第九十章 待っている人
十二月に入ると、朝の空気がさらに冷たくなった。
周は朝食を食べ終わったあと、玄関の前に置いてある靴を片付けていた。
夏用の靴を箱に入れ、冬に履く靴を出す。
古い靴の底を見ると、かなり擦り減っていた。
「それ、もう捨てたら?」
劉が言った。
「まだ履ける。」
「底、薄くなってるよ。」
「近所だけなら大丈夫だ。」
「転ばないでね。」
「分かってる。」
周は靴を箱に戻した。
午後、近所の新しい食堂の前を通った。
昼の営業が終わったらしく、店の前には数人の配達員が立っていた。
一人の若い男性が、自転車の荷台から荷物を降ろしている。
そのとき、荷物の一つが地面に落ちた。
「大丈夫?」
周が声をかけると、男性はすぐに拾った。
「大丈夫です。」
「中、壊れてない?」
「たぶん大丈夫です。」
男性は箱を確認した。
周はそのまま通り過ぎようとした。
「周さん。」
後ろから声がした。
食堂の店主だった。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
「最近、よくこの時間に通りますね。」
「買い物の帰りだからな。」
「そうですか。」
店主は外に出て、配達員の男性に声をかけた。
「これ、次の注文です。」
「はい。」
男性は荷物を受け取った。
周は少し離れたところから見ていた。
男性はスマートフォンを確認し、自転車にまたがった。
「忙しいね。」
周が言うと、店主は笑った。
「昼は結構忙しいです。」
「一人でやってるの?」
「夫と二人です。今日は夫が仕込みをしています。」
「大変だな。」
「大変ですけど、前の仕事より時間は自分たちで調整できます。」
周は頷いた。
以前の仕事について、詳しく聞こうとは思わなかった。
店主が話したければ、そのうち聞けばいい。
その日の夕方、周が家に帰ると、劉が電話をしていた。
「うん。分かった。じゃあ、また連絡するね。」
電話を切る。
「誰?」
「妹。」
「何だった?」
「来週、こっちに来るって。」
「妹さんが?」
「うん。一泊するって。」
劉は少し嬉しそうだった。
「久しぶりだな。」
「去年以来かな。」
「そうか。」
劉は台所へ行きながら言った。
「布団、出さないと。」
「まだ一週間あるぞ。」
「でも、干しておかないと。」
「そうだな。」
二人で物置を開けた。
奥にしまっていた布団を引っ張り出す。
古い布団には少し埃がついていた。
周が庭へ運び、劉が表面を叩いた。
「これ、息子が小さい頃使ってたやつだね。」
「そうだったな。」
「まだ使える。」
「布団は丈夫だな。」
「人間よりね。」
劉が笑った。
周も笑った。
布団を干したあと、二人は庭に椅子を出した。
冬の日差しは弱い。
それでも、日向に座ると少し暖かかった。
「来月、息子も来るんだよね。」
劉が言った。
「そうだな。」
「妹も来る。」
「忙しくなるな。」
「たまにはいいでしょう。」
周は庭を見た。
家を出た人が、たまに戻ってくる。
長く住んでいる人が、別の場所へ移る。
誰かが新しい仕事を始める。
誰かが仕事を休む。
家の中にいる人間も、少しずつ変わっていく。
けれど、家そのものは同じ場所にある。
それだけで、戻ってくる人にとっては意味があるのかもしれない。
夕方、周は近所の郵便局へ行った。
帰り道、角の食堂の前を通る。
店主が店の前を掃いていた。
「まだ仕事?」
「もう終わりです。」
店主はほうきを壁に立てかけた。
「周さん、ちょっと聞いていいですか。」
「何?」
「この辺って、昔から住んでいる人が多いんですか?」
「多いと思う。」
「最近、近所の人に昔の話を聞くことがあって。」
「何の話?」
「この辺の店とか、昔の道とか。」
周は少し笑った。
「昔は今と違ったからな。」
「そうですよね。」
店主は店の前を見た。
「前のお店のことも、よく聞きます。」
「そうか。」
「でも、私が知っているのは最近のことだけです。」
「それでいいんじゃないか。」
「そうですか?」
「自分が見たものは、自分が知ってる。それで十分だろ。」
店主は少し考えてから頷いた。
「そうですね。」
周は家へ向かった。
途中、公園のベンチに若い男性が一人座っていた。
スマートフォンを見ている。
周は一度見ただけで通り過ぎた。
家に着くと、劉が夕飯の準備をしていた。
「郵便、何だった?」
「広告。」
「また?」
「いっぱい入ってた。」
周はテーブルの上に郵便物を置いた。
その中に一枚、薄い封筒があった。
差出人は、息子だった。
「何?」
劉が聞く。
「息子から。」
「何が入ってるの?」
「分からない。」
封筒を開けると、写真が何枚か入っていた。
仕事先の近くで撮ったらしい風景だった。
高い建物。
駅。
知らない通り。
その中に、一枚だけ夕方の空を撮った写真があった。
裏には短く、
「この前、きれいだったから。」
と書いてある。
劉が写真を一枚ずつ見た。
「ここ、どこ?」
「分からない。」
「聞いてみれば?」
周は写真を見ながら笑った。
「そのうち話すだろ。」
劉は写真を机の上に並べた。
「これ、飾る?」
「どうする?」
「とりあえず、ここに置いておこう。」
周は頷いた。
その夜、息子から電話はなかった。
写真だけが届いた。
それについて何か説明する必要もなかった。
次に会ったとき、本人が話したければ聞けばいい。
翌朝、周は写真を小さな箱に入れようとした。
そのとき、昨日の食堂の店主から聞いた言葉を思い出した。
自分が見たものは、自分が知っている。
それで十分なのかもしれない。
誰かの生活を全部知ることはできない。
家族でも同じだった。
長い間一緒に暮らしていても、知らないことはある。
家を出れば、なおさら増える。
それでも、知らないことがあるからといって、関係がなくなるわけではない。
周は写真を一枚だけ棚の上に置いた。
夕方の空だった。
劉がそれを見つけた。
「これ、ここに置くの?」
「うん。」
「じゃあ、額に入れようか。」
「そこまでしなくていい。」
「そう?」
「今はこれでいい。」
劉は頷いた。
その日の夕方、息子から短いメッセージが届いた。
《写真届いた?》
周は、
《届いた。ありがとう。》
と返した。
少しして、
《来月、帰ったら詳しく話す。》
と返ってきた。
周は、
《分かった。気をつけて帰ってこい。》
と送った。
それで終わった。
夜、周は玄関の鍵を確認した。
外は冷えていた。
来週は劉の妹が来る。
その次には、息子が帰ってくる。
けれど、待っている間にも毎日は続く。
明日は買い物に行く。
庭の枯れ葉もまだ残っている。
食堂も昼になれば開く。
郵便配達の人も来る。
誰かが誰かを待っている間にも、それぞれの生活が動いている。
周は玄関の明かりを消した。
二階へ上がる前に、棚の上の写真をもう一度見た。
知らない町の夕方だった。
周には、その場所のことは何も分からない。
ただ、息子がそこで空を見た。
それだけは分かった。
周は写真をそのままにして、階段を上がった。




