ向かっています。
玄関の手前には、黄色い積み木が二つ置かれていました。
「ここ、なに?」
直哉が尋ねました。
「帰ってくるところ」
悠人さんが言いました。
「玄関?」
「うん」
「この黄色いのは?」
「花」
結衣さんが言いました。
「帰ってくるところに花があるんだ」
「うん」
悠人さんは、車の積み木を道の上で動かしました。
居間から玄関へ。
玄関から居間へ。
「ただいま」
悠人さんが言いました。
「おかえり」
結衣さんが続きました。
直哉が私を見ました。
私は少しだけ迷ってから、言いました。
「おかえりなさい」
車の積み木は、黄色い花の横を通って、居間へ戻ってきました。
帰ってくる人がいて。
迎える声がある。
それだけのことが、まだ少し不思議でした。
けれど、その不思議さは、嫌なものではありませんでした。




