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家にいる人  作者: 亀


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第一百章 口にしなかったこと

四月の半ばになり、少しずつ暖かくなってきた。


周の家の庭では、名前も分からない植物がまた少し伸びていた。


周は毎朝、外へ出るたびに一度それを見る。


水をやる日もあれば、ただしばらく眺めているだけの日もあった。


劉は、最近、周が庭にいる時間が長くなったと思っていた。


「最近、庭にいる時間が長くない?」


「そうか?」


「そうだよ。前は新聞を読んでたでしょ」


「新聞より、こっちのほうが分かりやすい」


「何が?」


周は、その植物を見た。


「昨日より伸びたとか、葉が増えたとか」


劉は笑った。


「それなら、新聞より分かりやすいね」


周も笑った。


その日の午前中、周は町の銀行へ行った。


大した用事ではなかった。


以前から使っていた通帳の手続きをするだけだった。


順番を待っていると、前に若い男が一人立っていた。


手には何枚かの書類を持ち、ときどきスマートフォンを見ている。


窓口の順番が来ると、職員がいくつか説明した。


男はうなずき、それからもう一度尋ねた。


「ここは、自分で書けばいいんですか?」


職員が書類の一部分を指した。


「はい、こちらです」


「分かりました」


周は後ろで待っていた。


男は何度か書き始めては、手を止めて確認していた。


職員は急かさなかった。


周はふと、自分が若かったころのことを思い出した。


あのころは、何かの手続きをするとき、誰かが一から教えてくれることは少なかった。


分からなければ聞く。


聞いても間違えれば、もう一度やり直す。


ときには、周りから、


「そんなことも分からないのか」


と言われることもあった。


帰り道、周は道端の小さな店で水を一本買った。


店の中では、店主が中年の男と話していた。


「息子さん、まだ帰ってこないの?」


「帰ってこないね。仕事が忙しいみたいだ」


「いつ帰ってくるの?」


「分からない」


二人は笑った。


周は水を持って店を出た。


なぜか、その会話が妙に身近に感じられた。


自分が同じことを何度も聞いてきたからかもしれない。


いつ結婚するのか。


いつ家を買うのか。


いつ帰ってくるのか。


いつ仕事を変えるのか。


いつ子どもを持つのか。


答えがないことがあると、人はつい、その答えを聞きたくなる。


午後、周が家の前で古い水道管を直していると、隣の王がやってきた。


「何してるんだ?」


「少し水が漏れてるんだ」


王はしゃがんで、水道管を見た。


「これ、まだ直せるのか?」


「たぶんな」


二人でしばらく水道管を眺めた。


すると、王が突然言った。


「昨日、息子から電話があった」


「そうか」


「仕事のことが片付いたって」


「それはよかったな」


「最初は、どうやって片付いたのか聞こうと思ったんだ」


王は少し笑った。


「でも、聞かなかった」


「どうして?」


「なんだか、話すのが疲れてるみたいだったから」


周は何も言わなかった。


王は水道管に触れながら続けた。


「昔は、子どもが何か話してきたら、自分に何とかしてほしいんだと思ってた」


「今は?」


「今は、ただ話しておきたいだけのこともあるんだろうなって」


周は少し考えた。


「そうかもしれないな」


王は立ち上がった。


「こういう水道管も同じなのかな」


「何が?」


「壊れたら、話を聞くんじゃなくて、どこから漏れてるか見るだろ」


周は笑った。


「水道管は話してくれないからな」


「それもそうだ」


二人は笑った。


水道管を直し終えると、王は息子の話をそれ以上しなかった。


しばらく庭先に立ってから、家へ戻っていった。


夕方、周が家に入ると、劉が夕飯の準備をしていた。


「誰だったの?」


「王さん」


「何かあった?」


「息子さんの仕事が片付いたらしい」


「そう」


劉は包丁を置いた。


「最近、あの人も息子さんの話をするね」


「前からしてたよ」


「前はもっと聞いてたんじゃない?」


周は少し考えた。


「そうだったな」


「今は?」


「聞いても分からないことは、分からないからな」


劉は周の顔を見た。


「昔は、分からないことが嫌だった?」


周はすぐには答えなかった。


「たぶん」


「どうして?」


「若いころは、分からないということが、準備できてないってことだと思ってたのかもしれない」


「今は?」


周は鍋の中へ野菜を入れた。


「今は、分からないままでもいいことがあると思う」


劉は少し笑った。


「年を取ると、知ってることが増えるんじゃないの?」


「忘れることも増える」


「それは確かにそうだね」


二人は笑った。


夕食が終わったあと、二人は玄関先に座った。


空はまだ完全には暗くなっていなかった。


近くの道を、自転車が何台か通っていく。


少し先では、子どもがボールを追いかけていた。


母親が、


「ゆっくり!」


と声を掛ける。


子どもは止まらなかった。


もう一度呼ばれて、ようやく振り返った。


周はその様子を見ていた。


「何見てるの?」


劉が聞いた。


「別に」


しばらくして、周のスマートフォンが鳴った。


息子からだった。


「今日は少し遅くなった」


周は画面を見て、


「お疲れ」


と返した。


しばらくすると、もう一通届いた。


「前に話してたこと、もう少し考えてみる」


周はその文章をしばらく見ていた。


何についてなのかは分かっている。


けれど、それ以上は聞かなかった。


「分かった」


それだけを送った。


劉が隣から、


「息子?」


と聞いた。


「うん」


「仕事?」


「たぶん」


「たぶん?」


周はスマートフォンをポケットに入れた。


「本人が話すまで、分からないよ」


劉は、それ以上聞かなかった。


夜の風が庭を通り抜ける。


名前の分からない植物の葉が、静かに揺れた。


周は立ち上がり、玄関の明かりを消した。


家へ戻る前に、もう一度庭を見た。


すでに起きたこともある。


まだ起きていないこともある。


そして、起きたことであっても、すぐに言葉にする必要がないこともある。


周は以前、分からないことがあると、それを何とかして埋めようとしていた。


今は、少しだけ違っていた。


分からないものを、そのまま残しておく。


それでも、明日は来る。


そう思いながら、周は静かに家の中へ戻った。

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