第七十八章 来た日
翌日の昼前、周は庭の草を取っていた。
空は晴れていた。
昨夜まで降っていた雨のせいで、土は柔らかい。
玄関の外から、自転車の音が聞こえた。
周は顔を上げた。
「父さん。」
息子だった。
「来たか。」
「うん。」
息子は自転車を止め、荷物を玄関の横に置いた。
「母さんは?」
「台所。」
「ただいま。」
「おかえり。」
劉の声が聞こえた。
息子は靴を脱いで家に入った。
「昼、食べた?」
「まだ。」
「じゃあ、すぐできるよ。」
「手伝おうか?」
「いいよ。座ってて。」
息子は居間の椅子に座った。
周も庭から戻ってきた。
「仕事は?」
「普通。」
「忙しいのか?」
「今週は少し忙しかった。」
「そうか。」
そこで話が止まった。
昔なら、周はそのまま仕事の内容を詳しく聞いていた。
誰と働いているのか。
給料はどうなのか。
上司はどうなのか。
続けるつもりなのか。
何か不満はないのか。
今は、息子が話し始めるのを待った。
しばらくすると、息子のほうから話した。
「最近、仕事のやり方が少し変わった。」
「そうなのか。」
「前より人と話すことが増えた。」
「大変だな。」
「最初は面倒だったけど、慣れてきた。」
周は頷いた。
「それならいいな。」
「うん。」
台所から料理の音が聞こえていた。
包丁がまな板に当たる音。
鍋の蓋が動く音。
冷蔵庫を開ける音。
息子は立ち上がって、台所を覗いた。
「何か手伝う?」
「じゃあ、その皿出して。」
「分かった。」
二人で食器を並べた。
昼食は魚と野菜、それから簡単なスープだった。
三人で食卓を囲む。
「やっぱり家で食べると違うな。」
息子が言った。
「何が?」
「味。」
劉が笑った。
「外でもちゃんと食べてるの?」
「食べてるよ。」
「野菜も?」
「まあ。」
「まあ、じゃないでしょ。」
周は笑った。
「帰ってきたときくらい、食べさせてやればいい。」
「そうしてるじゃない。」
「そうだな。」
食事が終わると、息子は食器を流しに運んだ。
「置いといていいよ。」
「これくらいするよ。」
周はその様子を見ていた。
昔、息子がまだ小さかった頃は、家のことをするのは大人の仕事だと思っていた。
子どもは勉強をしていればいい。
そう考えていた時期もあった。
今では、息子が食器を洗う姿を見ても、特別なことだとは思わない。
一緒に暮らしていない人間が、一日だけ戻ってきている。
その家にいる人間として、普通に動いている。
それだけだった。
午後、息子は古い部屋を見に行った。
机の上には、昔使っていた本が何冊か残っている。
「まだこれあるんだ。」
「捨てようかと思ったけどな。」
「別に捨ててもいいよ。」
「そうか。」
周は本を一冊手に取った。
数学の問題集だった。
ページの端が少し黄ばんでいる。
「これ、よくやってたな。」
「父さん、毎日見てたよね。」
「そうだったな。」
「俺、あの頃ちょっと嫌だった。」
周の手が止まった。
「そうか。」
息子は机の椅子に座った。
「別に勉強が嫌だったわけじゃない。でも、間違えると、すぐ理由を聞かれるのが嫌だった。」
周は本を閉じた。
「そうだったか。」
「うん。」
「悪かったな。」
息子は少し驚いた顔をした。
周自身も、その言葉を口にしてから少し驚いていた。
昔なら、
「お前のためだった。」
と言っていたかもしれない。
その言葉が間違っていたとは、今でも思わない。
ただ、それだけでは息子が感じていたことを説明できないことも分かっていた。
息子はしばらく黙っていた。
「まあ、今さらだけどね。」
「そうだな。」
「でも、言ってくれてよかった。」
周は頷いた。
それ以上は話さなかった。
午後三時頃、息子は友達から電話を受けた。
「そろそろ帰る。」
「もう?」
劉が台所から顔を出した。
「うん。今日は早めに戻らないと。」
「晩ご飯は?」
「帰ってから食べるよ。」
「じゃあ、これ持っていきな。」
劉は小さな袋に野菜を入れた。
「そんなにいらないよ。」
「いいから。」
息子は受け取った。
「ありがとう。」
玄関で靴を履きながら、周が言った。
「気をつけて帰れよ。」
「うん。」
少し間があった。
「また来る。」
「来られるときに来ればいい。」
息子は笑った。
「分かった。」
自転車が道路の向こうへ消えていく。
周はしばらく玄関に立っていた。
劉が横に来た。
「短かったね。」
「一日だからな。」
「でも、来たね。」
「うん。」
二人は家の中へ戻った。
息子が使った皿を洗い、椅子を元の位置に戻す。
部屋の机の上には、古い数学の問題集が残っていた。
周はそれを棚に戻した。
捨てる必要はなかった。
残しておく必要もなかった。
ただ、今日はそこに置いておいた。
夕方になり、庭に影が伸びた。
劉が洗濯物を取り込んでいる。
周は玄関先に座って、通りを眺めていた。
息子はもういない。
けれど、いなくなったというより、また自分の生活へ戻っていったのだと思った。
それは、昔から変わらないことだった。
人は来て、帰っていく。
家も少しずつ変わっていく。
それでも、次にまた誰かが玄関を開ける日まで、それぞれの生活は続いていく。
周は立ち上がった。
「晩ご飯、何にする?」
「さっき魚食べたばかりでしょ。」
「そうだったな。」
二人は笑った。
夕方の風が、庭の葉を静かに揺らしていた。




