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少女漫画みたいな恋に、人間牧場を混ぜるな  作者: 白瀬余白


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10/40

第10話名前を見ない

 いつからか、私は予定表に書かれた名前を読まなくなりました。


 生殖業務。


 午後五時。


 確認するのは、その二つだけでした。


 誰が来るのかを知っても、何かを変えられるわけではありません。


 名前を覚えても、もう一度会うとは限りません。


 前の日から顔を想像し、どんな人なのだろうと考える時間が増えるだけでした。


 だから、見ないことにしました。


 紙を受け取ったら、業務の日時だけを確認する。


 その時間から逆算して、悠人さんを何時に職員へ預けるかを見る。


 業務が終わったあと、何時頃に育児室へ戻れるかを考える。


 相手の名前が書かれている場所は、視線を滑らせました。


 一度、職員が予定を読み上げようとしました。


「次回の担当者は――」


「名前は、結構です」


 自分でも驚くほど自然に言葉が出ました。


 職員は一度だけ私を見ました。


「ご確認されなくてもよろしいですか」


「はい」


「当日、担当者本人から名乗られる場合がございますが」


「構いません」


「承知いたしました」


 それだけでした。


 名前を知らなくても、業務には何の支障もありませんでした。


 むしろ、名前がない方が楽でした。


 誰かの息子で。


 誰かの友人で。


 どこかで仕事をしている人。


 そう考えずに済みました。


 部屋へ来る人は、業務が始まる時に現れ、終わればいなくなる人でした。


 それ以上のことを知らなければ、私の中に残るものも少なくて済みました。


 悠人さんは、少しずつ言葉を増やしていました。


「日向さん」


 朝、目を覚ますと呼びました。


「はい」


「おはよう」


「おはようございます、悠人さん」


 まだ上手に言えない言葉もたくさんありました。


 食べ物の名前。


 玩具の名前。


 窓の外に見えるもの。


 職員から教えられた言葉を、一つずつ覚えていきました。


 私が生殖業務へ行く日、悠人さんは、いつもと違う時間に職員が来ることへ気づくようになりました。


「日向さん、どこ?」


 着替えをしている私を見上げて、尋ねました。


「お仕事です」


「おしごと?」


「はい」


「悠人さんも?」


「悠人さんは、今日は職員さんと過ごします」


「日向さんと、ちがう?」


「少しだけです」


「どこ行くの?」


 私は答えに困りました。


 育児業務。


 生殖業務。


 センターでは、どちらも同じ業務でした。


 けれど、悠人さんへ同じ言葉で説明することはできませんでした。


「別のお部屋です」


「すぐ帰る?」


「終わったら戻ります」


「ほんと?」


「はい」


 悠人さんは、私の服をつかみました。


 赤ん坊の頃と同じ場所でした。


 指の力は、あの頃よりずっと強くなっていました。


「約束します」


 私は言いました。


 約束という言葉を使ってよいのか、少し迷いました。


 自分の意思だけで守れる約束ではありません。


 体調に問題があれば、戻る時間は遅くなります。


 職員が認めなければ、育児室へ入ることはできません。


 それでも、戻るつもりでいることだけは本当でした。


「日向さん、かえる?」


「帰ります」


 悠人さんは、ようやく服から手を離しました。


 職員と一緒に廊下を歩きました。


 以前は、業務の部屋へ向かう間、自分のことを考えていました。


 痛くないだろうか。


 早く終わるだろうか。


 今度の人は、何を言うだろうか。


 その頃には、考えることが変わっていました。


 悠人さんは泣いていないでしょうか。


 昼食は食べられたでしょうか。


 昼寝の前に、いつもの本を読んでもらえたでしょうか。


 相手の名前を知らなくても、困りませんでした。


 私が覚えていたい名前は、別の部屋にいました。


 業務は月に一度ほど続きました。


 部屋の絵も。


 机の上の水も。


 終了後の確認も。


 以前と変わりませんでした。


 変わったのは、私がそこへ持ち込むものだけでした。


 終わったあとに戻る場所がありました。


 待っている人がいました。


 以前は、業務が終われば自分の部屋へ戻るだけでした。


 今は、悠人さんのいる部屋へ戻りました。


「日向さん」


 扉が開くと、悠人さんは私を呼びました。


 走れるほどではありませんでしたが、職員の手を離れ、こちらへ歩こうとしました。


 途中でよろけました。


 私はすぐにしゃがみました。


「ただいま戻りました」


「おかえり」


「はい。ただいま」


 その言葉を聞くためなら、急いで着替える理由がありました。


 月がいくつか過ぎました。


 定期健診の日、私はいつもどおり診察を受けました。


 体温。


 体重。


 血圧。


 採血。


 問診。


 悠人さんを育て始めてから、検査の時間は少しだけ気楽になりました。


 終われば育児室へ戻れると分かっていたからです。


「結果は、午後にお伝えします」


 職員に言われ、私は部屋へ戻りました。


 悠人さんは床へ座り、絵の描かれたカードを並べていました。


「これ、なに?」


 犬の絵を指しました。


「犬です」


「いぬ」


「はい」


「これは?」


「猫ですね」


「ねこ」


「そうです」


 一枚ずつ答えました。


 しばらくすると、医師と職員が部屋へ来ました。


 二人で来るのを見た時、以前にも同じことがあったと思いました。


「日向様」


 医師が言いました。


「妊娠反応が確認されました」


 二度目でした。


 驚かなかったわけではありません。


 けれど、一度目とは違いました。


 何を意味するのか、もう知っていました。


 これから身体がどう変わるのか。


 どんな検査が増えるのか。


 出産まで、どれほどの時間があるのか。


 私は自分のお腹へ手を当てませんでした。


 最初に見たのは、悠人さんでした。


 床へ座ったまま、職員の持っている書類を見上げていました。


「育児業務は」


 私は尋ねました。


「悠人さんの育児は続けられますか」


 医師はすぐに答えました。


「現在の経過であれば、継続可能です」


 胸の奥にあった力が抜けました。


「体調や妊娠の進行に応じて、夜間業務や一部の作業は職員が補助します」


「一緒にはいられますか」


「はい。配置を変更する予定はございません」


「分かりました」


 一度目に妊娠を告げられた時、私は次の生殖業務が止まるかを尋ねました。


 二度目に考えたのは、悠人さんと離されないかということでした。


 その違いに気づいたのは、医師たちが帰ったあとでした。


「日向さん」


 悠人さんが私の服を引きました。


「はい」


「どうしたの?」


「何でもありません」


「いたい?」


「痛くありませんよ」


「びょうき?」


「違います」


 どう説明すればよいのか考えました。


 センターでは、児童へ教える内容にも決まりがありました。


 けれど、妊娠していることを隠すようには言われていませんでした。


「お腹の中に、赤ちゃんがいるんです」


「あかちゃん?」


「はい」


 悠人さんは、私のお腹を見ました。


 まだ、外から見ても何も分かりませんでした。


「どこ?」


「ここです」


 自分のお腹を指しました。


 悠人さんは、少し迷ってから手を伸ばしました。


「さわっていい?」


 その尋ね方を、どこで覚えたのでしょう。


 私は一瞬、出産した日のことを思い出しました。


 悠人さんへ触れる時、私も許可を求めました。


「はい」


 悠人さんの手が、服の上から触れました。


「いないよ」


「まだ小さいんです」


「いつ来る?」


「ずっと先です」


「明日?」


「明日より、もっと先です」


「ごはんのあと?」


「それよりも、ずっと先です」


 悠人さんは、よく分からない顔をしました。


 それからもう一度、私のお腹へ手を当てました。


「赤ちゃんも、日向さんが見るの?」


 私は答える前に少し考えました。


 この子を育てることは、まだ決まっていません。


 産んだからといって、私が担当になれるとは限りません。


 希望を出すことはできます。


 審査されます。


 許可されれば、そばにいられます。


「そうできるように、お願いするつもりです」


「いっしょ?」


「はい」


「悠人さんも?」


「悠人さんも一緒です」


 そう答えると、悠人さんは笑いました。


 何を理解したのかは分かりませんでした。


 赤ちゃんが増えること。


 私のお腹から生まれること。


 同じ場所で暮らすこと。


 どこまで分かっていたのでしょう。


 それでも、その日から、ときどき私のお腹へ話しかけるようになりました。


「あかちゃん」


 服の上から、呼びました。


「ねてる?」


「たぶん」


「ごはん食べる?」


「私が食べたものが届きます」


「おかしも?」


「たぶん、少しは」


「これあげる」


 自分の皿から、小さな焼き菓子を一つ差し出しました。


「赤ちゃんは、まだ食べられません」


「日向さんが食べて」


「私が?」


「そしたら、いく」


 私は焼き菓子を受け取りました。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 悠人さんは得意そうに笑いました。


 妊娠が進むにつれて、育児業務の一部を職員が手伝うようになりました。


 重いものを持たない。


 長時間立ち続けない。


 夜中に悠人さんが起きた時は、職員が先に様子を見る。


 決められたことでした。


 悠人さんは、夜中に職員が来ると私を探しました。


「日向さんは?」


「隣のお部屋で休んでいますよ」


 その声が聞こえると、私は起きました。


 職員から止められることもありました。


「こちらで対応できます」


「分かっています」


「日向様はお休みください」


「少し顔を見るだけです」


「体調に問題が出ますと、育児継続にも影響いたします」


 そう言われると、戻るしかありませんでした。


 自分の身体を大切にする理由が、一度目とは変わっていました。


 身体の中の子どものため。


 それだけではありません。


 悠人さんの育児を続けるためでもありました。


 私が倒れれば、二人とも別の担当者へ移されるかもしれません。


 だから食事を残しませんでした。


 休むよう言われれば休みました。


 眠れなくても、ベッドへ横になりました。


 センターの指示へ従うことが、子どもたちのそばにいるための条件になっていました。


 初めて胎動を感じた夜、悠人さんは隣にいました。


 私が急に動きを止めたので、不思議そうに顔を見ました。


「どうしたの?」


「動きました」


「なにが?」


「赤ちゃんです」


 悠人さんは、すぐに私のお腹へ手を当てました。


「うごかない」


「少し待ってください」


 二人で待ちました。


 しばらくすると、もう一度、小さく内側から押されました。


 悠人さんが目を見開きました。


「いた」


「いましたね」


「赤ちゃん、いるね」


「はい」


「でてくる?」


「まだです」


「まだ?」


「もう少し待ちましょう」


「どのくらい?」


「たくさん眠ったあとです」


「じゃあ、今日ねる」


「一度では足りませんよ」


「いっぱいねる」


 悠人さんは、私のお腹へ顔を近づけました。


「あかちゃん、はやくねて」


「赤ちゃんではなく、悠人さんが眠るんですよ」


「いっしょ」


「そうですね」


 その夜から、悠人さんは眠る前に、


「赤ちゃん、おやすみ」


 と言うようになりました。


 家族関係を示す言葉は、教えられていませんでした。


 きょうだいという呼び方も、悠人さんはまだ知りませんでした。


 けれど、知らないまま待っていました。


 私も同じでした。


 制度の中で二人が何と呼ばれるのかより、無事に生まれてくることだけを考えるようになりました。


 出産の日、悠人さんは育児部門の職員へ預けられました。


「日向さん、かえる?」


 部屋を出る前、何度も尋ねました。


「帰ります」


「今日?」


「できるだけ早く」


「約束?」


「約束です」


 今度も、自分だけでは守れない約束でした。


 それでも言いました。


 出産は、一度目より短く終わりました。


 痛みが小さかったわけではありません。


 ただ、何が起きているのかを少し知っていました。


 どこまで続くのか。


 何をすればいいのか。


 終わったあと、どんな声が聞こえるのか。


 その声を待ちました。


 やがて、小さな泣き声が聞こえました。


「女児です」


 職員が言いました。


「母体、児ともに異常はありません」


 私は目を閉じました。


 身体から力が抜けました。


「見せてください」


 今度は、すぐに言うことができました。


 確認を終えた子どもが、白い布に包まれて運ばれてきました。


 悠人さんが生まれた時より、少し小さく見えました。


 目を閉じ、口を動かしていました。


「触れてもいいですか」


「はい」


 許可を求めることには、まだ慣れませんでした。


 それでも、尋ねなければ触れられません。


 私は小さな頬へ指を当てました。


 温かい肌でした。


「登録名のご希望はございますか」


 職員が尋ねました。


 私は子どもの顔を見ました。


「結衣」


 その名前は、考えるより先に出ました。


「結衣がいいです」


「漢字をお願いいたします」


 答えると、職員は端末へ入力しました。


 少しの確認のあと、


「使用上の問題はございません。登録名は結衣で承認されました」


 と言いました。


「結衣」


 小さな声で呼びました。


 返事はありませんでした。


 それでも、名前が決まると、そこにいる子どもが急に近くなったように感じました。


 相手の名前は見なくなりました。


 覚える必要がないと思いました。


 けれど、この子の名前は、自分で選びました。


 何度でも呼びたいと思いました。


「出産後の配置について、ご希望を確認いたします」


 職員が書類を開きました。


「育児業務を継続されますか」


「はい」


「現在担当されている悠人様について、継続を希望されますか」


「はい」


「新生児についても、担当を希望されますか」


「希望します」


「二児の同時育児となりますので、適性と居室環境の審査が必要です」


「分かりました」


「承認されない場合、新生児は別の育児担当者へ配置されます」


 結衣を見ました。


「二人とも希望します」


 職員は、私の答えを書類へ記入しました。


「申請を行います」


「いつ分かりますか」


「身体の回復状況を確認したうえで、数日以内にお伝えします」


 その数日は、長く感じました。


 結衣は新生児室にいました。


 私は決められた時間に会いに行きました。


 悠人さんへも、身体に無理のない範囲で会うことを許されました。


 悠人さんは、私を見ると駆け寄ろうとしました。


 職員に止められました。


「日向様は、まだ抱き上げることができません」


「どうして?」


「身体が治るまでです」


「いたい?」


 悠人さんが尋ねました。


「少しだけです」


「赤ちゃんは?」


「元気ですよ」


「見る」


「もう少し待ってください」


「いっしょじゃないの?」


 答えられませんでした。


 申請はまだ承認されていません。


「一緒にいられるよう、お願いしています」


「だれに?」


「センターにです」


「センター、いいって言う?」


「言ってくれるといいですね」


 悠人さんは、よく分からないままうなずきました。


 三日後、職員が結果を伝えに来ました。


「日向様の育児業務継続申請について、承認されました」


 私は息を吐きました。


「悠人様の継続担当、および結衣様の新規担当が認められます」


「二人ともですか」


「はい。ただし、当面は補助職員を配置します。日向様の健康状態によっては、業務内容を変更する場合があります」


「分かりました」


「新しい育児室への移動は、明後日を予定しております」


 明後日。


 今度は、待つことのできる明日でした。


 新しい部屋には、二つの小さなベッドが置かれていました。


 一つは、悠人さんにはもう小さすぎるものでした。


 その横に、少し大きな寝台がありました。


 棚も二人分。


 衣類も二人分。


 記録用の端末には、二つの名前が並んでいました。


 悠人。


 結衣。


 相手の名前を見なくなった私が、毎日見る名前でした。


 結衣さんが育児室へ運ばれてくると、悠人さんは小さなベッドをのぞき込みました。


「赤ちゃん?」


「はい」


「この子?」


「この子です」


「なまえは?」


「結衣さんです」


「ゆいさん」


 悠人さんは、覚えるように繰り返しました。


「小さいね」


「悠人さんも、最初は同じくらい小さかったんですよ」


「ほんと?」


「はい」


「日向さん、見た?」


「見ました」


「ずっと?」


「はい」


 正確には、許された時間だけでした。


 けれど悠人さんが聞いているのは、そういうことではない気がしました。


「結衣さんも、日向さんが見るの?」


「はい」


「お仕事?」


 私は少しだけ迷いました。


 それから、うなずきました。


「お仕事です」


「悠人さんも?」


「悠人さんもです」


「ふたり?」


「二人です」


 悠人さんは結衣さんのベッドを見ました。


 結衣さんは眠っていました。


「日向さん、たいへん?」


「少しだけ」


「悠人さん、てつだう」


「ありがとうございます」


「なにする?」


「まずは、静かに見ていてください」


「できる」


 悠人さんは、急に背筋を伸ばしました。


 声も小さくしました。


「ゆいさん、ねてる」


「そうですね」


 私は二人を見ました。


 悠人さんも、結衣さんも、私の仕事でした。


 仕事として申請し。


 仕事として認められ。


 仕事でなければ、そばにいることを許されない子どもたちでした。


 それでも、端末に並ぶ二つの名前を見た時。


 初めて、この部屋へ帰ってきたのだと思いました。


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