第八十章 古い約束
七月に入ると、昼間の暑さが急に強くなった。
朝から蝉の声が聞こえる。
周は庭に出て、ホースで地面に水を撒いていた。
土の表面はすぐに乾いていく。
「そんなに撒いても、すぐ乾くよ。」
劉が玄関から言った。
「分かってる。」
「じゃあ、何で?」
「少し涼しくなるだろ。」
劉は笑った。
「水を撒いてる本人が涼しくなるわけじゃないでしょう。」
周も笑った。
ホースを片付けて家に入る。
冷蔵庫から冷たいお茶を出して、二人で飲んだ。
午前中、近所の張から電話があった。
「周さん、ちょっと聞きたいんだけど。」
「何?」
「息子が来月、また仕事を変えるかもしれないって。」
「そうか。」
「この前変えたばかりなのに。」
張の声には、少し困ったような響きがあった。
「今の仕事が合わないのか?」
「本人は、仕事そのものは嫌じゃないって言うんだ。ただ、勤務時間が変わってから生活が大変らしい。」
周は黙って聞いていた。
「俺としては、もう少し続けたほうがいいと思うんだけどな。」
「本人は何て言ってる?」
「まだ考えてるって。」
「じゃあ、まだ決まってないんだろ。」
「そうなんだけど。」
張は少し黙った。
「周さんなら、どう言う?」
周はすぐには答えなかった。
以前なら、何かしら言っていたかもしれない。
仕事を続けろ。
すぐに辞めるな。
若いうちは我慢しろ。
しかし、今は張の息子がどんな勤務をしているのかも、どれほど疲れているのかも知らない。
「俺なら、本人が考えてるなら、もう少し聞いてみるかな。」
「聞く?」
「何が大変なのか。辞めたいのか、変えたいのか。それくらい。」
「同じじゃないのか?」
「本人にとっては違うかもしれない。」
電話の向こうで、張が黙った。
「そうか。」
「まだ決めてないなら、決めてから話してもいいんじゃないか。」
「分かった。」
電話が切れた。
周は携帯をテーブルに置いた。
劉が向かいから見ていた。
「張さん?」
「うん。」
「また息子の仕事?」
「そう。」
「よく相談されるね。」
「俺が何でも知ってるわけじゃないんだけどな。」
「でも、昔より話を聞くようになった。」
周は笑った。
「昔は、聞く前に答えてたからな。」
昼過ぎ、周は古い工具箱を取り出した。
壊れた椅子の脚が少し緩んでいた。
ドライバーを使ってネジを締める。
一度締めたあと、椅子を揺らしてみる。
まだ少し動く。
もう一度締める。
今度は動かなかった。
劉が横から見ていた。
「直った?」
「うん。」
「昔からそういうの好きだったね。」
「そうか?」
「何でも自分で直そうとする。」
周は工具を片付けながら言った。
「買うより安いからな。」
「それだけ?」
「それだけ。」
午後三時頃、息子から電話があった。
「父さん。」
「ん?」
「この前の数学の本、まだある?」
周は少し驚いた。
「あるよ。」
「写真送ってくれない?」
「何に使うんだ?」
「昔の問題を一つ探したい。」
周は本棚へ行った。
古い問題集を取り出す。
ページをめくる。
息子が昔書いた数字が残っている。
「どの辺?」
「たぶん真ん中くらい。」
周はページを一枚ずつめくった。
「これか?」
「違う。」
「じゃあ、こっち?」
「それ。」
周はそのページを撮って送った。
しばらくして、
「これだ。ありがとう。」
と返ってきた。
周は携帯を見ながら、
「何で今さら?」
と聞いた。
「仕事で似たようなことが出てきた。」
「そうか。」
「昔、父さんに何回もやらされたやつ。」
周は少し笑った。
「覚えてるのか。」
「覚えてるよ。」
「嫌だったって言ってたじゃないか。」
「嫌だったよ。」
息子も笑っていた。
「でも、今になって使うとは思わなかった。」
周は何も言わなかった。
しばらくして息子が、
「じゃあ、仕事戻る。」
と言った。
「うん。」
「また連絡する。」
「分かった。」
電話が切れた。
劉が聞いた。
「何だったの?」
「昔の問題。」
「まだ使うことがあるんだ。」
「そうらしい。」
劉は笑った。
「じゃあ、捨てなくてよかったね。」
周は棚の上に置いた問題集を見た。
「そうだな。」
ただ、それ以上は考えなかった。
昔のものが役に立つこともある。
役に立たないこともある。
残すか捨てるかは、そのときになって決めればいい。
夕方、周は玄関前に椅子を出して座った。
暑さが少し弱くなっていた。
向かいの家では、子どもが自転車の練習をしている。
父親が後ろから支えている。
「もう少し。」
子どもが走り出す。
父親の手が離れる。
自転車が数メートル進んだところで、子どもが倒れた。
「大丈夫か。」
父親が駆け寄る。
子どもは泣きながら立ち上がった。
周は黙って見ていた。
少しすると、また自転車に乗った。
今度は父親が少し離れて歩いている。
周はお茶を一口飲んだ。
昔の自分なら、転ばないようにもっと強く支えていたかもしれない。
けれど、支えている手を離さなければ、自分で走れるかどうかも分からない。
周はそこまで考えて、やめた。
目の前では、子どもがまた自転車をこいでいる。
父親は少し後ろを歩いている。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
夜、張から短いメッセージが来た。
「息子と話した。もう少し今の仕事を続けてみるそうだ。」
周は、
「そうか。」
と返した。
しばらくして、張からもう一つ届いた。
「聞いてから話すって、大事だな。」
周は画面を見た。
返事を考えたが、結局、
「そうだな。」
とだけ送った。
携帯を置く。
劉が夕飯の皿を並べていた。
「ご飯できたよ。」
「行く。」
周は立ち上がった。
外はもう暗くなっていた。
昼間の暑さが少しずつ抜けていく。
明日も暑くなるらしい。
それでも朝になれば、また水を撒き、食事をして、それぞれの一日を始める。
周は電気を消して、食卓へ向かった。




