第11話三人で
結衣さんが、何にもつかまらずに数歩だけ歩けるようになった頃でした。
育児業務の定期面談で、職員から一枚の案内を渡されました。
「児童社会適応外出について、ご案内いたします」
「外出?」
その言葉を聞くのは、久しぶりでした。
病室や診察室へ移動することも、センターの中では外出とは呼びませんでした。
外へ出る。
塀と門の向こうへ行く。
以前は当たり前だったことが、説明を受けなければ意味の分からない言葉になっていました。
「一定の成長段階に達した児童には、施設外での社会経験が推奨されております」
職員は案内を開きました。
店舗での買い物。
公園や公共施設の利用。
交通や地域住民との接触。
外出時の安全行動。
書かれているのは、どれもセンターの中では学べないことでした。
「悠人様と結衣様は、外出訓練を開始できる年齢と判断されました」
「私も一緒に行けるんですか」
「育児担当者として、同行をお願いいたします」
外へ出られる。
そう理解するまでに、少し時間がかかりました。
「職員も一緒ですか」
「初回は同行いたします。ただし、児童と担当者の自主的な行動を確認するため、必要時以外は一定の距離を保ちます」
「私たちだけで歩いてもいいんですか」
「指定区域内であれば問題ございません」
私は案内に書かれた地図を見ました。
商店が並ぶ通り。
小さな公園。
公共の休憩所。
移動できる範囲は、線で囲まれていました。
自由にどこへでも行けるわけではありませんでした。
決められた時間に門を出て。
決められた区域を歩き。
決められた時間までに戻る。
許可された外出でした。
「逃げる人はいないんですか」
聞いてから、そんなことを職員へ尋ねる必要はなかったと思いました。
けれど職員は、驚いた様子を見せませんでした。
「国立センター在籍者による無断離脱は、極めて少数です」
「どうしてですか」
「国立修了者には、一代特権を含む各種保障が予定されています。無断離脱した場合、その資格は失われます」
家族へ支払われている補償。
税の免除。
弟の進学に関する優遇。
修了後に与えられる身分と生活。
逃げれば、そのすべてがなくなるのでしょう。
「また、児童を伴った無断離脱は、児童福祉上の危険が大きいと判断されます」
「子どもを連れては逃げられない?」
「通常の生活基盤を持たない状態で、児童二名を養育することは困難です」
丁寧な言い方でした。
けれど、意味は分かりました。
子どもを連れて逃げても、暮らす場所がない。
働くための身分もない。
すぐに見つかる。
では、子どもを置いて逃げるか。
その可能性も、センターは低いと判断しているのでしょう。
私が悠人さんと結衣さんを置いていかないことまで、最初から計算されていました。
「日向様のこれまでの勤務および育児記録にも、問題はございません」
職員は言いました。
「そのため、外出申請は承認される見込みです」
信頼されているのではありませんでした。
逃げない理由を、十分に持っていると判断されたのです。
それでも、外へ出られることに変わりはありませんでした。
「希望します」
私は答えました。
「二人と一緒に行きたいです」
申請は、その日のうちに承認されました。
外出日は、一週間後に決まりました。
悠人さんへ伝えると、最初はよく分からない顔をしました。
「外へ行きますよ」
「お庭?」
「センターのお庭ではありません」
「どこ?」
「お店と、公園です」
「おみせ?」
悠人さんは、その言葉を知っていました。
絵本や教材の中で見たことがあったからです。
「ものを買うところ?」
「そうです」
「ほんとに?」
「はい」
「結衣さんも?」
「三人で行きます」
悠人さんは結衣さんのところへ走りました。
「結衣さん、おみせ行くよ」
結衣さんは、何を言われているのか分かっていませんでした。
床へ座り、布でできた玩具を触っていました。
「おみせ」
悠人さんがもう一度言いました。
結衣さんは玩具を差し出しました。
「これは持っていけないよ」
悠人さんは少し大人びた声で説明しました。
持っていけないと決まっているわけではありませんでした。
けれど悠人さんの中では、外出は何か特別な決まりのあるものになったようでした。
前日の夜、悠人さんはなかなか眠りませんでした。
「明日、いつ?」
「朝ご飯を食べたあとです」
「もう朝?」
「まだ夜です」
「寝たら朝?」
「はい」
「じゃあ寝る」
目を閉じました。
すぐにまた開きました。
「もう朝?」
「まだですよ」
それを何度も繰り返しました。
結衣さんは、いつもどおり先に眠りました。
私は二人の寝顔を見ながら、外出の案内をもう一度読みました。
外出時間。
利用可能区域。
緊急時の連絡方法。
禁止事項。
第三者との長時間の接触は禁止。
指定区域外への移動は禁止。
児童から目を離さないこと。
別行動をしないこと。
誰かに会う予定はありませんでした。
行きたい場所も、特にはありませんでした。
外に出られると聞いた時、学校へ行きたいとは思いませんでした。
家へ帰りたいとも。
ただ、悠人さんと結衣さんに、センターの外を見せたいと思いました。
そのことに気づいて、少し驚きました。
外出の日、三人分の服が用意されました。
センターの中で着ているものより、少しだけ色のある服でした。
悠人さんは薄い青。
結衣さんは淡い黄色。
私には、明るい灰色の服が用意されていました。
「これ、外の服?」
悠人さんが尋ねました。
「そうみたいですね」
「かっこいい?」
「似合っていますよ」
「日向さんも」
「ありがとうございます」
結衣さんの服には、小さな白い花が縫い付けられていました。
触ろうとして何度も手を伸ばすので、そのたびに止めました。
「取れてしまいますよ」
「はな」
「お花です」
「はな」
覚えたばかりの言葉を何度も繰り返しました。
玄関で職員と合流しました。
外出用の識別証を受け取り、服の見えにくい位置へ付けました。
「外出中は、こちらを外さないでください」
「はい」
「何かございましたら、すぐにお声がけください」
「はい」
「通常は、少し離れた場所から同行いたします」
職員は私たちの後ろへ下がりました。
自動扉が開きました。
玄関の先には、いつも窓から見ていた庭がありました。
その向こうに門がありました。
門がゆっくりと開きました。
「開いた」
悠人さんが言いました。
「そうですね」
「行っていい?」
「今日は、いいんですよ」
悠人さんの手を握りました。
反対側では、結衣さんが私の指をつかんでいました。
まだ長く歩けないので、小さな乗り物も用意されていました。
けれど最初の数歩だけは、自分で歩かせました。
門を出ました。
何かが急に変わったわけではありませんでした。
空は、センターの中から見ていたものと同じでした。
風も。
道の脇に咲く花も。
外だけに特別な匂いがあるわけでもありませんでした。
それでも、門を背中側に見た時、少しだけ息がしやすくなったような気がしました。
「日向さん」
「はい」
「ここもセンター?」
悠人さんが周囲を見ながら尋ねました。
「違います」
「外?」
「ここが外です」
「広いね」
「そうですね」
道を車が通りました。
悠人さんは立ち止まりました。
「大きい」
「車です」
「知ってる」
少し不満そうに答えました。
絵で見たことはあっても、すぐ近くを走る音は初めてだったのでしょう。
車が見えなくなるまで、ずっと振り返っていました。
結衣さんは音に驚き、私の脚へしがみつきました。
「大丈夫ですよ」
抱き上げました。
結衣さんは私の肩越しに、車の消えた方を見ていました。
商店のある通りまでは、ゆっくり歩いて十分ほどでした。
悠人さんは、その間に何度も立ち止まりました。
道の端に置かれた看板。
家の窓。
郵便箱。
自転車。
犬。
見るものすべてが、教材とは少し違って見えたようでした。
「犬、歩いてる」
「そうですね」
「誰の?」
「あのリードを持った人の犬だと思いますよ」
「名前は?」
「分かりません」
「聞く?」
「今日はやめておきましょう」
「どうして?」
「知らない人だからです」
「職員さんも最初は知らない人だったよ」
答えに困りました。
悠人さんは、知らない人へ勝手に話しかけてはいけないという感覚を、まだ知りませんでした。
センターの中では、そこにいる全員が何らかの役割を持っていました。
誰が話してよい人で、誰が話さない方がよい人なのか。
外には、教材だけでは教えにくいことがたくさんありました。
「外では、話しかける前に私へ聞いてください」
「日向さんがいいって言ったら?」
「その時は、挨拶してもいいですよ」
「分かった」
悠人さんはうなずきました。
少しして、犬を連れた人がこちらを見て笑いました。
「こんにちは」
先に声をかけられました。
悠人さんは、すぐに私を見ました。
私はうなずきました。
「こんにちは」
悠人さんは大きな声で挨拶しました。
結衣さんも、
「こん」
と真似をしました。
犬を連れた人は、もう一度笑いました。
「かわいいね」
どちらのことを言ったのかは分かりませんでした。
悠人さんは、自分だと思ったようでした。
「ありがとうございます」
私が答える前に言いました。
商店へ入ると、悠人さんは入口で立ち止まりました。
棚に、たくさんの商品が並んでいました。
センターの倉庫にも物はたくさんありました。
けれど、必要なものだけを職員が持ってきました。
同じ種類の物が並び、そこから選ぶ場所へ入ったのは、二人とも初めてでした。
「全部買うの?」
「買いません」
「どうして?」
「必要なものを選ぶところだからです」
「どれが必要?」
「今日は、それを考える練習です」
職員から、外出用の予算を渡されていました。
育児用品のほかに、児童自身が少額の商品を選ぶことも、社会経験の一つとされていました。
「悠人さんは、一つ選んでいいですよ」
「一つ?」
「はい」
悠人さんは、すぐに玩具の棚へ向かおうとしました。
途中で絵本を見つけ、止まりました。
動物の絵が描かれた本。
乗り物の本。
色の名前を覚える本。
何冊も手に取りました。
「これと、これと、これ」
「一つですよ」
「三つある」
「ですから、一つ選んでください」
「日向さんが選んで」
「悠人さんの物でしょう」
「選べない」
「ゆっくり考えていいですよ」
悠人さんは、床へ座り込むくらい真剣に迷いました。
職員は少し離れた場所で待っていました。
急かしませんでした。
私は隣にしゃがみました。
「どれが一番読みたいですか」
「全部」
「一番です」
「一番が三つある」
「それでは、今日は一冊にして、次に来られた時にまた考えましょう」
「また来る?」
「今日、問題がなければ申請できます」
職員が答えました。
悠人さんは少し安心したようでした。
最終的に、乗り物の絵本を選びました。
「これにする」
「決まりましたか」
「うん」
「では、自分で持っていきましょう」
悠人さんは本を胸に抱えました。
結衣さんには、私が何かを選ぶことになりました。
棚には、小さな布の玩具や、色のついた髪留めが並んでいました。
私は迷いました。
センターでは、必要なものはすべて用意されました。
服も。
玩具も。
寝具も。
何がその子に似合うのかを考える必要はありませんでした。
結衣さんの髪は、少しずつ長くなっていました。
外出用の服に縫い付けられた花を、さっきから気にしていました。
私は小さな花の髪留めを手に取りました。
白い花と。
黄色い花。
「結衣さん、どちらがいいですか」
両方を見せました。
結衣さんは迷わず、黄色い方へ手を伸ばしました。
「こちらですか」
「きいろ」
「黄色ですね」
髪留めを結衣さんへ渡しました。
すぐ口へ入れようとしたので、慌てて取り上げました。
「食べ物ではありません」
「結衣さん、だめだよ」
悠人さんが言いました。
自分も少し前まで、何でも口へ入れていたことは覚えていないのでしょう。
会計の場所で、悠人さんに本を渡させました。
店の人が金額を言いました。
私は渡された予算から支払いました。
悠人さんは、商品とお金が交換される様子を真剣に見ていました。
「もう悠人さんの?」
店を出ると尋ねました。
「はい」
「センターのじゃない?」
私は少し考えました。
使ったのはセンターから渡されたお金でした。
センターの外出業務で買ったものです。
持ち物の記録にも残るのでしょう。
それでも、どの本にするかを選んだのは悠人さんでした。
「悠人さんが選んだ本です」
「悠人さんの?」
「はい」
悠人さんは嬉しそうに本を抱き直しました。
私は結衣さんの髪へ、黄色い花を付けました。
結衣さんは自分では見えないので、何度も頭へ手を伸ばしました。
「取らないでくださいね」
「はな」
「似合っていますよ」
最後に、小さな焼き菓子を三つ買いました。
外出中の飲食も、許可された範囲であれば育児担当者の判断に任されていました。
「三つ?」
悠人さんが袋をのぞきました。
「三人ですから」
「職員さんは?」
少し離れたところにいる職員を見ました。
「職員さんは、お仕事中です」
「日向さんもお仕事?」
「そうですね」
「じゃあ食べない?」
「私は食べます」
「どうして?」
説明できませんでした。
外出も育児業務の一部でした。
けれど、業務だから私だけ食べてはいけないという決まりはありません。
「三人で食べるために買ったからです」
そう答えました。
買い物のあと、公園へ行きました。
センターの庭より狭く、きれいに整えられているわけでもありませんでした。
地面には、風で飛んできた葉が落ちていました。
遊具の塗装が少し剥がれていました。
ベンチには誰かが忘れた紙が置かれていました。
それでも、センターの庭にはないものがありました。
大きな声で走り回る子ども。
その子を叱る人。
犬の散歩をする人。
買い物袋を持ったまま休んでいる人。
泣いている赤ん坊。
それをあやしている人。
誰かが管理して配置したのではない人たちが、好きな場所にいました。
「遊んでいい?」
悠人さんが尋ねました。
「私から見える場所なら」
「滑るやつ行く」
「気をつけてください」
悠人さんは遊具へ走りました。
途中で一度だけ振り返りました。
私がいることを確認すると、そのまま登っていきました。
結衣さんは、私の手を握ったままでした。
「結衣さんも行きますか」
首を横に振りました。
「怖い?」
「ここ」
「ここにいますか」
「うん」
ベンチの近くで、小さな石を拾いました。
一つ拾っては、私へ見せました。
「これは?」
「石ですね」
「これも?」
「それも石です」
「ちがう」
「色が違いますね」
結衣さんにとっては、一つずつ違うものなのでしょう。
私は受け取った石を、ベンチの上へ並べました。
少し離れた場所で、子どもの声がしました。
「お母さん、見て!」
遊具の上から、女の子が手を振っていました。
その下にいた女性が顔を上げました。
「見てるよ。気をつけてね」
どこにでもあるやり取りなのでしょう。
誰も振り返りませんでした。
悠人さんも気にしていませんでした。
私だけが、その声を聞きました。
女の子はもう一度、
「お母さん」
と呼びました。
女性は、名前を呼び捨てにして答えました。
私たちと、よく似ていました。
子どもが遊具へ登り。
そばにいる人が見守っている。
呼び方と、帰る場所だけが違いました。
「日向さん」
今度は悠人さんが私を呼びました。
遊具の上から、こちらを見ていました。
「見てて」
「見ていますよ」
「滑るよ」
「はい」
悠人さんが滑りました。
途中で少し身体が傾きましたが、無事に下まで降りました。
すぐに私の方を見ました。
「できた」
「上手でしたね」
悠人さんは笑いました。
私は手を振りました。
それで十分でした。
しばらく遊んだあと、三人でベンチに座りました。
買った焼き菓子を袋から出しました。
同じものを三つ選んだはずでした。
けれど、悠人さんは並べて比べました。
「これ、大きい」
「少しだけですよ」
「日向さんのが大きい」
「では、交換しますか」
「結衣さんのも大きい」
「全部同じくらいです」
「悠人さんの小さい」
仕方がないので、三つを少しずつ割りました。
「これで同じです」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶん?」
「なるべく同じです」
悠人さんは、まだ少し不満そうでした。
結衣さんは大きさを気にせず、すぐに口へ入れました。
少し大きすぎたので、取り出して小さくちぎりました。
「ゆっくり食べてください」
「おいしい」
「そうですか」
悠人さんも一口食べました。
「おいしい」
「よかったですね」
「日向さんも」
悠人さんが、私の分を指しました。
「はい」
私も食べました。
少し甘く、外側は柔らかく焼かれていました。
センターでも、もっと高価なお菓子が出ることはありました。
形も味も、そちらの方が整っていたと思います。
けれど、その焼き菓子は特別でした。
悠人さんが選ぶのを手伝い。
結衣さんの分を小さくちぎり。
三人で同じ袋から出して食べました。
「また食べる?」
悠人さんが尋ねました。
「また外出できたら」
「また来る?」
「申請が通れば」
「しんせい?」
「センターに、来てもいいですかと聞くんです」
「日向さんが聞く?」
「はい」
「いいって言う?」
答える前に、少し離れたところにいた職員が言いました。
「本日の外出に問題がなければ、次回も申請可能です」
悠人さんは私を見ました。
「問題ある?」
「今のところ、ありません」
「じゃあ、また来る?」
次が必ずあるとは限りませんでした。
体調。
配置。
センターの判断。
外出を続けるための条件はいくつもありました。
それでも、今回は答えました。
「また来ましょう」
「三人で?」
「三人で」
結衣さんは焼き菓子を食べながら、
「さんにん」
と真似をしました。
悠人さんが笑いました。
「結衣さん、分かってない」
「分かっているかもしれませんよ」
「分かってないよ」
「どうして分かるんですか」
「悠人さん、お兄さんだから」
お兄さん。
その言葉をどこで覚えたのでしょう。
センターでは、二人を家族として扱っていませんでした。
同じ育児担当者が育てている児童。
同じ出産者の記録を持つ児童。
書類には、そのように書かれているのでしょう。
「誰に教わったんですか」
「本」
「そうですか」
「悠人さん、お兄さん?」
私はすぐには答えませんでした。
制度上の正しい答えを考えました。
それから、結衣さんの口元に付いた菓子を拭いました。
「そうなりたいですか」
「うん」
「では、結衣さんに優しくしてください」
「できる」
悠人さんは胸を張りました。
結衣さんは何も分からず、残っていた菓子へ手を伸ばしました。
外出時間の終了が近づきました。
職員に声をかけられ、私たちは公園を出ました。
「まだ遊ぶ」
悠人さんは言いました。
「今日は帰る時間です」
「また来る?」
「来ましょう」
「約束?」
「はい」
帰り道では、結衣さんを抱きました。
遊び疲れたのか、私の肩に顔をつけて眠りました。
悠人さんは片手で買った絵本を抱え、もう片方の手で私の手を握りました。
「重くない?」
結衣さんを見て尋ねました。
「少しだけ」
「悠人さん、持つ?」
「結衣さんを?」
「うん」
「まだ無理ですよ」
「絵本は持てる」
「それは自分で持ってください」
「日向さん、たいへん?」
「大丈夫です」
今度の大丈夫は、嘘ではありませんでした。
門の前まで戻ると、悠人さんは少しだけ立ち止まりました。
「もう外じゃない?」
「門を入ったら、センターです」
「また出る?」
「また申請しましょう」
門が開きました。
私たちは中へ入りました。
振り返ると、外の道が見えました。
門はゆっくりと閉まりました。
鍵の音は聞こえませんでした。
それでも、外と中は分かれました。
育児室へ戻ると、悠人さんはすぐに買った絵本を開きました。
「読んで」
「着替えてからにしましょう」
「今」
「髪や服を整えてからです」
「少しだけ」
「一ページだけですよ」
一ページだけ読むつもりでした。
けれど悠人さんは、次のページも見たいと言いました。
結局、着替える前に最後まで読みました。
結衣さんは、黄色い花の髪留めを付けたまま眠っていました。
寝具に引っかかると危ないので、そっと外しました。
目を覚ますことはありませんでした。
二人が眠ったあと、私は外出記録を入力しました。
指定区域外への移動なし。
第三者との接触、挨拶一件。
店舗での購入行動、良好。
公園利用時の問題行動なし。
児童の社会適応状況、良好。
育児担当者の指示理解、良好。
画面の中では、それだけの一日でした。
悠人さんが三冊の絵本を前に長く迷ったことも。
結衣さんが黄色い花を選んだことも。
公園で拾った石を、色ごとに並べたことも。
焼き菓子の大きさが同じかどうかで揉めたことも。
三人でまた来ようと約束したことも。
どこにも書く欄はありませんでした。
私は記録を送信しました。
その日、私たちは社会を学んだことになりました。
私が覚えていたのは、三人で食べた焼き菓子の味と。
帰り道で、両方の手に感じていた重さでした。




