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第12話またね

最初の外出を終えてから、私たちは何度かセンターの外へ出ました。


 二度目は、前に買えなかった動物の絵本を買いました。


 三度目は、結衣さんが店へ入る前に眠ってしまい、ほとんど何も見ずに帰りました。


 四度目には、悠人さんが自分で店の人へお金を渡せるようになりました。


 外出のたびに申請が必要でした。


 行ける場所も。


 門を出る時間も。


 戻らなければならない時間も。


 すべて決められていました。


 それでも、悠人さんは外出の日を楽しみにするようになりました。


「今日は、どこ?」


 朝になると尋ねました。


「公園へ行きます」


「お店は?」


「今日は寄りません」


「どうして?」


「毎回、何かを買うわけではありませんよ」


「見るだけでもいいよ」


「公園で遊ぶ時間がなくなります」


 そう言うと、悠人さんは少し考えました。


「じゃあ、公園」


「はい」


「滑るやつする」


「気をつけてくださいね」


「もうできるよ」


 結衣さんも、外出という言葉を覚えました。


 意味をどこまで分かっているのかは知りません。


 外出用の服が用意されると、黄色い花の髪留めを探しました。


「はな」


「今日も付けますか」


「つける」


 最初の外出で買った髪留めでした。


 結衣さんは、それが自分のものだと分かっていました。


 センターから支給された服と。


 自分で選んだ、小さな黄色い花。


 結衣さんにとって違いがあるのかは分かりません。


 それでも、外へ出る日は必ず付けたがりました。


 その日は、少し暖かい日でした。


 春と呼ぶにはまだ早く、風には冷たさが残っていました。


 けれど、日の当たる場所では上着がいらないほどでした。


 職員は公園の入口近くで待機していました。


 何度か問題なく外出を終えたため、以前より離れた場所から見守ることになっていました。


 私たちは、公園の奥にある大きな木のそばへ行きました。


 枝には新しい葉が出始めていました。


 地面には、まだ冬の枯れ葉が残っていました。


 悠人さんは遊具へ走っていきました。


「日向さん、見てて」


「見ていますよ」


「ずっと?」


「なるべく」


「ずっと見てて」


「結衣さんも見なければいけませんから」


「じゃあ、半分?」


「半分ずつですね」


 納得したのかどうかは分かりませんでしたが、悠人さんは遊具へ登っていきました。


 結衣さんは私の隣へ座り、落ちている葉を拾いました。


「これ、きいろ」


「黄色ですね」


「これは?」


「茶色です」


「ちゃいろ」


 葉を一枚ずつ並べました。


 私たちが座っていた場所は、木の影になっていました。


 少し肌寒く感じました。


 遊具のある場所には日が当たっていました。


 悠人さんが走るたび、影が足元についていきました。


 私は結衣さんの上着を直しました。


「寒くありませんか」


「へいき」


「本当に?」


「へいき」


 最近覚えた言葉を使いたいだけかもしれませんでした。


 それでも手は冷たくなかったので、そのまま遊ばせました。


 公園の横を、何人もの人が通りました。


 買い物袋を持った人。


 自転車を押す人。


 学校の制服を着た人。


 働いている途中なのか、急いで歩く人。


 誰も、私たちを気にしませんでした。


 外出用の識別証は、服の内側に付けられていました。


 見た目だけなら、私たちは普通に公園へ来た三人に見えたのだと思います。


「日向さん」


 悠人さんの声がしました。


 遊具の上から手を振っていました。


「見てる?」


「見ていますよ」


「いくよ」


 何をするのか分かりませんでした。


 悠人さんは、少し高いところから飛び降りました。


「悠人さん」


 思わず立ち上がりました。


 悠人さんは両足で着地し、少しよろけました。


 けれど転びませんでした。


「できた」


「危ないことは、する前に言ってください」


「言ったよ」


「何をするのかは聞いていません」


「いくよって言った」


「それでは分かりません」


 悠人さんは、褒められると思っていたのでしょう。


 少し不満そうな顔をしました。


 それから、私の後ろへ視線を移しました。


 誰かが公園の道を歩いていました。


 私も振り返りました。


 濃い色のスーツを着た男の人でした。


 片手には、角の固い革の鞄を持っていました。


 反対の手には、白い封筒と何枚かの書類を抱えていました。


 靴は新しく、日差しを受けて光っていました。


 ネクタイが少しだけ曲がっていました。


 歩きながら、何度か襟元へ手を触れていました。


 着慣れていないのだと思いました。


 その人は、暖かな日の当たる道を歩いていました。


 木陰にいる私たちからは、顔がよく見えませんでした。


 けれど、どこかで見た歩き方でした。


 制服ではありませんでした。


 学校の鞄も持っていませんでした。


 髪も、あの頃より少し短くなっていました。


 大人になったというより。


 大人になるための服を着ているように見えました。


「日向さん」


 悠人さんがもう一度、私を呼びました。


 その声に反応して、男の人がこちらを見ました。


 足が止まりました。


 日差しの中で、しばらく動きませんでした。


 私も動けませんでした。


 顔が見えました。


 直哉でした。


「日向さん?」


 声は、あの頃とほとんど変わっていませんでした。


「……久世くん」


 呼び方を口にすると、喉の奥が狭くなりました。


 何年も声に出していなかった呼び方でした。


 忘れたことはありませんでした。


 けれど、呼ぶ相手がいなかったので、口にすることもありませんでした。


 直哉は、公園の中へ入ってきました。


 日の当たる道から、私たちのいる方へ歩いてきました。


 木の影が、靴の先から少しずつ身体へかかりました。


 近くまで来ると、本当に直哉でした。


 顔立ちは少し大人びていました。


 けれど、驚いた時の目は変わっていませんでした。


「本当に、日向さん?」


「うん」


 それしか答えられませんでした。


 直哉は私を見ました。


 長い間、確かめるように。


 それから、私の隣にいる結衣さんを見ました。


 遊具から戻ってきた悠人さんも、私の服をつかみました。


「日向さん、この人だれ?」


 私は直哉を見ました。


 直哉も、私を見ていました。


 どう説明すればいいのか分かりませんでした。


 恋人。


 そう呼べる時間は、一日もありませんでした。


 昔、好きだった人。


 今も好きなのかは、自分でも分かりませんでした。


 忘れたことはありません。


 けれど、忘れなかったことと、今も同じ気持ちでいることは違う気がしました。


「学校へ通っていた頃のお友達です」


 私は言いました。


 直哉は、何も訂正しませんでした。


「久世直哉です」


 悠人さんへ向かって名乗りました。


 少しだけ腰をかがめました。


「悠人さんです」


 悠人さんは胸を張りました。


 直哉が一瞬、目を丸くしました。


「自分で、さんを付けるんだね」


「つけるよ」


「そうなんだ」


「つけないの?」


「僕は、付けないかな」


「どうして?」


 直哉は少し困ったように笑いました。


 その笑い方を見て、胸の奥に昔の図書室が戻ってきました。


 向かいの席で、本を開いたまま眠っていた顔。


 私が三日間を数えていたことを、すぐに見抜いた顔。


 坂道で返事をやり直した時の顔。


 駅の窓の向こうで笑っていた顔。


「人によって違うんだよ」


 直哉は答えました。


「こっちは、結衣さんです」


 私は紹介しました。


「ゆいさん」


 結衣さんは自分を指しました。


「結衣さん」


 直哉は、その名前をゆっくり繰り返しました。


 結衣さんの髪に付いた花を見ました。


 悠人さんの顔を見ました。


 それから、もう一度私を見ました。


 何も聞きませんでした。


 聞かなくても、分かったのだと思います。


 私がどこにいたのか。


 何をしていたのか。


 この子たちが、なぜ私を母親と呼ばないのか。


 直哉は制度を知っていました。


 私があの日、突然学校へ来なくなった理由も。


 センターで何が行われているのかも。


「元気だった?」


 直哉が言いました。


 あまりにも普通の言葉でした。


「うん」


 私も普通に答えました。


「久世くんは?」


「僕も、元気」


 また会えた時に言いたかったことは、もっとたくさんあったはずでした。


 あの日、約束を破ったのではないこと。


 電話も手紙も許されなかったこと。


 次の日も、図書室へ行きたかったこと。


 できなかったキスのことを、ずっと覚えていたこと。


 けれど、本当に直哉を前にすると、どれも言えませんでした。


 言葉にすれば、あの日からやり直せるような気がしてしまいます。


 私たちは、もうあの日の続きにはいませんでした。


「今は、何してるの?」


 直哉の服を見ながら尋ねました。


「大学。今日は説明会の帰り」


「だからスーツなの?」


「うん」


 直哉はネクタイへ触れました。


「まだ慣れなくて」


「少し曲がってる」


「本当?」


「少し」


 直哉は慌ててネクタイを直しました。


 けれど、直す前より曲がりました。


「反対」


「こっち?」


「行きすぎ」


「難しいな」


 私は手を伸ばしかけました。


 学校にいた頃なら、直していたかもしれません。


 けれど、途中で止めました。


「鏡を見た方がいいと思う」


「そうする」


 直哉は笑いました。


 私も少しだけ笑いました。


 何年も会っていなかったのに。


 その間に、何もかも変わったのに。


 ネクタイが曲がっていることだけは、昔のように言えました。


「日向さんは」


 そこで言葉が止まりました。


 何を聞こうとしたのか、分かりませんでした。


 今、何をしているのか。


 いつまでセンターにいるのか。


 子どもたちは誰の子なのか。


 終わったら、どこへ行くのか。


 どれも簡単には答えられませんでした。


「私は、育児業務をしています」


 先に答えました。


「悠人さんと、結衣さんの」


「そうなんだ」


「うん」


 直哉は子どもたちを見ました。


 悠人さんは、私たちの話に飽きたのか、足元の枯れ葉を踏んでいました。


 結衣さんは、直哉の鞄を見ていました。


「なに?」


 結衣さんが尋ねました。


「鞄だよ」


「なかは?」


「書類」


「おかし?」


「お菓子は入ってないな」


「どうして?」


「今日は持ってこなかったから」


 結衣さんは残念そうな顔をしました。


「結衣さん、知らない人にお菓子を求めてはいけません」


「しらないひと?」


 結衣さんが直哉を見ました。


 私も、直哉を見ました。


 知らない人ではありませんでした。


 でも、結衣さんへそれ以上の説明はできませんでした。


「日向さんのお友達です」


 直哉が言いました。


「昔の」


 昔の。


 その言葉だけが、少し強く聞こえました。


「次の日」


 直哉が、急に言いました。


「え?」


「日向さんが来なくなった次の日」


 私は何も言えませんでした。


「学校へ行った」


「うん」


「図書室にも」


「うん」


「連絡、できなかったんだね」


「できなかった」


 直哉は、少しだけうなずきました。


「そうだと思ってた」


「ごめんなさい」


「謝らなくていい」


「でも」


「日向さんが決めたことじゃないでしょう」


 それだけでした。


 どうしてもっと早く気づかなかったのか。


 どれくらい待ったのか。


 怒っていたのか。


 泣いたのか。


 直哉は何も言いませんでした。


 私も聞きませんでした。


「日向さん」


 悠人さんが私の服を引きました。


「はい」


「もう帰る?」


 公園の入口を見ると、職員が時計を確認していました。


 まだ声はかけられていませんでした。


 けれど、戻る時間が近づいていました。


「そろそろですね」


「帰るの?」


 直哉が尋ねました。


「うん」


「どこへ」


 言ってから、直哉は少し目を伏せました。


 聞く必要のないことでした。


「センターへ戻ります」


「そうだよね」


 悠人さんは、直哉へ手を振りました。


「久世さん、ばいばい」


「ばいばい、悠人さん」


「さん、つけた」


「付けた方がいいかと思って」


「そうだよ」


 直哉は笑いました。


 結衣さんも真似をして手を振りました。


「ばいばい」


「ばいばい、結衣さん」


 二人は、先に別れを終えました。


 私は結衣さんを抱き上げました。


 悠人さんの手を握りました。


 直哉は、その場に立ったままでした。


 日差しが、木の葉の間から肩へ落ちていました。


「じゃあ」


 直哉が言いました。


「うん」


 何か言わなければならないと思いました。


 元気で。


 頑張って。


 ちゃんと卒業してね。


 どれも正しい言葉でした。


 けれど、どれも最後の言葉に聞こえました。


 私たちは、これからも別々の場所で生きていくのでしょう。


 直哉は大学へ通い。


 いつか仕事を選び。


 自分の暮らしを作っていく。


 私はセンターへ戻り。


 悠人さんと結衣さんを育て。


 決められた業務を終える。


 互いにどこにいるのかを知っても。


 次に会う日を決めることはできません。


 外出の日も。


 行き先も。


 私には選べませんでした。


 直哉も、次にこの公園へ来る理由はないでしょう。


 今日会えたこと自体が、偶然でした。


 次の偶然まで待つには、私たちのいる場所は離れすぎていました。


 もう、会うことはないのだと思いました。


 直哉も、同じことを思っているように見えました。


 それでも、さようならとは言えませんでした。


「またね」


 声は、弾みませんでした。


 震えもしませんでした。


 ただ、普段の言葉のように出ました。


 直哉は少しだけ目を細めました。


 意味が伝わったのだと思います。


 次に会おうという約束ではないことも。


 次があると信じているわけではないことも。


 それでも、これを最後だとは言いたくないことも。


「うん」


 直哉は答えました。


「またね」


 同じ言葉でした。


 同じ意味だったと思います。


 私は直哉へ背を向けました。


 悠人さんの手を引き、結衣さんを抱いて歩きました。


 公園の入口まで行ったところで、一度だけ振り返りました。


 直哉は、まだ同じ場所に立っていました。


 こちらを見ていました。


 私が振り返ったことに気づくと、小さく手を上げました。


 私も手を上げました。


 それ以上は何もしませんでした。


 職員と合流し、センターへ続く道を歩きました。


「また会う?」


 悠人さんが尋ねました。


 何も知らない声でした。


「分かりません」


「お友達なのに?」


「昔のお友達ですから」


「昔だと会わないの?」


「会わなくなることもあります」


「どうして?」


「それぞれ、行く場所が違うからです」


 悠人さんは、しばらく考えていました。


「でも、またねって言ったよ」


「そうですね」


「また会う時に言うんでしょう?」


「そういう時に使うことが多いですね」


「じゃあ会うよ」


 私は答えませんでした。


 結衣さんは私の肩で眠り始めていました。


 黄色い花が、頬へ触れていました。


 悠人さんの手は、しっかりと私の手を握っていました。


 最初に直哉へ言った「またね」には、明日がありました。


 できなかったことを、やり直す時間がありました。


 今度の「またね」の先には、次の日も、次の約束もありませんでした。


 私たちは、もう交わらない道を歩いていました。


 それでも最後まで、さようならとは言えませんでした。


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