第七十九章 帰ったあと
息子が帰った翌朝、周はいつも通りに起きた。
台所へ行くと、昨日使った食器はもう片付いていた。
玄関には、息子が履いていた靴の跡が少し残っている。
周はそれを見てから、掃除道具を出した。
「昨日、掃除してなかったからね。」
劉が言った。
「俺がやるよ。」
「いいよ。朝ご飯作るから。」
周は玄関を掃き始めた。
靴の跡はすぐに消えた。
そのあと、庭に出て水をやった。
昨日まであった人の気配がなくなっている。
けれど、特に寂しいとは思わなかった。
息子が帰るときには、また自分の生活に戻ることを知っている。
それは以前から同じだった。
ただ、昔は帰ったあとに、
「ちゃんと着いたか」
「仕事は大丈夫か」
「いつまた来る」
と、何度も聞いていた。
今は、必要なことだけ連絡すればいいと思っている。
午前十時頃、携帯にメッセージが届いた。
「昨日ありがとう。もう仕事に向かってる。」
周は、
「気をつけて。」
と返した。
少しして、
「うん。」
と返ってきた。
それで終わった。
周は携帯をポケットに入れた。
その日の昼前、近所のスーパーへ行った。
店の入口で、以前見かけた若い男と会った。
名前は知らない。
近所の家の息子らしいことだけは知っていた。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
男は買い物袋を持っていた。
「今日は休み?」
周が何気なく聞くと、
「はい。明日からまた仕事です。」
と答えた。
「何の仕事?」
「物流です。」
「忙しい?」
「最近ちょっと忙しいです。」
男は笑った。
「でも、前よりはいいです。」
「前は違う仕事だったの?」
「工場にいました。でも、夜勤が多くて。」
「それで変えたのか。」
「はい。」
周はそれ以上聞かなかった。
男も特に話を続けなかった。
二人は入口で別れた。
家へ戻る途中、周は昨日の息子との会話を思い出した。
昔なら、今会った若い男にも、
「若いうちは一つの仕事を続けたほうがいい」
と言っていたかもしれない。
でも、その人がどんな仕事をしていたのかも、なぜ辞めたのかも、今の生活がどうなのかも知らない。
外から見えるのは、ほんの一部分だった。
家に戻ると、劉が昼ご飯を作っていた。
「スーパーで誰かに会った?」
「知らない若い人。」
「誰?」
「近所の人だと思う。」
「何の仕事?」
「物流だって。」
劉は少し笑った。
「よく聞くね。」
「聞いただけだよ。」
「昔だったら、そのあといろいろ言ってたでしょ。」
周は笑った。
「そうだったかもな。」
昼食を食べ終わったあと、周は居間の棚を整理した。
昨日、息子が見ていた古い数学の問題集が目に入った。
棚から出して、ページをめくる。
途中に、鉛筆で書いた数字が残っている。
昔の字だった。
周はしばらく見ていた。
「それ、まだ捨てないの?」
劉が聞いた。
「もう少し置いとく。」
「使わないよ。」
「分かってる。」
「じゃあ、何で?」
周は答えなかった。
使うために残しているわけではない。
捨てる必要を感じないだけだった。
それだけだった。
夕方、王が庭の前を通った。
「周さん。」
「どうした?」
「この前の件、息子から連絡があった。」
「車?」
「うん。修理できたって。」
「よかったな。」
「五千円は返さなくていいって言った。」
周は王を見た。
「返してもらわないのか?」
「今回はいい。」
「そうか。」
「でも、次は自分で何とかしろって言った。」
周は何も言わずに頷いた。
王は続けた。
「前なら、金を出したら、あとでいろいろ言ってたと思う。」
「いろいろ?」
「俺がどれだけ心配したかとか、ちゃんとしろとか。」
周は少し笑った。
「今は?」
「今回は、金の話だけした。」
「それでいいんじゃないか。」
王は自転車にまたがった。
「そうだな。」
王が帰っていく。
周は庭に戻った。
夕方の空は薄い雲に覆われていた。
劉が洗濯物を取り込んでいる。
「今日は何もしないの?」
「何を?」
「昨日、息子が来たから疲れたんじゃない?」
「別に。」
「そう。」
劉は洗濯物をたたんだ。
その中に、息子が昨日使ったタオルが一枚混ざっていた。
「これ、洗っておくね。」
「うん。」
それだけだった。
夜になって、息子から電話はなかった。
周も電話をかけなかった。
昔なら、帰った翌日には一度くらい連絡したかもしれない。
今は、必要なことがあれば向こうから連絡してくる。
それでいいと思っていた。
夕食のあと、周は外へ出た。
道路の向こうの家から、子どもの声が聞こえてくる。
その隣では、大人が何か話している。
内容までは聞こえない。
少し先では、仕事帰りらしい人が自転車を押して歩いていた。
それぞれの家に、それぞれの時間がある。
昨日は息子がこの家にいた。
今日はもういない。
だからといって、昨日の時間がなくなるわけではない。
今日の生活が、昨日と同じになるわけでもない。
周は玄関の灯りを消した。
「もう寝る?」
劉が聞いた。
「もう少ししてから。」
「じゃあ、先に寝るよ。」
「うん。」
劉が二階へ上がっていく。
周は一人で居間に残った。
テーブルの上には、昨日息子が使ったコップが一つあった。
周はそれを手に取って、台所へ持っていった。
水で洗って、いつもの場所に戻す。
それだけのことだった。
家の中は、また二人の生活に戻っていた。




