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家にいる人  作者: 亀


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第八十四章 新しい看板

九月の半ばになると、朝の空気が少しだけ変わった。


昼間はまだ暑い。


それでも、朝に玄関を開けたとき、夏とは違う風が入ってくる。


周は庭に出て、鉢植えの土を指で触った。


「今日は水、いらないな。」


「昨日降ったからね。」


後ろから劉が言った。


「そうだな。」


周はホースを片付けた。


角の店では、数週間前から工事が続いていた。


朝、散歩に出ると、職人がシャッターを開けているのを見かけることがある。


店の中は少しずつ変わっていた。


壁が塗り直され、新しい照明が取り付けられた。


以前の食料品店の面影は、ほとんどなくなっていた。


ある朝、周が通りかかると、店の前に新しい看板が取り付けられていた。


小さな食堂の名前が書かれている。


「もう看板が出たんだ。」


後ろから声がした。


張だった。


「そうだな。」


「何の店か分かったな。」


「食堂らしい。」


「昼だけやる店だって。」


「そうか。」


二人は看板を見上げた。


「前の店がなくなって、すぐ次の店か。」


張が言った。


「そういうものなんだろうな。」


「前の店、よく行ってた?」


「たまに。」


「俺も。」


張は少し黙ってから、


「新しい店ができたら、一度行ってみようかな。」


と言った。


「俺も行くかもしれない。」


「じゃあ、今度一緒に行く?」


「いいな。」


二人はその場で約束した。


ただ、日にちは決めなかった。


店がいつ開くのか、まだ分からなかったからだ。


その日の午後、周はスーパーへ行った。


帰り道、角の食堂の前を通ると、入口が開いていた。


中で店主らしい女性が床を拭いている。


周と目が合うと、女性が会釈した。


周も頭を下げた。


「もうすぐ開くんですか?」


周が聞いた。


「来週の予定です。」


「そうですか。」


「近所の方ですか?」


「はい。この辺に住んでます。」


「よろしくお願いします。」


女性は笑った。


「こちらこそ。」


それだけの短い会話だった。


周は自転車を押して帰った。


家に着くと、劉が玄関先にいた。


「どうだった?」


「何が?」


「新しい店。」


「来週開くって。」


「何の料理?」


「まだ聞いてない。」


「じゃあ、今度行ってみよう。」


「張さんとも行く約束した。」


劉は笑った。


「じゃあ、二人で行ってくればいいじゃない。」


「お前も来ればいいだろ。」


「じゃあ、三人で。」


それで話は終わった。


夜、息子から電話があった。


「父さん、今いい?」


「いいよ。」


「来月、少し休みが取れるかもしれない。」


「そうか。」


「まだ確定じゃないけど。」


「決まったら教えてくれればいい。」


「うん。」


息子は少し黙ってから言った。


「この前、帰ったときに話したことなんだけど。」


「うん。」


「仕事のことで、ちょっと考えてることがある。」


周は黙って聞いた。


「まだ決めてないから、父さんに聞いても答えは出ないと思う。」


周は少し笑った。


「そうだな。」


「だから、決まったら話す。」


「分かった。」


「父さんは何か聞かないの?」


「聞いてほしいなら聞くけど。」


電話の向こうで、息子が笑った。


「じゃあ、今はいい。」


「分かった。」


電話を切ったあと、周はしばらく窓の外を見た。


昔なら、そこでいろいろ聞いていた。


何を考えているのか。


いつ決めるのか。


仕事は大丈夫なのか。


次はどうするのか。


今は、決まっていないことを決めさせる必要はないと思っている。


それは、何も心配していないということではない。


心配していても、待つことはできる。


周は携帯を置いた。


台所から劉が聞いた。


「息子?」


「うん。」


「何かあった?」


「仕事のことで、少し考えてるらしい。」


「辞めるの?」


「まだ分からない。」


「そう。」


劉はそれ以上聞かなかった。


しばらくして、二人でテレビを見た。


画面には、新しくできた店の宣伝が流れていた。


周はふと思った。


新しい店も、いつか古くなる。


今働いている人も、いつか別の仕事をするかもしれない。


客も変わっていく。


町も少しずつ変わる。


それは、誰かが計画して全部変えるというより、毎日の小さな選択が重なって、いつの間にか前と違う場所になっている。


翌週、新しい食堂が開いた。


昼前から、何人かの客が並んでいる。


周は張と一緒に店の前まで行った。


「結構、人いるな。」


張が言った。


「初日だからじゃないか。」


「そうかもな。」


二人は店の中へ入った。


店主が、


「いらっしゃいませ。」


と声をかける。


周はメニューを見た。


定食がいくつか並んでいる。


「何にする?」


張が聞いた。


周は少し考えた。


「魚。」


張が笑った。


「また魚か。」


「安いから。」


「それ、前にも聞いたぞ。」


二人は席に座った。


少しして料理が運ばれてきた。


周は箸を持った。


新しい店の味だった。


特別なものではない。


けれど、近所に新しい場所が一つ増えた。


周は魚を一口食べた。


「うん。」


「どう?」


張が聞く。


「普通だな。」


張が笑った。


「それなら、また来られる。」


店の外では、以前の店を知らない若い客が何人か並んでいた。


周はそれを見ていた。


なくなった店を知っている人もいる。


知らない人もいる。


それぞれが、それぞれの理由でこの店に来ている。


周は食事を終え、代金を払った。


店を出ると、秋らしい風が吹いていた。


張と別れたあと、周は一人で家へ戻った。


角を曲がる。


そこにはもう、昔の食料品店の看板はない。


新しい看板が、昼の光を受けている。


周は自転車を止めなかった。


そのまま家へ向かった。


家では劉が洗濯物を取り込んでいる。


「どうだった?」


「普通。」


「おいしくなかった?」


「いや、おいしかった。」


「じゃあ、普通って何?」


周は少し考えてから笑った。


「また行けるってことだ。」


劉も笑った。


「それならいいね。」


夕方、庭に出ると、少し涼しい風が吹いていた。


周は枯れた葉を拾った。


新しい店の明かりが、角の向こうでついた。


家の中では、劉が夕飯の準備をしている。


携帯には、息子からの新しいメッセージはまだない。


それでも、特に気にはならなかった。


新しい店には新しい客が入り、息子は息子の場所で一日を過ごしている。


周は拾った葉をゴミ袋に入れた。


そして、いつものように家の中へ戻った。

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