最終話白い家
それからも、僕は白い家へ行きました。
千鶴さんがいなくなったあの日から、何かが変わってしまうのが怖くて、僕は同じ行動を繰り返しました。
学校の帰りに。
休みの日に。
朝にも、夕方にも。
自転車のペダルを漕ぐ足は、どうしてもあの坂道へ向かってしまいます。
門の前に立って、冷たい金具に触れてから、呼び鈴を押しました。
じり、という古い電子音が、庭の奥へ吸い込まれていきます。
返事はありません。
生け垣の隙間から中を覗き込んでも、庭の丸いテーブルには何も置かれていませんでした。
いつもそこにあったはずの、水滴のついた炭酸の瓶も。
甘い匂いのする焼き菓子も。
静かに湯気を立てる紅茶のカップも。
白い家は、前と同じようにそこにありました。
壁の白さも、窓の大きさも、何一つ変わっていません。
でも、千鶴さんだけがいませんでした。
「千鶴さん」
何度も名前を呼びました。
静かな庭に吸い込まれた声は、どこにも届くことなく、ただ自分の耳に返ってくるだけでした。
夏が終わりました。
窓の向こうで誇らしげに咲いていたひまわりの色が、少しずつ落ちていきました。
黄色い花びらが水分を失って乾き、重たげに首を垂れ、やがて茶色く枯れていくのを、僕は門の外から見ていました。
秋になって、坂道を吹き抜ける風が冷たくなりました。
生け垣の葉が落ちて、庭の様子が少しだけよく見えるようになりました。
けれど、落ち葉が吹き溜まるだけで、そこにはやはり誰もいませんでした。
冬になって、庭の草が短く凍りつきました。
白い壁は雪の光を反射して、いつもより遠く見えました。
そして春になって、僕は高校を卒業しました。
進学のためにこの町を離れる日。
荷物をすべて送り出し、空っぽになった自分の部屋を見渡してから、僕は最後にもう一度だけ、白い家の前に立ちました。
門には触れませんでした。
呼び鈴も押しませんでした。
もう、何度も押したからです。
何度押しても、千鶴さんは出てきませんでした。
千鶴さんが残した手紙は、何度も読み返しました。
『たまたまそばにいたのが、私だっただけです。』
『元気でね。』
何度読んでも、二行は二行のままでした。
文字の裏側に隠された意味を、ずっと探していました。
たまたまなんかじゃない。
そう思いました。
千鶴さんは僕のために炭酸を選び、僕の話を聞き、僕のために朝食を作ってくれました。
それでも、千鶴さんがこの二行を残して消えた理由は、少しだけ分かる気がしました。
僕を遠ざけるため。
僕が、千鶴さんのそばにいることだけを未来にしてしまわないようにするため。
それが千鶴さんの、不器用で、どうしようもなく優しい願いなのだと、分かってしまう自分がいました。
そこに書かれていない言葉ばかりを、僕は胸の中で何度も読み返していました。
僕は白い家を、目に焼き付けるように見上げました。
白い壁。
大きな窓。
庭の丸いテーブル。
生け垣の隙間。
僕が、誰にも教えたくない秘密基地だと思っていた場所。
千鶴さんが、毎回違う知らない炭酸を出してくれた場所。
僕が少しずつ大きくなっていった場所。
好きだと言った場所。
一度は突き放されて、それでも戻ってきた場所。
いってらっしゃいと送り出され、そして、誰もいなくなった場所。
僕は、閉ざされた門の前で、少しだけ頭を下げました。
誰に見せるわけでもない、ただの区切りでした。
それから、白い家を背にして歩き出しました。
今度は振り返りませんでした。
振り返ってあの白い壁を見てしまったら、また呼び鈴に手を伸ばし、叶わない返事を待つだけの日々に戻ってしまう気がしたからです。
坂道を下りる間も、あの二行は胸の奥にありました。
元気でね。
その言葉だけを持って、僕は町を離れました。
私が白い家に戻ったのは、あの朝からずっと後のことでした。
夏樹くんのいない未来を選ぶために、私は手紙を残しました。
短い二行だけを残して、白い家を出ました。
そうするしかないと思っていました。
夏樹くんの未来を、私のそばに置いてはいけないと思っていました。
けれど、どこへ行こうかと考えるたびに、最後に浮かぶのはあの家でした。
白い壁。
大きな窓。
庭の丸いテーブル。
窓の向こうに揺れるひまわり。
遠くに見える橋。
生け垣の隙間。
あの家は、私が自分で選んだ場所でした。
私が見つけて、私がここで暮らそうと思った場所でした。
忘れるためではありません。
夏樹くんと過ごしたあの時間を胸の奥に抱えたまま、それでも生きていけると思ったからです。
私には、もうあそこしかありませんでした。
久しぶりに上る坂道は、記憶よりも少しだけ急に感じました。
門を開けると、蝶番が小さく軋む音がしました。
庭は荒れていました。
雑草が伸び、丸いテーブルには薄く埃が積もっています。
生け垣の隙間は前のままでした。
鍵を取り出し、扉を開けて中へ入りました。
よどんだ空気が、ふわりと顔を撫でました。
静かな家の中に風を通したくて、私は大きな窓を開けました。
外の空気が一気に流れ込み、廊下の奥で白いカーテンが小さく揺れます。
窓の前に立つと、遠くにひまわりの畑と、小さな橋が見えました。
その二つが見えるだけで、私は深く、長く、息をすることができました。
ここしかない。
そう思いました。
白い家には、夏樹くんとの時間が染み付いています。
夏樹くんが初めて生け垣の隙間から入ってきた日。
勝手にここを秘密基地だと言い張って、生意気な口を利いた日。
知らない味の炭酸を飲んで、一瞬だけ目を丸くした顔。
庭の丸いテーブルで、学校でのなんてことのない話をした日。
少しずつ背が伸びて、声が低くなって、大人に近づいていくのが怖くて、それでも炭酸を飲む時だけは昔のままの顔に戻って安心した日。
夏祭りに誘われた日。
断るしかなかったのに、断ったあともずっと胸に残っていた日。
戻ってきてくれた夜。
開けた桃の炭酸。
白い家の灯り。
並んだ影。
そして、最後の朝食。
向かい合って食べたパンの味。
温かいスープから上る白い湯気。
パンくずがついていると言って手を伸ばし、私の指先が夏樹くんの頬に触れた瞬間に、お互いに固まってしまったこと。
毎朝食べたいと言ってくれた、あの真っ直ぐな声。
そして、玄関で彼を送り出した時の、あの特別な空気。
私が「いってらっしゃい」と言い、彼が「行ってきます」と答えた、あのたった数秒間。
私はあの日、一瞬だけ、普通の朝を持てた気がしました。
帰ってくる人を送り出し、その人の帰りを家で待っていていいという、当たり前で、私にとっては奇跡のような朝。
でも、私はその朝から逃げました。
それなのに、一人で台所に立ち、使われなくなった二つのコップを見るたびに、耳の奥で「行ってきます」という声が響きました。
いつか使ったものが、そのままの場所にありました。
私は、白い家を少しずつ整えました。
床を拭きました。
窓を開けました。
庭の草を抜きました。
丸いテーブルを拭きました。
椅子を元の場所に戻しました。
台所の棚を開けました。
皿はそこにありました。
コップもありました。
使わなくなっていたものを、ひとつずつ、暮らしの中へ戻していきました。
はじめのうちは、炭酸を買えませんでした。
スーパーの棚に並ぶ色とりどりの瓶を見るだけで、あの小さな音が耳に蘇り、足が止まってしまったからです。
瓶の音を聞くのが怖くて、私はしばらく紅茶ばかり飲んでいました。
紅茶を淹れる日がありました。
焼き菓子を焼く日がありました。
誰かに出すためではありません。
白い家にあった時間を、全部なかったことにしないためでした。
炭酸も、焼き菓子も、丸いテーブルも。
どれも、この家にあったものでした。
なくしてしまえば楽になるのかもしれません。
でも、なくしたくありませんでした。
それでも、季節は巡りました。
ひまわりは力強く咲き誇り、やがて枯れ、また次の年には太陽に向かって咲きました。
遠くの橋の上を、毎日違う人が渡っていきます。
雨の日には橋の輪郭が濃く沈み、晴れた日にはひまわりの黄色が眩しく光りました。
私はその静かな変化を窓から眺めながら、ここで暮らしました。
何年かが過ぎました。
少しずつ、炭酸をまた買えるようになりました。
最初は一本だけでした。
桃ではありませんでした。
棚に入れて、しばらくは冷蔵庫を開けるたびにそれを見つめるだけでした。
次に、りんごを買いました。
その次に、スーパーの隅で見つけた、名も知れない変な味の炭酸を買いました。
昔、夏樹くんに出して困らせたような、あの奇妙な色の瓶です。
それを冷蔵庫の奥にしまった時、私は一人で少しだけ笑いました。
誰に出すつもりなのか、自分でも分かりませんでした。
それでも、置いておきたかったのです。
この白い家に、そういうものがまだ残っているということを、なくしたくありませんでした。
私は何度も、夏樹くんのことを考えました。
元気でいるだろうか。
ちゃんと夜は眠れているだろうか。
心から笑える日があるだろうか。
私のことなんて、もうすっかり忘れて、新しい場所で幸せに生きているだろうか。
忘れていてほしいと、心から願う日もありました。
どうか彼が、過去に縛られず、前を向いて歩いていけますようにと。
でも、忘れないでほしいと、泣きたくなるほど願う日もありました。
あの丸いテーブルでの時間を、炭酸の味を、どうか彼の一部として残しておいてほしいと。
どちらの感情も、嘘のない本当の私でした。
その日も、私は庭に出て、丸いテーブルを布巾で拭いていました。
午後の柔らかな光が、白い壁に反射して庭全体を明るく照らしています。
ひまわりの季節には、まだ少し早い、初夏の風が吹いていました。
ふと顔を上げると、遠くの橋の上を、誰かがゆっくりと渡っているのが見えました。
ただの風景の一部として、私はそれをぼんやりと眺めていました。
テーブルの汚れが落ちたのを確認して、私は布巾を畳みました。
台所へ戻ろうと、体の向きを変えた、その時でした。
かすかな音が、耳に届きました。
玄関の方からでした。
門の横にある呼び鈴の電子音ではなく、直接、木製の扉を叩く音。
小さく、控えめなノックの音でした。
私は足を止めました。
風の音の聞き間違いかもしれない。
そう思ってじっと耳を澄ませると、もう一度聞こえました。
こんこん、と。
私は布巾を庭の端に置きました。
そのまま家には入らず、外を通って玄関の前に回りました。
鍵に手をかけました。
いつものように、扉を開けました。
扉が開きました。
隙間から、懐かしい白い家の匂いが、ふわりと先にこぼれてきました。
埃と、紅茶と、古い木材の混ざった、僕がずっと探していた匂い。
そして、開かれた扉の向こうに、千鶴さんがいました。
髪が、記憶の中より少しだけ長くなっていました。
頬の輪郭も、以前より少し細く見えます。
大人になった僕を見上げるその視線は、初めは誰かを訝しむような、無防備で平坦なものでした。
でも、目が合った瞬間。
千鶴さんの瞳がわずかに揺れ、細かな違いなどすべてが吹き飛んで、ただの千鶴さんになりました。
千鶴さんは、扉の取っ手に手をかけたまま、固まって動かなくなりました。
取っ手を握る指先だけが、強く握りしめられて真っ白になっていました。
庭からそっと風が入り込み、僕たちの間をすり抜けて、廊下の奥で白いカーテンを小さく揺らしました。
千鶴さんの唇が、微かに震えました。
僕から目を逸らさないまま、何かを言おうとして、でも声にならずに止まりました。
僕は口を開きました。
声は、自分でも驚くほど静かでした。
「今度は」
千鶴さんが、小さく肩を揺らしました。
「おかえりなさいって、言ってもらえますか」
通り抜ける風の音が、やけに大きく聞こえました。
千鶴さんの目から、涙がこぼれました。
それでも千鶴さんは、僕から目を逸らしませんでした。
涙で濡れた頬のまま、あの頃よりもずっと柔らかく笑って、それから言いました。
「おかえりなさい」
あらすじで引き返さず、最後まで付き合ってくれた物好きなあなたへ。本当にありがとうございました。




