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家にいる人  作者: 亀


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第九十九章 知らない名前

息子が帰った翌日、家の中はいつもの静けさに戻っていた。


朝、周は庭へ出た。


昨日まで少し傾いていた支柱は、今朝はまっすぐ立っている。


土は乾いていた。


周はじょうろに水を入れ、芽の周りへ少しずつ水をかけた。


「それ、何の植物なの?」


後ろから劉の声がした。


「知らない」


「昨日もそう言ってたね」


「名前を知らなくても育つだろ」


劉は笑った。


「まあね」


二人はそれ以上、その植物の名前を調べなかった。


昼前、周は市場へ出た。


帰り道、以前よく顔を合わせていた女性に会った。


「周さん、久しぶり」


「久しぶりだね」


女性は買い物袋を両手に持っていた。


「息子さん、昨日帰ってきたんでしょう?」


周は少し驚いた。


「知ってたの?」


「奥さんが魚を買ってるのを見たから」


「そういうことか」


「何日いるの?」


「一泊して、今朝帰ったよ」


「仕事はどう?」


「普通みたいだよ」


女性は少し頷いた。


「うちの娘も、この前帰ってきたの」


「そうか」


「でも、仕事の話はあまりしなくなった」


周は黙って聞いた。


女性は少し笑った。


「前は何でも聞いてたんだけどね。給料はいくらだとか、仕事は忙しいのかとか。最近は、聞いても『まあまあ』しか言わないから」


「そういう時もあるだろ」


「そうだよね」


女性は買い物袋を持ち直した。


「私も、聞いたら何か分かると思ってたんだけど、聞いても分からないことは分からないね」


周は少し笑った。


「そうだな」


二人は市場の入口で別れた。


家へ戻る途中、周はその言葉を考えた。


聞けば分かる。


そう思っていた時期が、自分にもあった。


だが、本人が話したくないこともある。


まだ自分でも整理できていないこともある。


話したところで、聞いた側にはどうすることもできないこともある。


それでも、以前の周は、知らないことをそのままにしておくのが苦手だった。


分からないなら、聞けばいい。


聞いても分からなければ、もう一度聞けばいい。


そうしているうちに、相手が疲れてしまうこともあった。


午後、周は家の前に置かれていた古い段ボールを片付けた。


中には使わなくなった工具が入っていた。


錆びたペンチ。


古いドライバー。


先の欠けた金槌。


どれも長い間使っていない。


周は一つずつ手に取った。


「これは捨てる?」


劉が聞いた。


「まだ使える」


「いつ使うの?」


周は答えなかった。


工具を戻そうとして、手を止めた。


「これは捨てるか」


「珍しいね」


「使わないからな」


劉は笑った。


二人で段ボールを整理した。


いくつかの工具は残し、壊れているものだけを処分した。


夕方、近所の若い女性が訪ねてきた。


「すみません。父が、前に周さんから工具を借りたって言ってたんですけど」


「ああ、あれか」


周は物置を見た。


「どの工具?」


女性は少し考えた。


「名前が分からなくて……」


「じゃあ、一緒に見ればいい」


二人で物置へ行った。


女性は工具を一つずつ見た。


「これかな」


「それだと思う」


「ありがとうございます」


「もう使い終わった?」


「はい。父が仕事で使ってました」


周は工具を渡した。


女性は頭を下げた。


「助かりました」


「いいよ」


帰り際、女性が振り返った。


「父が、今度また仕事を変えるかもしれないって言ってました」


「そうか」


「私は、また変えるのって思ったんですけど……」


女性はそこで言葉を止めた。


周は何も言わなかった。


女性は、


「すみません。変な話をしました」


と言って帰っていった。


周は門を閉めた。


台所へ戻ると、劉が夕飯の準備をしていた。


「誰だった?」


「工具を返しに来た」


「何か話してた?」


「父親が仕事を変えるかもしれないって」


「また?」


「本人が決めることだろ」


劉は包丁を置いた。


「最近、そればっかりだね」


「何が?」


「本人が決めること」


周は少し笑った。


「前は言わなかったからな」


「今は言うようになった」


「言わないと、自分が決めてしまうからな」


劉は少し考えた。


「それもそうだね」


その夜、息子から短いメッセージが届いた。


仕事が終わった、というだけの内容だった。


周は、


「お疲れ」


と返した。


少しして、


「昨日はありがとう」


と返ってきた。


周はその画面を見た。


何についての「ありがとう」なのかは分からなかった。


魚のことかもしれない。


部屋のことかもしれない。


何も聞かなかったことかもしれない。


あるいは、ただ帰ってきたことを受け入れてくれたことへの言葉かもしれない。


周は聞かなかった。


「また帰ってこい」


とだけ送った。


少しして、


「うん」


と返ってきた。


周はスマートフォンを伏せた。


庭を見ると、昼間に水をやった葉が、暗い中でも少しだけ形を見せていた。


名前はまだ分からない。


植えた覚えも、はっきりとは思い出せない。


それでも、そこにあることだけは分かっていた。

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