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家にいる人  作者: 亀


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第九十六章 話さなかったこと

三月の終わり頃、朝の空気が少しずつ柔らかくなってきた。


周は庭の草を抜いていた。


冬の間に枯れた草の下から、小さな緑が出ている。


全部抜いてしまわないように、手を止めながら作業をした。


「それ、雑草じゃないの?」


劉が玄関から言った。


「分からない。」


「じゃあ、何で残してるの?」


「分からないから。」


劉は少し笑った。


「変なの。」


「もう少し見てからでいいだろ。」


「そうね。」


劉は家の中へ戻った。


周はしゃがんだまま、しばらく小さな葉を見ていた。


午後、王がやってきた。


手にはスーパーの袋を持っている。


「これ、余ったから。」


「何だ?」


「みかん。」


「そんなに食べられないぞ。」


「家でも余ってる。」


周は袋を受け取った。


二人で玄関先の椅子に座った。


「最近、息子さんどう?」


王が聞いた。


「普通だよ。」


「仕事の話は?」


「まだ決まってないらしい。」


「そうか。」


王はみかんを一つ取り出した。


「うちの息子は、部署が変わってから少し楽になったみたいだ。」


「よかったな。」


「本人は前からそう言ってたんだけど、俺が勝手に心配してた。」


「そういうこともある。」


王は皮をむきながら言った。


「最近、昔のことを思い出すんだ。」


「昔?」


「息子が小さい頃、何か失敗すると、すぐに怒ってた。」


周は黙って聞いた。


「俺は、ちゃんと教えてるつもりだったんだけどな。」


「そういうつもりだったんだろ。」


「うん。」


王はみかんを一房口に入れた。


「でも、この前、息子が昔のことを覚えてた。」


「何のこと?」


「小学校の頃、友達の前で怒られたこと。」


周は少し顔を上げた。


「覚えてたのか。」


「俺は忘れてた。」


しばらく二人とも黙った。


王が言った。


「子どもって、親が忘れてることを覚えてるんだな。」


「そういうことはあるな。」


「俺、謝ったほうがいいのかな。」


周はすぐには答えなかった。


「謝りたいなら、謝ればいいんじゃないか。」


「でも、今さらだろ。」


「今さらかどうかは、本人が決めることじゃないか。」


王はみかんの皮を小さく折った。


「そうだな。」


夕方、王が帰ったあと、周は家の中へ入った。


劉が夕飯の準備をしていた。


「王さん、何だった?」


「みかんを持ってきた。」


「それだけ?」


「息子の話もしてた。」


「また息子さん?」


「昔のことを覚えてたらしい。」


劉は包丁を止めた。


「子どもは覚えてるよ。」


「お前も?」


「私?」


「昔、俺が何か言ったこと。」


劉は少し考えた。


「いろいろあるよ。」


「そうか。」


「周さんは?」


「俺もある。」


二人とも笑わなかった。


夕飯ができるまで、しばらく会話はなかった。


食事を始めてから、劉が突然言った。


「昔、あなたが上海から帰ってきたとき、私に言ったこと覚えてる?」


「何?」


「『金がないから、今年は何も買えない』って。」


「そんなこと言ったか?」


「言った。」


「覚えてない。」


「私は覚えてる。」


周は箸を止めた。


「悪かったな。」


劉は少し驚いた顔をした。


「何が?」


「そのときのこと。」


「今さら?」


「今さらでも。」


劉はしばらく黙ってから、魚を一切れ取った。


「じゃあ、今度から覚えておいて。」


「分かった。」


それ以上は続かなかった。


その夜、周は一人で居間に残った。


棚の上に置かれた古い写真を見る。


息子がまだ小さかった頃の写真だった。


周は写真を手に取った。


写真の裏には、日付だけが書いてある。


何年も前のことだった。


その頃の自分は、家族を守るために働いていた。


金が必要だった。


家を維持する必要があった。


子どもを学校へ行かせる必要があった。


そのこと自体は、今でも変わらない。


ただ、そのときに言った言葉まで全部正しかったわけではない。


そう考えるようになったのは、ずっと後だった。


翌朝、息子から電話が来た。


「父さん、今いい?」


「いいよ。」


「来月の帰る時間、少し変わるかもしれない。」


「仕事か?」


「うん。まだ決まってない。」


「そうか。」


「土曜日の夜になるかもしれない。」


「それなら、夜に来ればいい。」


「遅くなると思う。」


「寝る場所はある。」


息子が笑った。


「そうだね。」


少し間があった。


「母さんにはまだ言わなくていい?」


「分かった。」


「決まったら自分から言う。」


「うん。」


電話を切った。


劉が台所から顔を出した。


「息子?」


「うん。」


「帰ってくる時間、変わるかも。」


「そう。」


「仕事?」


「そうらしい。」


劉は何も聞かなかった。


周も詳しく説明しなかった。


以前なら、予定が変わるだけで何度も確認していた。


何時に来る。


どの電車に乗る。


夕飯はどうする。


布団はどうする。


今は、決まってから考えればいいと思っている。


昼過ぎ、周は市場へ出かけた。


魚屋の前を通る。


店主が、


「息子さん、今月でしたっけ?」


と聞いた。


「来月。」


「じゃあ、まだですね。」


「そう。」


「魚、取っておきますよ。」


「まだいい。」


「分かりました。」


周はそのまま歩いた。


家に戻る途中、昔の同僚とすれ違った。


相手は周に気づいたが、少し急いでいたらしく、


「また今度話しましょう。」


と言って通り過ぎた。


周も手を上げただけだった。


以前なら、立ち止まって近況を聞いていたかもしれない。


今は、それぞれ急いでいるなら、それでいいと思った。


家に帰ると、劉が庭で水をやっていた。


「芽、増えたね。」


「うん。」


「これ、本当に何の木?」


「まだ分からない。」


「いつ分かるの?」


「葉がもっと出たら。」


「それまで待つの?」


「待つ。」


劉は笑った。


「何でも待つようになったね。」


周も笑った。


「待ったほうがいいこともある。」


夕方、息子からメッセージが届いた。


《土曜日、やっぱり夜になる。》


周は、


《分かった。気をつけて帰ってこい。》


と返した。


しばらくして、


《母さんには?》


と届いた。


《まだ言ってない。》


《ありがとう。》


周は画面を見た。


それから、


《決まったことだけ話せばいい。》


と返した。


息子から返事は来なかった。


周は携帯を机に置いた。


話さなかったことが、必ずしも隠し事になるわけではない。


まだ決まっていないこと。


本人が自分で整理していること。


今は話さなくてもいいと思っていること。


家族だからといって、全部を先に共有する必要があるわけではない。


その一方で、昔言った言葉や、昔の出来事は、相手の中に残っていることもある。


自分が忘れても、相手が忘れるとは限らない。


周はそういうことを、少しずつ知るようになっていた。


夜、劉が湯呑みを二つ置いた。


「お茶。」


「ありがとう。」


二人で静かに飲んだ。


窓の外では、風が庭の木を揺らしている。


小さな葉はまだ弱い。


それでも、枝から落ちずに残っていた。


周はそれを見ながら、湯呑みを両手で包んだ。


話すべきこともある。


話さなくていいこともある。


今はまだ、分からないこともある。


そのどれも、急いで一つにする必要はなかった。

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