第15話少し先のこと
翌朝、私はいつもより少し早く目を覚ましました。
部屋はまだ静かでした。
悠人さんも、結衣さんも眠っていました。
窓の外は薄く明るくなり始めていて、庭の木の輪郭がぼんやり見えました。
何かが変わったわけではありませんでした。
寝具も。
棚も。
端末も。
小さな育児室も。
昨日と同じ場所にありました。
それなのに、起き上がった時、胸の奥が少し軽く感じました。
私はそのことに気づいて、すぐに怖くなりました。
軽くなる理由なんて、まだ何もありません。
直哉が迎えに来ると言っただけです。
必ず、と言っただけです。
それが本当にできるのか。
いつになるのか。
センターが認めるのか。
久世家が何と言うのか。
何も分かりません。
分からないことばかりでした。
それでも、私は昨日の言葉を思い出していました。
必ず迎えに来る。
だから、待ってて。
待つことは、好きではありませんでした。
待っていた明日が来なかったことを、私は知っています。
それなのに、その朝は少しだけ、待つという言葉が嫌ではありませんでした。
「ひなたさん」
小さな声がしました。
結衣さんが目を開けていました。
「おはようございます」
「おはよ」
「まだ早いですよ」
「はな」
寝起きの声で、いつものように言いました。
黄色い髪留めのことでした。
「今日は外出の日ではありませんよ」
「はな」
「付けたいんですか」
「つける」
私は少し迷いました。
外出の日ではありません。
センター内で使うものは、柔らかい留め具の方がよいと説明されています。
けれど、今日は診察も外出もありません。
髪留めを付けてはいけないと決められているわけでもありませんでした。
「少しだけですよ」
そう言うと、結衣さんは目を大きくしました。
「はな?」
「はい」
棚から黄色い花の髪留めを取り出しました。
結衣さんは、寝具の上に座って待ちました。
髪を整え、小さな黄色い花を留めました。
「取らないでくださいね」
「とらない」
「口に入れてもいけません」
「いれない」
「本当に?」
「ほんと」
結衣さんは、頭の横へ手を伸ばし、そっと花に触れました。
それから、少し笑いました。
ただ髪留めを付けただけでした。
それなのに、朝が少し外出の日みたいに見えました。
悠人さんは、いつもより遅く起きました。
寝具から顔だけを出して、私たちを見ました。
「結衣さん、はなつけてる」
「はい」
「今日、外?」
「外出の日ではありません」
「じゃあ、なんで?」
結衣さんは自分で答えました。
「つける」
「理由になってないよ」
悠人さんは眠そうな顔で言いました。
「付けたかったそうです」
「ふうん」
悠人さんは起き上がり、少し私を見ました。
「日向さん」
「はい」
「今日、いい日?」
「どうしてですか」
「結衣さん、はなつけてるから」
私は少し笑いました。
「そうかもしれませんね」
「いい日?」
「悪い日ではないと思います」
「じゃあ、いい日だよ」
悠人さんは、簡単に決めました。
その簡単さが、少しうらやましくなりました。
朝食はいつも通りでした。
白い皿。
温かいスープ。
小さなパン。
果物。
悠人さんはパンを二つに割り、片方が大きいと言いました。
結衣さんは自分の果物を、悠人さんの皿へ移そうとしました。
「結衣さん、自分の分ですよ」
「どうぞ」
「ありがとうございます。でも、結衣さんが食べてください」
「日向さん、いらない?」
「私はあります」
「どうぞ」
結衣さんは、今度は私の皿へ果物を置こうとしました。
悠人さんが笑いました。
「結衣さん、みんなにあげてたらなくなるよ」
「ある」
「なくなる」
「ある」
「なくなるって」
「では、一つだけいただきます」
私がそう言うと、結衣さんは満足そうに果物を一つ差し出しました。
私は受け取りました。
「ありがとうございます」
いつもの食事でした。
いつもの会話でした。
けれど、その日は果物が少し甘く感じました。
端末へ記録を入力しました。
食事量、良好。
会話、活発。
結衣様、他者へ食物を分ける行動あり。
私はそこまで入力して、少し手を止めました。
誰かと一緒に食べる。
何かを分ける。
それだけで、記録には行動として残ります。
けれど、結衣さんが得意そうに果物を差し出した顔までは残りません。
私は画面を送信しました。
午前中は、部屋で絵本を読みました。
悠人さんは、前に買った乗り物の本を持ってきました。
「今日はこれ」
「この本、好きですね」
「自分で選んだから」
「そうでしたね」
「結衣さんは?」
結衣さんは、花の髪留めに触れながら、別の絵本を持ってきました。
「これ」
「動物の本ですね」
「いぬ」
「犬も出てきます」
「ねこも?」
「出てきますよ」
「じゃあ、これ」
二冊読むことになりました。
悠人さんは、乗り物の本を開くと、車のページを指しました。
「外の車、これ?」
「似ていますね」
「もっと大きかった」
「そうかもしれません」
「音もした」
「しましたね」
「また見る?」
「外出の日に見られるかもしれません」
「外、いつ?」
「もう少し先です」
「少し先?」
「はい」
「どのくらい?」
「何回か眠ったあとです」
「何回?」
「まだ決まっていません」
悠人さんは、少し不満そうでした。
「大人は、すぐ決まってないって言う」
「決まっていないことが多いんです」
「決めればいいのに」
「そうですね」
私は本のページをめくりました。
道路を走る車。
線路を進む電車。
空を飛ぶ飛行機。
どれも、どこかへ向かっていました。
次のページへ進めば、必ず別の場所がありました。
絵本の中では、道は途切れません。
そのことを、少しだけ眩しいと思いました。
昼食のあと、結衣さんは眠りました。
黄色い髪留めは外しました。
寝具に引っかかると危ないからです。
外すと、結衣さんは少し嫌がりました。
「はな」
「起きたらまた付けましょう」
「ほんと?」
「はい」
「あとで?」
「あとで」
その言葉を聞くと、結衣さんは安心したように目を閉じました。
あとで。
それは短い約束でした。
少し眠れば来る時間。
夕食のあとに来る時間。
呼べば戻ってくる人がいる場所。
そういう小さなあとでを、私は守りたいと思いました。
悠人さんは、隣で積み木を並べていました。
いつもより静かでした。
「何を作っているんですか」
「道」
「道ですか」
「こっちから、こっち」
積み木が床の上に細く並んでいました。
途中で曲がり、棚の前で止まっていました。
「ここで終わり?」
「まだ」
悠人さんは積み木を一つ探しました。
「足りない」
「他の色でもいいのでは?」
「道だから、同じ色がいい」
「こだわりがありますね」
「こだわり?」
「そうしたい理由があるということです」
「うん。ある」
悠人さんは、別の箱から同じ色の積み木を見つけました。
道は少しだけ伸びました。
私はそれを見ていました。
少し先。
その言葉が、朝から何度も頭に浮かんでいました。
今までは、今日を終わらせることを考えていました。
朝食。
教材。
昼寝。
夕食。
入浴。
睡眠。
業務がある日は、その時間を越えること。
外出の日は、無事に戻ること。
私の生活は、予定表の枠の中で閉じていました。
でも今は、その外側を少しだけ見てしまいました。
直哉が言ったからです。
迎えに来る、と。
悠人さんと結衣さんも、と。
そんなことを考えてはいけないと思いました。
何も決まっていません。
決まっていないことを期待すると、あとで苦しくなります。
それでも、悠人さんの積み木の道が少しずつ伸びていくのを見ていると、止める気にはなれませんでした。
その日から数日、私は少しだけ浮ついていました。
自分では普通にしているつもりでした。
けれど悠人さんは、すぐに気づきました。
「日向さん」
「はい」
「今日も、いい日?」
「どうしてですか」
「よく笑うから」
そう言われて、少し驚きました。
「そんなに笑っていますか」
「うん」
「変ですか」
「変じゃない」
悠人さんは少し考えました。
「いいと思う」
「そうですか」
「職員さんも、笑う?」
「職員さんも笑うことはありますよ」
「日向さんの方がいい」
「何がですか」
「笑うの」
何と答えればいいのか分かりませんでした。
「ありがとうございます」
そう言うと、悠人さんは満足したように積み木へ戻りました。
結衣さんは、黄色い髪留めを付けたり外したりしました。
外出の日ではありませんでしたが、部屋にいる時だけなら少し付けてもよいことにしました。
職員にも確認しました。
「短時間であれば問題ございません」
そう言われました。
問題がない。
その言葉も、何度も聞いてきました。
でもその時は、少し嬉しい言葉でした。
結衣さんは髪留めを付けると、必ず私に見せに来ました。
「はな」
「似合っていますよ」
「きいろ」
「黄色ですね」
「日向さんも?」
「私は付けません」
「どうして?」
「私の髪には少し小さいです」
「おおきいの、いる?」
「そうですね」
「買う?」
「今度、お店で見ましょうか」
言ってから、自分で少し驚きました。
今度。
自然に口にしていました。
結衣さんは、その言葉だけ覚えました。
「こんど」
「はい」
「はな」
「あるといいですね」
まだ行けるかも分からないお店の棚を、私は思い出していました。
小さな花の髪留め。
色のついたリボン。
子ども用の本。
焼き菓子の袋。
外にあるものは、どれも少し明るく見えました。
それから一週間ほど、直哉から何かが届くことはありませんでした。
手紙もありません。
呼び出しもありません。
職員から特別な説明もありません。
私は何度も、自分に言い聞かせました。
簡単なことではありません。
私がそう言ったのです。
直哉も、分かっていないかもしれないと言いました。
家に話すと言っていました。
きっと時間がかかる。
何もないのは、何もしていないからではないかもしれない。
そう思おうとしました。
けれど夜になると、少しだけ不安になりました。
あの部屋の中だけの言葉だったのではないか。
私を泣かせたままにしないための言葉だったのではないか。
直哉は優しい人でした。
優しい人は、その場で人を救う言葉を言ってしまうことがあります。
あとから、その言葉の重さに気づくこともあるでしょう。
もしそうだったとしても、責めることはできません。
私も、簡単ではないと言いました。
戻る場所があるのだから、と言いました。
それなのに、自分だけが待っている。
そのことが少し恥ずかしくなりました。
眠る前、悠人さんが私に尋ねました。
「日向さん、明日もいい日?」
「分かりません」
「また分からない」
「でも、いい日だといいですね」
「じゃあ、いい日」
「悠人さんは、すぐ決めますね」
「決めた方がいいよ」
そう言って、悠人さんは目を閉じました。
結衣さんは、隣で髪留めを握ったまま眠っていました。
私は二人の寝顔を見ていました。
いい日。
その言葉は、センターの記録にはありません。
良好。
安定。
問題なし。
そういう言葉はあります。
でも、いい日という欄はありませんでした。
それでも私は、その夜、明日がいい日であってほしいと思いました。
一週間が過ぎた日の午後、育児業務の定期面談がありました。
いつもの職員が来ました。
悠人さんと結衣さんの発達記録。
食事量。
睡眠時間。
外出予定。
黄色い髪留めの使用時間。
すべて、いつも通り確認されました。
「悠人様は、外出への期待が継続しています」
「はい」
「結衣様は、髪留めへの愛着が強いようですが、生活上の支障は見られません」
「はい」
「日向様の対応にも、問題はございません」
「ありがとうございます」
職員は端末を確認しました。
その動作も、いつもと同じでした。
面談が終わると思いました。
けれど職員は、画面を見たまま少しだけ間を置きました。
「日向様」
「はい」
「一点、ご連絡がございます」
胸が、急に強く鳴りました。
私は、職員の顔を見ました。
職員の表情は、いつもと変わりませんでした。
「久世直哉様より、日向様、悠人様、結衣様の引受に関する申請が提出されております」
最初、言葉の意味がうまく入ってきませんでした。
久世直哉。
日向様。
悠人様。
結衣様。
引受。
申請。
それぞれの言葉だけが、ばらばらに聞こえました。
「申請」
私は繰り返しました。
「はい」
職員は淡々とうなずきました。
「現時点では、申請が提出された段階です。審査には一定の期間を要します」
「久世くんが」
名前を口にすると、声が少し震えました。
「はい。久世直哉様より提出されております」
「三人の」
「日向様、悠人様、結衣様の引受に関する申請です」
職員は、同じ言葉をもう一度言いました。
事務的で、間違いのない言い方でした。
「結果が出るまでは、通常どおりお過ごしください」
「はい」
「現時点で、日向様に行っていただく手続きはございません」
「はい」
「追加の確認が必要な場合は、こちらよりご案内いたします」
「分かりました」
それだけでした。
職員は面談記録を送信し、いつものように一礼しました。
「本日の面談は以上となります」
「ありがとうございました」
職員が部屋を出ていきました。
扉が閉まりました。
私は、その場に座ったまま動けませんでした。
直哉は、本当に動いていました。
あの部屋の中だけの言葉ではありませんでした。
私を安心させるためだけの言葉でもありませんでした。
申請。
その言葉は、とても硬いものでした。
温かい言葉ではありません。
抱きしめる手でもありません。
けれど、直哉が本当に何かをした証拠でした。
「日向さん」
悠人さんが呼びました。
いつの間にか、近くまで来ていました。
「はい」
「面談、終わった?」
「終わりました」
「外、行ける?」
悠人さんにとって、面談の結果とは外出のことでした。
私は少しだけ笑いました。
「まだ決まっていません」
「また?」
「またです」
「でも、行く?」
「行けるといいですね」
悠人さんは、少し考えました。
「じゃあ、道つくる」
「道?」
「積み木の」
「はい」
悠人さんは積み木の箱を取りに行きました。
結衣さんは棚の上の髪留めを指しました。
「はな」
「付けますか」
「つける」
私は黄色い髪留めを取りました。
結衣さんの髪を整え、花を留めました。
手が、少しだけ震えました。
「日向さん」
「はい」
「へた?」
「何がですか」
「はな」
結衣さんが不満そうに頭へ手を伸ばしました。
私は慌てて直しました。
「すみません。少し曲がっていました」
「まっすぐ」
「はい。まっすぐです」
結衣さんは満足そうにうなずきました。
悠人さんは床に積み木を並べ始めました。
「こっちが公園」
「はい」
「こっちがお店」
「はい」
「ここがセンター」
「そうですか」
「ここから、こう行く」
積み木の道が、少しずつ伸びていきました。
前より長い道でした。
途中で色が変わっても、悠人さんは気にしませんでした。
「今日は同じ色じゃなくていいんですか」
「足りないから」
「いいんですか」
「うん。つながればいい」
その答えに、私は何も言えなくなりました。
つながればいい。
色が違っても。
形が違っても。
途中で曲がっても。
つながればいい。
私は悠人さんの隣に座りました。
結衣さんも、黄色い花を揺らしながら積み木を一つ持ってきました。
「ここ?」
「そこ」
悠人さんが教えました。
結衣さんは、道の端に積み木を置きました。
「そこは変」
「ここ」
「まあ、いいか」
悠人さんは、珍しくすぐに譲りました。
私はその道を見ていました。
まだ何も決まっていません。
結果が出るまでは、通常どおり過ごすように言われました。
明日も、朝になれば食事をして、記録を入力して、二人の世話をするのでしょう。
それでも、直哉は本当に動いていました。
そのことを、まだ誰にも言えませんでした。
悠人さんにも。
結衣さんにも。
でも、その日、私は二人と一緒に積み木の道を作りました。
公園まで。
お店まで。
センターの門の外まで。
どこまで伸ばすのかは、決めませんでした。
積み木が足りなくなるまで、三人で並べました。
夜、二人が眠ったあとも、私はすぐには明かりを消しませんでした。
棚の上には、結衣さんの黄色い髪留めが置かれていました。
悠人さんの絵本は、開いたまま伏せてありました。
床の端には、片付け忘れた積み木が一つ残っていました。
私はそれを拾い、箱へ戻そうとして、少しだけ迷いました。
結局、棚の上に置きました。
明日、また道を作る時に使えるように。
まだ何も変わっていません。
それでも、明日という言葉が、少しだけ遠くまで続いているように見えました。




