↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
家にいる人  作者: 亀


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

97/301

第九十七章 決めていないこと

四月に入る少し前の朝だった。


周はいつもより早く目を覚ました。


窓の外はまだ薄暗かったが、雨は降っていなかった。


台所へ行くと、劉が湯を沸かしていた。


「今日は早いね」


「なんとなく目が覚めた」


周はそう言って、椅子に座った。


テーブルの上には、昨日買ってきた野菜が置いてある。


白菜と青菜、それから卵が一パック。


魚はまだ買っていなかった。


息子が帰ってくる日がまだ確定していないからだった。


「魚、買わなくていいの?」


劉が聞いた。


「まだいいだろ。日にちが決まってからで」


「そうだね」


劉はそれ以上言わなかった。


以前なら、周はこういうことでも先に決めてしまっていた。


何日に帰ってくるのか。


何時ごろ着くのか。


何を食べるのか。


帰ってきたらどこへ行くのか。


今は、決まっていないことは決まっていないままにしておくことが増えた。


それが楽なのかどうか、周自身にもまだよく分からなかった。


ただ、予定が変わったときに、また最初から考え直さなくて済む。


午前中、周は家の前を掃いた。


少し風が吹くと、細かい土が道路の端へ寄っていく。


隣の家では、若い男が自転車のチェーンを直していた。


何度か工具を置いては、スマートフォンを見ている。


周が通りかかると、男が顔を上げた。


「おはようございます」


「おはよう」


「この前、父から電話があって」


「そうか」


男はチェーンを手で回しながら笑った。


「仕事のことを聞かれたんですけど、まだ何も決まってなくて」


「仕事、変えるのか?」


「まだ分からないです。今のところに残るかもしれないし、別のところを探すかもしれないし」


周は自転車を見た。


チェーンが少し外れている。


「じゃあ、まだ決めなくてもいいんじゃないか」


男は少し考えてから、


「そうですよね」


と言った。


それだけだった。


周も、それ以上は聞かなかった。


家に戻ると、劉が洗濯物を干していた。


「隣の子、仕事変えるって?」


「まだ決めてないって」


「そう」


劉は洗濯物を一枚、竿に掛けた。


「昔だったら、仕事はちゃんと決めてから辞めろって言ってたよね」


「言ってたな」


「今でもそう思う?」


周は少し黙った。


「場合によるだろ」


「便利な答えになったね」


劉が笑った。


周も笑った。


昔なら、そんな言い方はしなかった。


辞めるなら次を決める。


仕事は長く続ける。


若いうちは我慢する。


そういう言葉を、周は何度も使ってきた。


その言葉が間違っていたということではない。


ただ、それだけでは分からないことがある。


職場の中で何が起きているのか。


本人が何を考えているのか。


給料だけではなく、時間や体力をどう使っているのか。


そこまで知らずに、外から見える部分だけで話していたこともあった。


昼前、周は市場へ行った。


魚売り場の前で少し立ち止まったが、今日は買わなかった。


店員が、


「今日は買わないの?」


と声を掛けた。


「まだ家に人が帰ってくる日が決まってなくてね」


「そうなんだ」


「決まったら買いに来るよ」


「じゃあ、そのときに」


周は野菜だけ買って帰った。


帰宅してしばらくすると、スマートフォンが鳴った。


息子からだった。


「今、大丈夫?」


「大丈夫だ」


「この前言った帰る話だけど、たぶん予定が少し変わる」


周は黙って聞いた。


「土曜日の夜になるかもしれない。まだ会社のほうが確定してないけど」


「分かった」


「母さんには、まだ言わないでくれる?」


「自分から言うのか?」


「うん。決まってから言う」


「じゃあ、そうすればいい」


少し間があった。


「父さん、最近あまり聞かなくなったね」


「何を?」


「いつ帰るのかとか、仕事はどうなのかとか」


周は窓の外を見た。


庭の木に、小さな葉がいくつか出ている。


「決まってないことを聞いても、分からないだろ」


息子が少し笑った。


「まあ、そうだね」


「決まったら教えてくれればいい」


「うん」


電話が切れた。


周はしばらくスマートフォンを机の上に置いたままにした。


以前なら、劉にすぐ話していたかもしれない。


「息子が土曜日に帰ってくるらしい」


そう言ってしまえば、劉は布団を出し、魚を買う日を考え、冷蔵庫の中を確認しただろう。


今回はまだ何も決まっていない。


だから、何もしなかった。


午後、劉が買い物から戻ってきた。


「何かあった?」


「いや」


「電話?」


「息子から」


劉は周の顔を見た。


「帰ってくるって?」


「まだ分からないって」


それだけ言うと、周は立ち上がって、買ってきた野菜を冷蔵庫へ入れた。


劉も何も聞かなかった。


夕方、二人で庭に出た。


冬の間に固くなっていた土を、周が小さな鍬で少しずつ崩していく。


「今年、何植える?」


劉が聞いた。


「まだ決めてない」


「またそれ?」


「植えるものも、決めてからでいいだろ」


劉は笑った。


「最近、何でも決めるのが遅くなったね」


周は土を見ながら答えた。


「決めるのが遅いんじゃなくて、決めなくていいものを決めなくなったんだよ」


劉は少し黙っていた。


それから、


「そういうことか」


と言った。


夕方の風はまだ冷たかった。


庭の隅には、去年から残っている古い鉢が一つ置いてある。


そこから小さな芽が出ていた。


周はしゃがんで、それを見た。


何の植物だったのか、すぐには思い出せなかった。


「これ、何だっけ?」


「知らない」


「去年植えたんじゃない?」


「そうだったかもね」


二人とも、それ以上考えなかった。


芽は芽のまま、そこにあった。


家の中へ戻るころには、空が暗くなっていた。


夕飯は白菜と卵、それから昨日の残りの野菜だった。


食べ終わったあと、周は息子から電話があったことをもう一度思い出した。


帰ってくるかもしれない。


来ないかもしれない。


土曜日になるかもしれない。


別の日になるかもしれない。


今のところは、それだけだった。


劉は食器を片付けながら、


「魚、いつ買う?」


と聞いた。


周は少し考えてから、


「決まったらでいいよ」


と答えた。


劉は、


「分かった」


と言って、皿を流しへ運んだ。


外では、風に揺れた木の枝が窓に小さく触れていた。


まだ春にはなりきっていなかった。


それでも、庭の芽だけは、少しずつ伸びていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。