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第13話午後五時

 

 公園で直哉と会ったあとも、生活は変わりませんでした。


 翌朝には、いつもと同じ時間に起きました。


 結衣さんは、目を開ける前から私の袖をつかんでいました。


「おはようございます」


 声をかけると、少しだけ目を開けました。


「ひなたさん」


「はい」


「はな」


 外出の日につける黄色い髪留めのことでした。


「今日は外へ行く日ではありませんよ」


「はな」


「次の外出の日に付けましょう」


「つぎ?」


「次です」


 結衣さんは意味を分かっていない顔で、もう一度、


「つぎ」


 と言いました。


 悠人さんは、自分で起きていました。


 寝具を直している途中で、布団の端を踏み、少しよろけました。


「大丈夫ですか」


「大丈夫」


「本当に?」


「大丈夫。転んでない」


「転ばなければ大丈夫というわけではありませんよ」


「でも転んでない」


 悠人さんは少し得意そうでした。


 私は笑いそうになって、食事の準備へ向かいました。


 朝食は、いつも通り部屋へ運ばれてきました。


 悠人さんは卵を先に食べました。


 結衣さんは果物だけを先に食べようとして、私に止められました。


「順番に食べてください」


「これ」


「それは最後でも逃げません」


「にげる?」


「逃げません」


「くだもの、あるく?」


「歩きません」


 結衣さんは果物をじっと見ました。


 歩かないことを確かめているようでした。


 私は端末へ、食事量と会話内容を入力しました。


 果物への興味が強い。


 それだけを書きました。


 果物が歩くかどうかを気にしていたことは、書きませんでした。


 午前中は言葉の練習でした。


 職員が教材を持ってきて、机の上に絵のカードを並べました。


 動物。


 乗り物。


 食べ物。


 道具。


 悠人さんは、ほとんどの名前を言えるようになっていました。


 結衣さんは、分かるものだけを指さしました。


「これは?」


 職員が犬の絵を見せました。


「いぬ」


 結衣さんが言いました。


「よくできました」


「これは?」


 次は車の絵でした。


「くるま」


「そうですね」


 結衣さんは少し得意そうにしました。


 悠人さんは横から、


「公園の横も車が通った」


 と言いました。


「覚えているんですね」


「大きかった」


「音もしましたね」


「結衣さん、びっくりしてた」


「びっくりした」


 結衣さんが、分かっているのかいないのか、同じ言葉を繰り返しました。


 職員は端末へ入力しました。


 外出時の体験を記憶し、会話へ反映。


 そのような文字が見えました。


 外で見た車の音。


 結衣さんが私の脚にしがみついたこと。


 悠人さんが車が見えなくなるまで振り返っていたこと。


 それらは、体験の反映という言葉になりました。


 教材の時間が終わると、悠人さんと結衣さんは床で積み木を始めました。


 悠人さんは高く積もうとしました。


 結衣さんは横へ並べようとしました。


 二人の作りたいものは違っていて、何度も崩れました。


「結衣さん、そこ置いたら倒れる」


「ここ」


「だめ」


「ここ」


「日向さん」


 助けを求められました。


「悠人さんは高く積みたいのですね」


「うん」


「結衣さんは、横に並べたいようです」


「でも倒れる」


「では、場所を分けましょう」


 床の上へ布を二枚敷きました。


「こちらが悠人さんの場所。こちらが結衣さんの場所です」


「結衣さん、こっち」


 悠人さんが教えると、結衣さんは積み木を一つ持って移動しました。


「ここ?」


「そこ」


 しばらくはうまくいきました。


 けれど途中で結衣さんが悠人さんの積み木へ手を伸ばし、また少し揉めました。


 職員なら、すぐに記録へ共有物の扱いに課題ありと入力するかもしれません。


 私はしませんでした。


 少し揉めて。


 少し怒って。


 少し譲って。


 また同じ遊びへ戻る。


 それは、ただの遊びのように見えました。


 昼食後、結衣さんはすぐに眠りました。


 悠人さんは、なかなか眠りませんでした。


 寝具へ入っても、目だけが開いていました。


「眠くありませんか」


「ねむい」


「では、目を閉じてください」


「閉じてる」


「開いていますよ」


「少しだけ」


「少しでも開いていたら、閉じているとは言いません」


 悠人さんは目をぎゅっと閉じました。


 すぐに薄く開けました。


「日向さん」


「はい」


「次も公園?」


「申請が通れば、そうですね」


「お店も?」


「少しだけなら寄れるかもしれません」


「絵本見る」


「見るだけですよ」


「買わない?」


「毎回、買うとは限りません」


「見るだけ」


「はい」


 悠人さんは、しばらく考えていました。


「この前の人も、いる?」


「この前の人?」


「公園の」


 私は一度だけ、手を止めました。


「分かりません」


「またねって言ったのに?」


「また会う約束とは、少し違います」


「ふうん」


 悠人さんは、それ以上聞きませんでした。


「じゃあ、犬は?」


「犬も、分かりません」


「いたら、聞く?」


「名前ですか」


「うん」


「話しかける前に、私へ聞いてください」


「分かった」


 悠人さんは、ようやく目を閉じました。


 公園で会った人も。


 犬も。


 店の棚にあった絵本も。


 悠人さんにとっては、外で見たものの一つでした。


 もう一度見られるかもしれないもの。


 見られないかもしれないもの。


 眠る前に少し気にして、次の眠気で薄れていくもの。


 そのくらいでよいのだと思いました。


 結衣さんは、黄色い髪留めを握ったまま眠っていました。


 外出の日ではないから付けないと言ったあと、棚から自分で出したようでした。


 口に入れていなかったので、そっと手から外し、枕元に置きました。


 午後は、育児業務の面談がありました。


 職員は、二人の発達記録を確認しました。


「悠人様は外出時の体験をよく記憶されています」


「はい」


「結衣様は、自分で選んだ所持品への愛着が見られます」


「黄色い髪留めのことでしょうか」


「はい。特定物への愛着は自然な反応ですが、外出時以外にも使用を求める場合は、状況に応じて対応してください」


「分かりました」


「日向様の育児対応については、引き続き問題ありません」


「はい」


「次回外出についても、申請は可能です」


 私はうなずきました。


「希望されますか」


「はい」


「前回と同じ区域でよろしいですか」


「はい」


 職員は端末へ入力しました。


 次の外出日は、数日後を候補として申請されることになりました。


 公園へ行けるかもしれない。


 お店へ寄れるかもしれない。


 悠人さんは喜ぶでしょう。


 結衣さんは、黄色い花を付けたがるでしょう。


 私は、それだけを考えました。


 面談の終わりに、職員が予定表を一枚置きました。


「来週の基本予定です」


「ありがとうございます」


 受け取りました。


 診察。


 育児面談。


 外出候補日。


 休養。


 その下の方に、色の違う文字がありました。


 生殖業務。


 午後五時。


 私は、時間だけを確認しました。


 その日は、結衣さんの昼寝の時間とは重なりません。


 午後三時頃から引き継ぎを始めれば、悠人さんの夕食前には職員へ任せられます。


 戻るのは、二人が眠る少し前になるでしょう。


 そこまで考えて、予定表を閉じました。


 業務の日までの数日も、いつも通り過ぎました。


 結衣さんは、黄色い髪留めを棚から出しては戻すようになりました。


 悠人さんは、積み木を前より高く積めるようになりました。


 外出申請は承認されました。


 次の公園の日も決まりました。


 私は二人へそれを伝えました。


「また行く?」


 悠人さんが尋ねました。


「はい」


「お店も?」


「少しだけなら」


「絵本?」


「毎回買うとは限りません」


「見るだけ」


「見るだけなら」


 悠人さんは笑いました。


 結衣さんは、


「はな」


 と言いました。


「外出の日には付けましょう」


「つける」


「はい」


 その夜は、少し穏やかでした。


 二人とも、次の外出のことを話しながら眠りました。


 私は育児記録を入力しました。


 外出予定への期待あり。


 情緒、安定。


 そう書きました。


 自分の情緒について書く欄はありませんでした。


 業務当日の朝も、特別なことはありませんでした。


 悠人さんは朝食のパンを少し残しました。


 結衣さんは服の袖を嫌がりました。


 私は二人の世話をし、記録を入力しました。


 午前中には、職員が外出予定の確認に来ました。


 候補日は予定どおり承認されたこと。


 前回と同じ区域であること。


 持ち物に変更はないこと。


 外出中の飲食は、前回同様、許可範囲で対応できること。


 説明を聞きながら、悠人さんは何度も頷いていました。


「分かりましたか」


 私が尋ねると、


「お店、見るだけ」


 と言いました。


「それだけではありません」


「公園も」


「はい」


「走る」


「走る時は、周りを見てください」


「見る」


 結衣さんは髪留めを持ってきました。


「今日はまだです」


「つける」


「外出の日です」


「きょう?」


「今日は違います」


「ちがう」


 結衣さんは少し不満そうでしたが、髪留めを棚へ戻しました。


 午後になると、私の健康確認がありました。


 体温。


 血圧。


 体調。


 痛みはないか。


 気分は悪くないか。


 いつも通りでした。


「問題ございません」


 職員が言いました。


「予定どおり実施となります」


「はい」


 実施。


 便利な言葉だと思いました。


 外出も実施。


 面談も実施。


 検査も実施。


 業務も実施。


 その中にいる私の気持ちは、言葉の外側に置かれていました。


 夕方が近づくと、二人を職員へ引き継ぎました。


 結衣さんは眠そうでした。


 悠人さんは、私が着替える前から落ち着かない様子でした。


「日向さん、今日も別のお部屋?」


「はい」


「帰る?」


「帰ります」


「寝る前?」


「間に合うと思います」


「読んで」


「戻ったら読みます」


「約束?」


「約束です」


 悠人さんは、少しだけ私の服をつかんでから離しました。


「早く帰ってね」


「はい」


 結衣さんは職員に抱かれながら、私へ手を伸ばしました。


「あとで」


「あとで戻ります」


 私は二人に手を振りました。


 扉が閉まりました。


 部屋が静かになりました。


 入浴し、用意された服へ着替えました。


 髪を整えました。


 鏡の中の私は、いつもと同じ顔をしていました。


 怖くないわけではありません。


 嫌でないわけでもありません。


 ただ、以前よりも手順を知っているだけでした。


 着替えを終えると、職員が迎えに来ました。


「お時間です」


「はい」


 廊下を歩きました。


 足音は、絨毯に吸われてほとんど聞こえませんでした。


 壁には、前にも見た花の絵がありました。


 季節が変わるたびに絵を入れ替えているのかもしれません。


 そんなことを考えました。


 業務のことを考えないために、目に入るものを一つずつ拾いました。


 廊下の角。


 窓の外の庭。


 職員の靴音。


 手すりの金属。


 扉の前で、職員が立ち止まりました。


「こちらです」


「はい」


「体調に異常がある場合は、呼び出しボタンでお知らせください」


「はい」


「終了後、確認に参ります」


「はい」


 扉が開きました。


 室内には、すでに水の入った瓶と二つのグラスが置かれていました。


 大きなベッド。


 低い照明。


 壁には、果物の絵が掛けられていました。


 赤い果物が三つ。


 白い皿。


 薄い影。


 初めて使う部屋でしたが、部屋の作りは他とほとんど変わりませんでした。


「失礼いたします」


 職員が出ていきました。


 扉が閉まりました。


 鍵の音はしませんでした。


 私はベッドの端へ座りました。


 壁の絵を見ました。


 赤い果物を数えました。


 三つ。


 皿の縁。


 影。


 机の上の瓶。


 グラスの底。


 何を数えても、時間が早く進むわけではありませんでした。


 けれど、何も考えずにいるよりはよかった。


 扉の向こうで、足音が止まりました。


 私は背筋を伸ばしました。


 呼吸を整えました。


 いつものように。


 いつもの業務として。


 扉が開きました。


 入ってきた人は、濃い色のスーツを着ていました。


 片手に鞄を持っていました。


 ネクタイは、公園で見た時よりも少しだけまっすぐでした。


 その人は、私を見ると足を止めました。


 顔から血の気が引いていくのが分かりました。


 私も、息の仕方を忘れました。


 直哉でした。


 名前を見ていれば、分かったのかもしれません。


 でも私は、いつものように、そこを読まなかったのです。


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