第九十四章 それぞれの消息
二月に入っても、朝晩の冷え込みはまだ残っていた。
周は朝、いつものように市場へ向かった。
帰り道、バス停の近くで陳に会った。
「周さん。」
「おう。久しぶりだな。」
「最近、あまり見ませんでしたね。」
「寒いからな。」
「それだけですか?」
陳が笑った。
「それだけだ。」
二人は並んで歩き始めた。
陳の手には、薄い書類袋があった。
周がちらりと見る。
「仕事の書類か?」
「娘の学校の書類です。」
「まだ大学だったな。」
「そうです。もうすぐ卒業です。」
「早いな。」
「本人は、早く卒業したいって言っていますけどね。」
陳は笑った。
少し歩いてから、陳が言った。
「前に話した動画の仕事、覚えていますか?」
「覚えてる。」
「今も続けています。」
「学校と一緒に?」
「ええ。夜とか、週末にやっています。」
「忙しくないか?」
「忙しいですよ。でも、本人は楽しいみたいです。」
周は頷いた。
「それならいいな。」
「ただ、卒業したあと、どうするかはまだ決まっていません。」
「就職するのか?」
「本人は、会社に入るか、しばらく今の仕事を続けるか迷っているみたいです。」
「そうか。」
陳は少し黙った。
「親としては、普通の会社に入ったほうが安心なんですけどね。」
周は陳を見た。
「本人は何て言ってる?」
「まだ、そこまで聞いてないんです。」
「じゃあ、まだ分からないな。」
陳は笑った。
「周さん、最近そればかりですね。」
「分からないものは、分からないだろ。」
「まあ、そうですけど。」
二人は交差点で別れた。
「じゃあ、また。」
「うん。」
「娘のこと、また話します。」
「話したくなったら、話せばいい。」
陳は頷いて、反対側の道へ歩いていった。
周が家に戻ると、劉が庭で洗濯物を干していた。
「誰かに会った?」
「陳に会った。」
「最近見なかったね。」
「娘さんが大学を卒業するらしい。」
「もうそんな時期なんだ。」
「そうらしい。」
「卒業したら就職?」
「まだ決まってないって。」
劉は洗濯物を一枚、物干し竿に掛けた。
「若い人は、選べていいね。」
周は少し考えた。
「選べるとは限らないだろ。」
「そうだけど。」
「仕事があるかどうかも、本人が何をしたいかも、まだ分からない。」
劉はそれ以上言わなかった。
しばらくして、周のほうを見た。
「うちの息子は、今の仕事を続けるのかな。」
「聞いてない。」
「聞かないの?」
「今のところは。」
「そう。」
劉は洗濯物を干し終えた。
「昔だったら、聞いてたね。」
「そうだな。」
「私も。」
「うん。」
二人は家の中へ戻った。
テーブルの上には、昨日買ったみかんが置いてあった。
劉が一つむいて、半分を周に渡した。
午後、周の携帯に電話がかかってきた。
以前の知り合いだった。
「周さん、久しぶりです。」
「誰だ?」
「李強です。」
周は少し考えてから、思い出した。
「ああ、李強か。」
「最近、こっちに戻ってきたんです。」
「仕事は?」
「まだ探しています。」
「前の会社は?」
「辞めました。」
「そうか。」
「ちょっと事情があって。」
周は、それ以上聞かなかった。
李強のほうから話を続けた。
「前の会社、給料は悪くなかったんですけど、夜勤が増えてきて。」
「体がきつかったのか?」
「それもあります。」
「そうか。」
「今は、次の仕事を探しながら、資格の勉強もしています。」
「じゃあ、何もしていないわけじゃないな。」
「そうなんですけどね。」
李強は少し笑った。
「家にいると、何してるんだって聞かれるんですよ。」
周は窓の外を見た。
「外から見えるものだけじゃ、その人の一日は分からないからな。」
「それ、家の人にも言ってくださいよ。」
「自分で言え。」
二人とも笑った。
「でも、次の仕事が決まってから辞めればよかったのに、って言われます。」
周は黙った。
その言葉は、昔の自分も何度も使ったことがあった。
「次が決まってから辞められる人ばかりじゃない。」
「そうですよね。」
「今の仕事が体に合わないなら、続けることだけが方法じゃないだろ。」
「そう思って辞めました。」
「じゃあ、あとは探せばいい。」
「はい。」
電話が終わった。
周は携帯をテーブルに置いた。
台所では、劉が野菜を洗っていた。
「誰だった?」
「前の知り合い。」
「仕事辞めたんだって。」
「そう。」
「最近、仕事を辞める人が多いね。」
「多いかどうかは分からない。」
「でも、周さんの周りでは多い。」
「そうだな。」
劉は水を止めた。
「仕事を辞めるって、昔はすごく大きなことだったよね。」
「今も大きいだろ。」
「そうだけど、理由はいろいろあるね。」
「人によって違うからな。」
「私たちの頃は、嫌でも続けるしかなかった。」
「俺たちの頃もそうだった。」
劉は少し考えた。
「だから、今の人を見ると、簡単に辞めているように見えることがある。」
周はすぐには答えなかった。
「簡単かどうかは、その人にしか分からないだろ。」
劉は頷いた。
「そうだね。」
夕方、息子からメッセージが届いた。
《今日、会社で少し話があった。》
周は画面を見た。
すぐには返信しなかった。
しばらくすると、もう一通届いた。
《まだ決まってないから、決まったら話す。》
周は、
《分かった。》
とだけ返した。
それから数分後、息子からまたメッセージが届いた。
《何も心配しなくていいよ。》
周は、その文章をしばらく見ていた。
そして、
《分かった。体だけ気をつけろ。》
と返した。
それ以上、聞かなかった。
夕食の準備をしていた劉が聞いた。
「息子?」
「うん。」
「何かあった?」
「会社で話があったらしい。」
「何の話?」
「まだ決まってないって。」
劉は少し考えた。
「じゃあ、まだ分からないね。」
「そういうこと。」
劉も、それ以上聞かなかった。
夕食のあと、周は庭へ出た。
夜の空気は冷たかった。
物干し竿に残っていた小さな洗濯ばさみを片付ける。
庭の木を見ると、新しい芽がいくつか出ていた。
少し前よりも、はっきりしている。
周は手を伸ばしかけて、やめた。
触らなくても、芽が出ていることは分かる。
家の中から、劉の声がした。
「周、明日の朝、病院に行くんじゃなかった?」
「そうだった。」
「忘れないでよ。」
「分かってる。」
周は庭から戻った。
翌朝、病院へ行く途中で、王に会った。
「周さん。」
「おう。」
「昨日、息子と話した。」
「そうか。」
「部署が変わった理由、俺が思っていたのと全然違った。」
「そうなのか。」
「俺、勝手に想像してたんだな。」
周は笑った。
「よくあることだ。」
王も笑った。
「聞いてみないと分からないな。」
「そうだな。」
二人はそこで別れた。
周は病院へ向かった。
自分の用事を済ませて、昼前には家に戻った。
午後、周は市場へ出かけた。
魚屋の前を通ると、店主が声をかけてきた。
「今日はどうします?」
「今日は野菜だけ。」
「魚は?」
「まだいい。」
「息子さん、また帰ってくるんでしょう?」
「来月な。」
「じゃあ、そのときにいい魚を用意しておきますよ。」
「まだ一か月あるぞ。」
「魚は逃げますから。」
店主が笑った。
周も笑った。
「じゃあ、そのとき考える。」
魚を買わずに帰った。
家に着くと、劉が玄関まで来た。
「魚は?」
「買わなかった。」
「どうして?」
「まだ早い。」
「そうね。」
劉は笑った。
来月の予定は決まっている。
それでも、今日の生活とは別だった。
今日の魚は今日買えばいい。
来月の魚は、来月になってから考えればいい。
周は買ってきた野菜を台所へ置いた。
その日の夕方、息子から短いメッセージが届いた。
《仕事の話、まだ決まってない。》
周は、
《分かった。決まったら教えてくれ。》
と返した。
少しして、
《うん。》
とだけ返ってきた。
周は携帯を置いた。
知らないことは、まだいくつもある。
息子の仕事も。
陳の娘の卒業後も。
李強の次の仕事も。
王の息子のこれからも。
それぞれの生活は、外から見ればほんの一部分しか見えない。
昔の周は、見えない部分を自分の経験で埋めていた。
自分の頃はこうだった。
だから、今もきっと同じだろう。
そう考えれば、話は簡単だった。
けれど、簡単にした分だけ、相手の生活から離れてしまうこともある。
分からないなら、聞くこともできる。
聞かないこともできる。
本人が話すまで待つこともできる。
周は窓の外を見た。
夕方の光が庭に落ちていた。
小さな芽が風に揺れている。
いつ葉になるのかは、まだ分からない。
周はカーテンを閉めた。
「ご飯、できたよ。」
劉の声がした。
「今行く。」
周は携帯を置いて、台所へ向かった。
その日のことは、その日のうちに終わっていく。
まだ決まっていないことは、明日に残っていく。
それぞれの人が、それぞれの場所で、自分の生活を続けていた。




