第八十五章 頼まなかったこと
十月に入ると、朝の空気が急に涼しくなった。
周は朝食を食べ終わると、玄関の外へ出た。
夏の間ずっと使っていた扇風機を片付けるためだった。
「まだ使うんじゃない?」
劉が後ろから言った。
「もういいだろ。」
「昼は暑くなるかもしれないよ。」
「そのとき出せばいい。」
周は扇風機を拭いて、箱に入れた。
物置の奥へ運ぶ。
以前なら、季節が変わるたびに物を全部整理しようとしていた。
今は、使うものと使わないものを少しずつ分けるだけになった。
午前中、昔の仕事仲間から電話があった。
「周さん、今家?」
「うん。」
「ちょっと聞きたいことがある。」
「何?」
「知り合いが人を探してるんだ。短い仕事だけど。」
周は少し考えた。
「どんな仕事?」
「倉庫の整理。二週間くらい。」
「俺に?」
「そう。腰が悪いのは知ってるから、無理ならいいんだけど。」
周は黙った。
二週間。
それくらいならできるかもしれない。
けれど、最近は少し重いものを持つだけでも腰に違和感が出る。
「いつから?」
「来週。」
「仕事内容をもう少し聞いてから決めてもいい?」
「もちろん。」
仕事仲間は仕事内容と時間を説明した。
朝は八時から。
重い荷物も少しある。
休憩は決まっている。
周は最後まで聞いた。
「分かった。ちょっと考える。」
「無理なら断っていいよ。」
「うん。」
電話を切ったあと、周は庭に出た。
劉が洗濯物を干していた。
「仕事の電話?」
「短い仕事を頼まれた。」
「やるの?」
「まだ分からない。」
「腰は?」
「そこがな。」
劉は洗濯物を一枚、物干し竿にかけた。
「やりたいなら、無理しない範囲でやればいいんじゃない?」
「それが難しいんだよ。」
「何が?」
「仕事って、始めたら途中でやめにくいだろ。」
劉は少し考えた。
「最初にできることと、できないことを言えばいいんじゃない?」
周は妻を見た。
「そうだな。」
昼過ぎ、周は仕事仲間に電話をかけ直した。
「さっきの仕事だけど。」
「うん。」
「重い物を持つ仕事は、どのくらいある?」
相手が説明する。
周は聞きながら、
「それなら、俺には少し厳しいかもしれない。」
と言った。
「そうか。」
「悪いな。」
「いいよ。聞いてくれてありがとう。」
電話を切った。
劉が聞いた。
「断ったの?」
「うん。」
「残念?」
周は少し考えた。
「ちょっとな。」
「でも、腰を悪くしたらもっと大変だよ。」
「分かってる。」
周は庭の椅子に座った。
昔なら、頼まれたら断りにくかった。
人に迷惑をかけたくない。
せっかく声をかけてもらった。
途中で辞めたら申し訳ない。
そういうことを考えて、無理をすることもあった。
けれど、できないものを引き受けて、あとから誰かに迷惑をかけることもある。
断ることも、仕事の一部なのかもしれない。
午後、張がやってきた。
「新しい食堂、行った?」
「行った。」
「どうだった?」
「普通だった。」
張が笑った。
「それ、褒めてるのか?」
「また行けるって意味だ。」
「なるほど。」
二人は玄関先に座った。
張が言った。
「息子から電話があった。」
「仕事?」
「うん。来月、給料が少し下がるらしい。」
「何で?」
「勤務時間が変わるから。」
「それで?」
「本人は、今のところ続けるって。」
張は少し黙った。
「俺なら、すぐ別の仕事を探せって言うところだった。」
周は黙って聞いた。
「でも、息子が自分で決めたなら、しばらく見てみようと思う。」
「そうか。」
「前なら、給料が下がるって聞いただけで、いろいろ言ってた。」
「今は?」
「今は、何が変わるのか聞いてから考える。」
周は笑った。
「それでいいんじゃないか。」
張は庭を見ながら言った。
「でも、何もしないのも難しいな。」
「何もしないんじゃないだろ。」
「何が?」
「聞いてる。」
張は少し考えてから笑った。
「そうだな。」
夕方、張が帰ったあと、周は携帯を見た。
息子からメッセージが届いていた。
「来月の休み、まだ分からない。」
周は、
「分かった。決まったら教えて。」
と返した。
すぐに、
「うん。」
と返ってきた。
それだけだった。
夕飯のあと、劉が言った。
「息子、来月来るの?」
「まだ分からない。」
「そう。」
「来られれば来るだろ。」
劉は頷いた。
「そうだね。」
以前なら、来るか来ないかを何度も考えていた。
来ないなら何かあったのか。
仕事が忙しいのか。
自分たちを忘れているのか。
そんなことまで考えた。
今は、分からないものは分からないままにしておくことが増えた。
周は窓を閉めた。
夜になると、外の風が冷たくなっていた。
庭には、夏の名残の枯れ葉が落ちている。
明日、掃けばいい。
そう思って、周はカーテンを閉めた。
その夜、仕事仲間からもう一度電話があった。
「さっきの仕事だけど、別の人がやってくれることになった。」
「そうか。よかった。」
「悪かったな。」
「何で謝るんだ。」
「頼んだのに。」
「俺が断っただけだよ。」
「そうだな。」
電話を切った。
周は携帯をテーブルに置いた。
頼まれたことを断った。
誰かに嫌われたわけでもない。
仕事がなくなったわけでもない。
ただ、その仕事を引き受けなかった。
昔なら、それだけのことを必要以上に気にしていたかもしれない。
今は、自分ができることと、できないことを分ける。
それでも、相手との関係がなくなるわけではない。
周は台所へ行き、コップに水を入れた。
二階から劉の声がした。
「もう寝るよ。」
「うん。」
周は水を飲んだ。
明日の朝は、庭の枯れ葉を掃こうと思った。
それから、いつものように朝食を食べる。
特別な予定はない。
けれど、予定がない日にも、一日は始まる。
周は台所の電気を消した。




