第九十八章 戻ってきた人
四月の最初の週末だった。
朝から空は曇っていた。
周は庭に出て、前の日に崩した土をもう一度ならした。
去年使った支柱が一本、物置の横に立てかけてある。
先の部分が少し欠けていた。
「それ、まだ使うの?」
劉が玄関から声を掛けた。
「使えるだろ」
「古いよ」
「古いけど、折れてない」
周は支柱を持ち上げ、土に差してみた。
少し傾いた。
「ほら、使える」
劉は笑った。
「そういうところだけは昔から変わらないね」
「何が?」
「使えるものは捨てない」
周は返事をせず、支柱の周りの土を押さえた。
昼前、息子から電話があった。
「今日、そっちに行くことになった」
周は一瞬、手を止めた。
「今日?」
「うん。予定が少し変わったから」
「何時ごろ?」
「夕方になると思う」
「分かった」
「母さん、いる?」
「いるよ」
「じゃあ、後で話す」
電話が切れた。
周は家の中へ戻った。
劉は台所で昼食の準備をしていた。
「息子、今日来るぞ」
「今日?」
「うん。夕方」
劉は一度手を止め、それから冷蔵庫を開けた。
「魚、買ってないよ」
「まだ午前中だろ」
「じゃあ、買ってくる」
「そんなに急がなくてもいい」
「帰ってくるなら、何か作るでしょ」
劉は財布を持った。
周はそれを見ながら、
「大きいのは買わなくていいぞ」
と言った。
「分かってるよ」
劉は玄関を出ていった。
周は一人になった台所で、テーブルの上を片付けた。
息子が帰ってくるのは久しぶりだった。
予定が何度か変わったから、周はもう、日にちを数えなくなっていた。
帰ってくると分かっても、以前ほど大きな準備をしなくなった。
それでも、帰ってくると聞けば、少しだけ家の中が変わる。
古い椅子の上に置いてあった新聞を片付ける。
息子が昔使っていた部屋の窓を開ける。
布団を一度干す。
それくらいだった。
午後になって、周は息子の部屋へ入った。
机の引き出しには、昔の筆箱が一つ残っていた。
中には短い鉛筆と、消しゴムが入っている。
周はそれを手に取った。
「まだあったんだ」
独り言のように言って、元の場所へ戻した。
昔なら、こういうものを見ると、息子が子どものころのことを思い出した。
今は、思い出すこともあるが、それをわざわざ本人に話そうとは思わなかった。
本人には本人の今の生活がある。
夕方近くになって、車の音がした。
劉が先に玄関へ向かった。
「帰ってきた」
息子が荷物を一つ持って立っていた。
「ただいま」
「おかえり」
周は少し遅れて玄関へ行った。
「疲れたか?」
「少しだけ」
「飯、食べる?」
「食べる」
それだけだった。
三人で台所に座った。
劉が買ってきた魚を焼き、野菜を煮た。
息子は仕事の話を少しした。
「今の仕事、前よりは慣れてきた」
「そうか」
「ただ、来月から少し忙しくなるかもしれない」
周は箸を止めた。
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
息子のほうから続けた。
「まだ詳しいことは決まってないけどね」
「決まったら考えればいい」
息子は頷いた。
「うん」
劉が魚を取り分けながら、
「仕事が忙しくなると、また帰ってこられなくなるね」
と言った。
息子は少し考えて、
「そうなるかもしれない」
と答えた。
劉は何も言わなかった。
昔なら、
「じゃあ、いつ帰ってくるの?」
とすぐ聞いていただろう。
今日は魚を息子の皿に置いただけだった。
食事が終わると、息子が皿を洗った。
「置いといていいよ」
劉が言った。
「これくらいするよ」
「そう?」
「うん」
周は横で湯を沸かした。
三人でお茶を飲んでいると、息子が庭を見た。
「何か植えた?」
「まだ決めてない」
「じゃあ、あれは?」
「去年のやつが勝手に出てきた」
息子が笑った。
「強いな」
「何の植物かも分からない」
「それでいいの?」
「育ってるからいいだろ」
息子は庭をしばらく見ていた。
「昔だったら、何を植えるか決めてから植えてたよね」
周は笑った。
「そうだったか?」
「そうだったよ」
「覚えてないな」
「俺は覚えてる」
その言葉に、周は何も返さなかった。
息子は笑って、お茶を一口飲んだ。
夜になって、息子は昔の部屋で寝ることになった。
周は布団を敷いた。
「ここ、まだ使える?」
「使えるよ」
「机もそのままだね」
「捨てる理由がなかったからな」
息子は机の引き出しを開けた。
昔の筆箱を見つけた。
「これ、まだあるんだ」
「さっき俺も見た」
「何で捨てなかったの?」
「別に邪魔じゃなかったから」
息子は筆箱を手に取って、しばらく眺めた。
「持って帰ろうかな」
「持っていくなら持っていけばいい」
「じゃあ、明日持って帰る」
「分かった」
周は部屋を出た。
廊下の明かりを消して、居間へ戻る。
劉はテレビを見ていた。
「寝た?」
「まだ」
「昔の筆箱、持って帰るって」
「そう」
劉はテレビを見たまま言った。
「少しずつ物が減っていくね」
「そうだな」
「寂しい?」
周は少し考えた。
「分からない」
劉は笑った。
「またそれ?」
「本当に分からないんだよ」
テレビの音だけがしばらく続いた。
翌朝、息子は早く起きた。
朝食を食べ、荷物をまとめた。
筆箱は鞄の小さなポケットに入っていた。
「じゃあ、行くね」
「気をつけて」
劉が言った。
周は玄関まで見送った。
「また来る」
「うん」
車が道路の先へ消えていく。
周はすぐには家へ戻らなかった。
門の横に立ったまま、しばらく道路を見ていた。
やがて、風が吹いた。
庭の小さな葉が揺れた。
周は門を閉めて、家へ戻った。
台所には昨夜の皿が二枚残っていた。
劉が洗い始める。
周は庭へ出て、昨日立てた支柱を見た。
少し傾いている。
周は手で押さえた。
今度はまっすぐになった。
それから、何もせず家の中へ戻った。




