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第14話大丈夫じゃない


 直哉でした。


 扉の前で立ち止まったまま、私を見ていました。


 公園で会った時よりも、顔色が悪く見えました。


 扉の取っ手にかけた手だけが、まだ動かずに残っていました。


 私も動けませんでした。


 壁の果物の絵。


 赤い実が三つ。


 白い皿。


 薄い影。


 さっきまで数えていたものが、急に遠くなりました。


「日向さん」


 直哉が言いました。


 公園で聞いた声と同じでした。


 図書室で私を呼んだ声とも、同じでした。


「……久世くん」


 ようやく、それだけ言えました。


 直哉は部屋の中を見ました。


 大きなベッド。


 低い照明。


 水の入った瓶。


 二つのグラス。


 壁際の呼び出しボタン。


 何のための部屋なのか、知らないはずがありませんでした。


 直哉は制度を知っていました。


 私がここで何をしているのかも、知っていたはずでした。


 けれど、知っていることと、目の前にあることは違うのだと思います。


 直哉は、しばらく何も言いませんでした。


 それから、ゆっくりと扉を閉めました。


 鍵の音はしませんでした。


 それでも、部屋の中に二人だけが残りました。


「久世くんが悪いわけじゃありません」


 私は、先にそう言っていました。


 直哉は私を見ました。


「ここでは、そういうことになっているだけです」


「そういうことって」


「業務です」


 直哉は、息を止めたように黙りました。


 私は自分の膝へ視線を落としました。


 手が少し震えていました。


 握れば隠せると思いました。


 でも、指先までうまく力が入りませんでした。


「大丈夫です」


 私は言いました。


 何度も使ってきた言葉でした。


 初めての業務の日にも。


 痛いと聞かれた時にも。


 悠人さんが熱を出した夜にも。


 結衣さんが外の車の音に驚いた時にも。


 大丈夫ではない時ほど、口に出しやすい言葉でした。


「大丈夫だから」


「大丈夫じゃない」


 直哉が言いました。


 静かな声でした。


 でも、はっきりしていました。


「大丈夫なわけがない」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に何かが触れました。


 今まで誰も、そうは言いませんでした。


 職員は異常があるかを尋ねました。


 医師は数値に問題がないと言いました。


 業務相手は、続けられるかと聞きました。


 私は、そのたびに大丈夫だと答えました。


 大丈夫ではないと答えたところで、何が変わるのか分からなかったからです。


 けれど直哉は、違うと言いました。


 大丈夫じゃないと。


 そう言われただけで、今まで積んでいたものが少し崩れました。


「そんな顔しないでください」


 私は言いました。


 声が、自分のものではないみたいでした。


「久世くんは、何も悪くないから」


「僕が悪いかどうかの話じゃない」


「でも」


「日向さんが、僕を気遣うところじゃない」


 直哉は私に近づこうとして、途中で止まりました。


 触れていいのか分からないのだと思いました。


 その距離の取り方が、直哉らしくて。


 だから余計に苦しくなりました。


 この人は、勝手に触れない。


 私が嫌がるかもしれないことを、しない。


 そんな人が、この部屋にいる。


 業務の相手として。


 そのことが、あまりにもおかしかった。


「変だね」


 私は言いました。


「何が」


「久世くんが、ここにいるの」


 直哉は答えませんでした。


「公園で、もう会わないと思ったのに」


「僕も」


「またねって言ったのにね」


「うん」


「あれ、最後のつもりだったのに」


「うん」


「なのに、こんなところで会うんだね」


 笑おうとしました。


 笑えませんでした。


 喉の奥が痛くなりました。


「私、もう初めてじゃないから」


 言ったあと、部屋の空気が止まりました。


 直哉の顔が、見られませんでした。


 自分でも、どうしてそんなことを言ったのか分かりませんでした。


 直哉を安心させたかったのかもしれません。


 気にしなくていいと言いたかったのかもしれません。


 今さら、この部屋で何が起きても、私が壊れるわけではないと伝えたかったのかもしれません。


 でも、言葉にした瞬間、自分が何を失ったのかを、もう一度見てしまいました。


「だから」


 続けようとして、声が震えました。


「そんなに、苦しそうな顔をしなくていいよ」


 涙が落ちました。


 泣くつもりはありませんでした。


 泣けば、直哉をもっと困らせると思いました。


 それなのに、止まりませんでした。


「ごめん」


 私は言いました。


「今の、違う」


「日向さん」


「違うの」


 何が違うのか、自分でも分かりませんでした。


 言ってはいけないことだった。


 直哉へ向ける言葉ではなかった。


 でも、誰にも言えなかったことでした。


「変だよね」


 私は、涙を拭こうとしました。


 手の甲が濡れました。


「こんなこと、言うことじゃないのに」


 直哉は近づいてきました。


 まだ、私には触れませんでした。


 膝をついて、私の顔を見る高さになりました。


「言っていい」


「よくないよ」


「僕には、言っていい」


 その言い方が、昔と同じでした。


 図書室で、返事を待ってくれた時と同じ。


 坂道で、私が言い直すのを聞いてくれた時と同じ。


 私は直哉を見ました。


 目の前にいるのは、業務の相手ではありませんでした。


 少なくとも、その瞬間だけは。


「なんで」


 声が勝手に出ました。


「なんで、久世くんが最初じゃなかったんだろうね」


 言ってしまってから、息ができなくなりました。


 直哉の顔が、歪みました。


 私はすぐに首を横に振りました。


「違う」


「日向さん」


「今のは、違うの」


「違わない」


「違うよ」


 私は泣きながら笑おうとしました。


「そんなこと、思っちゃいけないのに」


 思ってはいけないことでした。


 誰かを最初の業務相手にしたかったなんて。


 好きだった人ならよかったなんて。


 そんな願いは、壊れていました。


 けれど、私の中にありました。


 最初に触れる人が直哉だったら。


 あの日の駅でできなかったことの続きを、こんな形でも残せたのではないか。


 そんな、どうしようもないことを。


 私はずっと、どこかで考えていたのかもしれません。


 直哉が、そっと私の手へ触れました。


 指先だけでした。


 握るのではなく、触れていいか確かめるように。


 私は逃げませんでした。


 すると直哉は、ゆっくり手を握りました。


 あの日、駅までの坂道で繋いだ手とは違いました。


 あの時より、直哉の手は大きくなっていました。


 私の手も、同じではありませんでした。


 それでも、触れた瞬間に思い出しました。


 夕方の坂道。


 白い制服。


 汗ばんだ指。


 離したくなかった手。


「ごめん」


 直哉が言いました。


「僕は、何も知らなかった」


「知ってたでしょう」


「制度は知ってた」


 直哉の声は震えていました。


「でも、知らなかった」


 同じことを、夏樹くんにも言ったことがあります。


 制度を知っていることと、私を知っていることは違う。


 あの時の自分の言葉が、急に遠くから戻ってきました。


「久世くんのせいじゃない」


「それでも」


「あなたのせいじゃないよ」


「それでも、僕は」


 直哉は言葉を止めました。


 私の手を握る力が少し強くなりました。


「僕は、日向さんの隣にいたかった」


 その言葉で、また涙が出ました。


 隣。


 ずっと欲しかった場所でした。


 図書室の向かいではなく。


 坂道の途中でもなく。


 駅のホームで明日を待つだけでもなく。


 もっと先まで続く場所。


 私は、それを欲しがっていました。


 怖いと言いながら。


 重いと言いながら。


 欲しがっていました。


「今さらだよ」


 私は言いました。


「うん」


「もう、戻れないよ」


「うん」


「私、子どももいるよ」


「知ってる」


「母親って呼ばれてもいない」


「うん」


「それでも、離れたくないの」


「うん」


「業務が終わったら、戻らなきゃいけない」


「悠人さんと、結衣さんのところへ?」


 私はうなずきました。


「約束したから」


「そうか」


「寝る前に本を読むって」


 直哉は、少しだけ目を閉じました。


 その表情を見て、私はまた直哉を気遣いそうになりました。


 大丈夫だと。


 戻ればいつも通りだと。


 でも、直哉が先に言いました。


「戻ろう」


「え?」


「終わったら、戻ろう」


 言葉の意味を理解するまでに、少し時間がかかりました。


 直哉は私の手を握ったまま、続けました。


「日向さんが戻れるようにする」


「久世くん」


「でも」


 直哉は苦しそうに息を吸いました。


「このままにはしない」


 その言葉は、静かでした。


 けれど、その奥に熱がありました。


 公園で「またね」と言った時とは違いました。


 図書室で眠っていた人とも違いました。


 何かを決めた人の声でした。


 私は怖いと思いました。


 同時に、救われるような気もしました。


 その二つは、同じ場所にありました。


 直哉は私の涙を拭おうとして、途中で手を止めました。


 私は自分から、少しだけ顔を近づけました。


 それで、直哉の指が頬に触れました。


 温かい手でした。


 その手に触れられることを、昔の私は待っていました。


 今の私は、もう待っていなかったはずでした。


 それなのに、頬に触れられただけで、昔の気持ちが戻ってきました。


 戻ってはいけないものまで、一緒に。


「日向さん」


 直哉が呼びました。


「はい」


「嫌なら、言って」


 その言葉に、私は目を閉じました。


 この部屋で、嫌なら言ってと言われたことは何度もありました。


 けれど、その言葉を本当に私に渡してくれた人が、何人いたのかは分かりません。


 直哉の声は、違いました。


 私が言えば止まる。


 そう信じられる声でした。


 だから余計に、私は何も言えませんでした。


 嫌ではありませんでした。


 怖かった。


 悲しかった。


 苦しかった。


 それでも、直哉に触れられることが嫌ではありませんでした。


「嫌じゃない」


 私は言いました。


 直哉の手が、私の頬に触れたまま止まりました。


「本当に?」


「うん」


「業務だからじゃなくて?」


 その問いに、胸が痛くなりました。


 業務だから、ここにいる。


 業務だから、同じ部屋にいる。


 業務だから、扉が閉まった。


 それは事実でした。


 でも、今この手を握り返しているのは、業務だけではありませんでした。


「久世くんだから」


 そう答えると、直哉の顔が崩れました。


 泣きそうな顔でした。


 けれど泣きませんでした。


 直哉は私を抱きしめました。


 最初は、壊れものに触れるみたいに弱く。


 私が腕を回すと、少しだけ強くなりました。


 懐かしい匂いはしませんでした。


 制服もありません。


 図書室の紙の匂いも。


 駅の風も。


 何もありませんでした。


 それでも、直哉でした。


 私は直哉の肩に額をつけました。


 ずっと昔にできなかったことを、今になってしているような気がしました。


 順番は、もう戻りません。


 最初にはなりません。


 それでも、私の中に残っていた何かが、直哉の手に触れて少しだけ息をしました。


 そのあとのことは、うまく言葉にできません。


 部屋は業務の部屋でした。


 予定表には、生殖業務と書かれていました。


 終了後には、職員が確認に来ます。


 記録には、何かが入力されるのでしょう。


 それでも、私にとってその時間は、ただの業務ではありませんでした。


 直哉が何度も名前を呼びました。


 日向さん、と。


 私はそのたびに返事をしました。


 久世くん、と呼びました。


 途中で一度だけ、直哉の名前を呼びそうになりました。


 けれど、声にはなりませんでした。


 まだ、久世くんでした。


 それでよかったのだと思います。


 あの日の続きではありませんでした。


 続きのふりをした、別の時間でした。


 でも、完全に別のものでもありませんでした。


 終わったあと、部屋は静かでした。


 呼吸の音だけが聞こえました。


 私は天井を見ていました。


 直哉は、しばらく何も言いませんでした。


 横にいることが、不思議でした。


 業務が終わった人は、いつも部屋を出ていきました。


 水を飲んだ方がいいと言う人もいました。


 何も言わず服を整える人もいました。


 すぐに職員を呼ぶ人もいました。


 でも直哉は、私の手を握ったままでした。


「日向さん」


「はい」


「迎えに来る」


 私は直哉を見ました。


「何を」


「日向さんを」


 直哉は言いました。


「悠人さんと、結衣さんも」


 胸が、強く鳴りました。


「そんなこと」


「できるようにする」


「簡単じゃないよ」


「分かってる」


「分かってない」


「分かってないかもしれない」


 直哉は、私の手を握り直しました。


「でも、このままにはしない」


 さっきと同じ言葉でした。


 けれど、今度はもっと近くで聞こえました。


「家に話す」


「だめ」


 反射的に言いました。


 直哉が驚いた顔をしました。


「どうして」


「久世くんが困る」


「困っていい」


「よくない」


「日向さん」


「あなたには、戻る場所があるんでしょう」


 言ってから、昔の自分と同じことを言っていると思いました。


 図書室で告白を断った時と同じ。


 あなたは戻れる。


 私は戻れない。


 そう言って、自分だけで決めようとした時と同じでした。


 直哉も、それに気づいたのかもしれません。


 少しだけ、悲しそうに笑いました。


「また、それを言うんだね」


「だって」


「僕が決める」


 直哉は言いました。


「今度は、僕にも決めさせて」


 何も言えませんでした。


 昔、私は直哉に言われました。


 僕が困るかどうかも、傷つくかどうかも、全部日向さんが決めるのかと。


 その言葉を、まだ覚えていました。


「日向さんが怖いことは、聞く」


 直哉は続けました。


「できないことも、たぶんたくさんある」


「うん」


「でも、考える」


「うん」


「一人で決めない」


 その言葉に、私は涙が出そうになりました。


 嬉しかったからか。


 怖かったからか。


 分かりませんでした。


 信じてしまいそうでした。


 また。


 あの坂道の時のように。


「必ず迎えに来る」


 直哉が言いました。


「だから、待ってて」


 待ってて。


 その言葉は、危ないと思いました。


 私は待つことが苦手でした。


 昨日の続きを待ち。


 明日のキスを待ち。


 連絡できる日を待ち。


 子どもたちと一緒にいられる許可を待ち。


 外出の申請結果を待ちました。


 待つことの多くは、私の思いどおりにはなりませんでした。


 それでも直哉に言われると、待ちたいと思ってしまいました。


「……はい」


 私は答えました。


 約束したわけではありません。


 でも、返事をしていました。


 直哉は私の手を額に寄せました。


 何も言いませんでした。


 しばらくして、直哉が身を起こしました。


「職員を呼ばないと」


「うん」


 私も起き上がろうとしました。


 直哉が手を貸そうとして、また途中で止まりました。


 私はその手を取りました。


 直哉は、少しだけ驚いた顔をしました。


 それから、そっと支えてくれました。


 服を整えました。


 髪を直しました。


 鏡はありませんでした。


 直哉が私を見ました。


「大丈夫?」


 聞かれて、私は少し笑いました。


 その言葉を使うことが、少しだけ怖くなっていました。


「分かりません」


 私は答えました。


 直哉は、うなずきました。


「それでいい」


 呼び出しボタンを押しました。


 すぐに職員が来ました。


 職員の表情は、いつもと変わりませんでした。


 職員は端末を確認しました。


「何か問題はございましたか」


 私は、少し遅れて首を横に振りました。


「ありません」


「承知いたしました。本日の業務は、問題なしとして記録いたします」


 それだけでした。


 この部屋で何が変わったのか。


 私が何を思い出してしまったのか。


 直哉が何を決めたのか。


 どこにも書く欄はありませんでした。


「日向様は、このあと健康確認を行います。終了後、育児室へお戻りいただけます」


「はい」


 戻れる。


 その言葉に、私は息を吐きました。


 悠人さんと結衣さんのところへ戻れる。


 寝る前に、本を読める。


 約束を守れる。


 直哉が小さく私を見ました。


 私は、ほんの少しだけうなずきました。


「久世様は、こちらで終了となります。今後の予定につきましては、別途ご案内いたします」


「はい」


 直哉は答えました。


 その声は、さっきまでと違っていました。


 落ち着いていました。


 何かを隠している声でもありました。


 職員の前では、何も言えませんでした。


 直哉も言いませんでした。


 ただ、部屋を出る前に、一度だけ私を見ました。


 その目が、


 待ってて。


 ともう一度言っているように見えました。


 私は何も返せませんでした。


 直哉が扉の向こうへ出ていきました。


 扉が閉まりました。


 鍵の音はしませんでした。


 それでも、また別々の場所に戻るのだと思いました。


 健康確認が終わると、私は育児室へ戻りました。


 悠人さんは、まだ起きていました。


 結衣さんは寝具の上で、半分眠りながら髪留めを握っていました。


「日向さん」


 悠人さんが顔を上げました。


「帰った」


「はい。ただいま戻りました」


「読んで」


「約束しましたね」


「うん」


 私は本を取りました。


 声が少し掠れていました。


 それでも読みました。


 悠人さんは途中で眠りました。


 結衣さんも、絵を見る前に眠ってしまいました。


 二人が眠ったあと、私は本を閉じました。


 部屋は静かでした。


 端末には、今日の育児記録を入力する欄が残っていました。


 外出予定への期待あり。


 睡眠前の情緒、安定。


 私はそう入力しました。


 それから、しばらく手を止めました。


 直哉は迎えに来ると言いました。


 必ず、と言いました。


 私はそれを信じてしまいました。


 信じたいと思ってしまいました。


 あの日の「またね」のあと、明日が来なかったのに。


 それでもまた、私は待つことを選んでいました。


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