第八十六章 言わなかったこと
十月の終わり、朝の冷え込みが少し強くなった。
周は庭の枯れ葉を掃いていた。
竹ぼうきで何度か地面をなぞると、乾いた葉が端に集まっていく。
そこへ、向かいの家の王が出てきた。
「周さん、おはよう。」
「おはよう。」
王はゴミ袋を持っていた。
「昨日、息子と電話したんだ。」
「そうか。」
「給料が下がる話、覚えてる?」
「うん。」
「やっぱり、来月から下がるらしい。」
周は掃く手を止めた。
「息子はどうするって?」
「続けるって。」
「そうか。」
「俺はまだ、少し心配だけどな。」
王は笑った。
「でも、前みたいに『辞めろ』とか『もっと条件のいいところを探せ』とは言わなかった。」
「何て言った?」
「『生活に困るなら言え』って。」
周は少し笑った。
「それなら、分かりやすいな。」
「そうだろ。」
王はゴミ袋を開いた。
「それ以外は、本人に任せる。」
「うん。」
二人でしばらく庭の前を掃いた。
道路には、近所の家から飛んできた葉も混ざっている。
どこの家の葉なのか、もう分からない。
周はそれをまとめて袋に入れた。
王が言った。
「そういえば、俺の親父も、昔は謝らなかったな。」
周は顔を上げた。
「何かあったの?」
「昨日、息子と話しててな。俺が昔言ったことを覚えてるって言われたんだ。」
「何て?」
「『お前のために言ってる』って。」
王は苦笑した。
「俺も親父から同じことを言われてた。」
周は何も言わなかった。
「俺の親父も、自分が悪かったって言う人じゃなかった。」
「うちもそうだな。」
周の口から、自然に言葉が出た。
王が周を見る。
「周さんも?」
「うん。」
周はほうきを壁に立てかけた。
「何かあっても、しばらくすると普通に話してる。それで終わる。」
「分かる。」
「謝ったり、前のことを話したりはしない。」
王は少し考えた。
「それで家族が続いてきたってことなのかな。」
「そうかもしれない。」
「でも、言われた側は覚えてるんだよな。」
周は答えなかった。
しばらくして、
「覚えてるだろうな。」
と言った。
王はゴミ袋を持ち上げた。
「俺も昨日、息子に言われて初めて気づいたことがあった。」
「何?」
「俺は、昔のことを忘れてた。」
周は王の顔を見た。
「忘れてた?」
「うん。自分が何を言ったかは忘れてる。でも、息子は覚えてた。」
王は苦笑した。
「俺には何でもない一言だったんだろうな。」
周は庭の隅に残った葉を見た。
「言ったほうは、その日で終わることもあるからな。」
「言われたほうは?」
「終わらないこともある。」
王はしばらく黙っていた。
「それ、息子に言われたの?」
「いや。」
周は首を振った。
「俺が昔のことを考えてるだけだ。」
二人はそれ以上話さなかった。
王が帰ったあと、周は家に入った。
劉が朝食を片付けていた。
「王さん?」
「うん。」
「何だった?」
「息子の話。」
「また?」
「そう。」
周は椅子に座った。
「昔、自分が言ったことを、息子に覚えてるって言われたらしい。」
劉は少し手を止めた。
「そういうこと、あるよね。」
「あるな。」
「私も昔、息子に何か言ったかな。」
「あるだろ。」
「何を?」
「俺も全部は覚えてない。」
劉は笑った。
「じゃあ、お互い様だね。」
周も笑った。
昼過ぎ、息子から電話があった。
「父さん。」
「ん?」
「この前の話なんだけど。」
「うん。」
「仕事、しばらく今のまま続けることにした。」
「そうか。」
「来年どうするかは、まだ分からない。」
「それでいいんじゃないか。」
少し沈黙があった。
「父さん、昔さ。」
「うん。」
「俺が仕事のこと話すと、すぐ『こうしたほうがいい』って言ってたよね。」
周は黙った。
「そうだったな。」
「最近は聞くだけになったね。」
「そうか?」
「うん。」
息子は少し笑った。
「前より話しやすい。」
周は返事を急がなかった。
「そうなら、よかった。」
「うん。」
電話を切る。
周は携帯をテーブルに置いた。
劉が向かいに座っていた。
「何だった?」
「昔の話。」
「また昔?」
「うん。」
「何か言われた?」
「昔は、俺がすぐ口を出してたって。」
劉は少し考えて、
「そうだったね。」
と言った。
周は笑った。
「お前もそう思ってたのか。」
「思ってたよ。」
「じゃあ、早く言ってくれればよかったのに。」
劉は少し笑った。
「言っても聞かなかったでしょ。」
周は答えなかった。
それから二人でテレビを見た。
しばらくして、劉が立ち上がった。
「お茶、いる?」
「うん。」
台所で湯を沸かす音がする。
周は窓の外を見た。
庭には、朝掃いたはずの葉がまた少し落ちていた。
風が吹けば、また落ちる。
掃いても、完全になくなることはない。
周はそれを見ながら、昔のことも同じなのかもしれないと思った。
一度言ったこと。
一度傷つけたこと。
一度聞かなかったこと。
時間が経てば、普段の生活に戻ることはできる。
けれど、なくなったわけではない。
それを今になって知ることもある。
台所から劉の声がした。
「お茶できたよ。」
「分かった。」
周は立ち上がった。
庭の葉は、そのままにしておいた。
夕方になってから、また掃けばいい。
今はお茶を飲む時間だった。




