第八章 学校の近くで
中学校に入ると、子どもの生活は少し変わった。
学校までの距離が遠くなった。
朝は早く家を出なければならない。
帰ってくる時間も遅くなった。
最初の頃は、劉が毎朝起こしていた。
「起きなさい。」
布団の中から声がする。
「もう少し。」
「もう少しじゃない。遅れるよ。」
「分かった。」
それでも起きない。
劉がもう一度呼ぶ。
「起きなさい。」
ようやく布団が動く。
周はその様子を見ていた。
「自分で起きる習慣をつけろ。」
子どもは眠そうな顔で答える。
「うん。」
周はそれ以上言わなかった。
けれど、数日するとまた同じことが起きた。
ある朝、子どもが学校へ出たあと、周が言った。
「このままだと大変だな。」
劉が聞く。
「何が?」
「通学だよ。」
「まだ大丈夫でしょう。」
「朝も早いし、帰りも遅い。」
「みんな同じでしょう。」
周は少し考えた。
「学校の近くに部屋を借りよう。」
劉が手を止めた。
「借りるの?」
「うん。」
「そんなお金、ある?」
「安いところを探せばいい。」
「今の家もあるのに?」
「子どもの学校が優先だ。」
劉は何も言わなかった。
周は続けた。
「俺も、しばらくそっちで仕事を探す。」
「農作業は?」
「週末に戻ればいい。」
「そんな簡単にできる?」
「やるしかない。」
それからしばらくして、周は学校から少し離れた場所に小さな部屋を見つけた。
古い建物だった。
壁には少しひびが入っている。
窓も大きくない。
台所も狭かった。
それでも、学校までは歩いて行けた。
周は部屋を見て言った。
「ここならいい。」
劉は部屋を見回した。
「狭いね。」
「三人で住むわけじゃない。」
「あなたは?」
「俺は仕事のあるところで寝る。」
劉は何も言わなかった。
結局、平日は子どもと周が学校近くの部屋で暮らし、劉は村に残ることになった。
周は昼間、仕事へ行った。
その頃には、建設や修理の仕事を頼まれることも増えていた。
壁を塗る。
床を直す。
壊れたものを取り替える。
大きな仕事ではない。
けれど、一つ終われば少し金になる。
仕事が終わると、周は急いで部屋へ戻った。
子どもが帰っている日もあれば、まだ学校にいる日もあった。
「今日は何時に帰った?」
「五時くらい。」
「宿題は?」
「まだ。」
「先にやれ。」
「うん。」
周は自分の弁当箱を洗いながら言った。
「飯は?」
「食べた。」
「何食べた?」
「学校の弁当。」
「全部食べたか?」
「食べた。」
「野菜は?」
「食べた。」
周は頷いた。
それだけで安心した。
ある日、学校から帰った子どもが、机の上に教科書を置いた。
「お父さん。」
「何だ?」
「明日、友達の家に行ってもいい?」
周は顔を上げた。
「何しに?」
「一緒に勉強する。」
「誰と?」
子どもが名前を言った。
周は少し考えた。
「何時まで?」
「夕方には帰る。」
「勉強が終わったら帰れ。」
「うん。」
それだけだった。
以前なら、周はもっと細かく聞いていた。
どこへ行く。
誰といる。
何時に帰る。
どうして行く。
何をする。
今回は、そこまで聞かなかった。
子どもは少し驚いた顔をした。
「行っていいの?」
「今、いいって言っただろ。」
「うん。」
子どもは笑った。
「ありがとう。」
周は少し照れたように顔を背けた。
「別に。」
その夜、二人で食事をしていると、子どもが言った。
「この部屋、ちょっと狭いね。」
「嫌か?」
「ううん。」
「学校に近いだろ。」
「うん。」
「だからいいんだ。」
子どもは頷いた。
しばらくして、子どもが聞いた。
「お父さん、毎日ここにいるの?」
「仕事がある日はな。」
「大変じゃない?」
周は箸を止めた。
「何が?」
「仕事して、僕のことも見て。」
周は笑った。
「子どもの心配するのは親の仕事だ。」
「でも、疲れるでしょう。」
「大丈夫だ。」
周はそう言った。
本当に大丈夫だと思っていた。
疲れていても、働けばいい。
少し眠れなくても、家族のためならできる。
それが親だと思っていた。
週末になると、二人は村へ戻った。
劉は畑から帰ってくる。
「おかえり。」
「ただいま。」
子どもが言う。
「お母さん。」
「大きくなったね。」
「そう?」
「また背が伸びた。」
周は笑った。
「服もまた買わないとな。」
劉が言う。
「この前買ったばかりでしょう。」
「もう小さい。」
三人で笑った。
そんな週末もあった。
けれど、いつも穏やかだったわけではない。
ある日、劉が言った。
「今月、少しお金が足りない。」
周は聞いた。
「何に使った?」
「肥料と薬。」
「どれくらい?」
劉が金額を言う。
周は黙った。
「それと、学校の教材費もある。」
「教材費?」
「先生が言ってた。」
周は少し考えた。
「分かった。」
「あと、あなたの母さんのところから電話があった。」
周の顔が少し変わった。
「何て?」
「体調が悪いから、少しお金を送ってほしいって。」
周は黙った。
劉が続ける。
「今月、子どもの教材費もあるよ。」
「分かってる。」
「だから、どうする?」
周はしばらく考えた。
「送る。」
劉は少し黙った。
「いくら?」
「必要なだけ。」
「今月は、こっちも余裕がないよ。」
周の声が少し硬くなった。
「親だぞ。」
「分かってる。」
「困ってるんだから。」
「分かってるって。」
二人の間に沈黙が落ちた。
子どもは隣でテレビを見ていた。
聞いていないふりをしていた。
周は少しして言った。
「俺が何とかする。」
劉はそれ以上言わなかった。
翌週、周は仕事を一つ多く引き受けた。
朝から夜まで働いた。
帰ってくると、手には細かな傷が増えていた。
子どもがそれを見て言った。
「手、どうしたの?」
「仕事。」
「痛くない?」
「このくらい平気だ。」
「病院行ったほうがいいんじゃない?」
周は笑った。
「お前は自分の宿題を心配しろ。」
子どもも笑った。
その夜、子どもが宿題をしている間、周は台所で手を洗った。
水に触れると少し痛かった。
それでも何も言わなかった。
しばらくして、子どもが言った。
「お父さん。」
「何だ?」
「将来、僕も働いたら、お父さんを楽にしてあげる。」
周は一瞬、黙った。
そして笑った。
「そんなこと考えなくていい。」
「でも。」
「お前は自分の人生をちゃんと考えろ。」
子どもは顔を上げた。
周は続けた。
「俺が働くのは、お前のためだ。」
「うん。」
「だから、お前は勉強しろ。」
子どもは頷いた。
「分かった。」
その言葉を聞いて、周は安心した。
自分が働く。
子どもが勉強する。
それで家族は少しずつ良くなる。
周はそう考えていた。
けれど、子どもの側では、その言葉が別の形でも残っていた。
父親が働いている。
自分のためにお金を使っている。
だから、自分は勉強しなければならない。
言うことを聞かなければならない。
そうしなければ、父親の苦労を無駄にする。
子どもはまだ、そんなふうに整理して考えていたわけではない。
ただ、少しずつそう感じるようになっていた。
ある夜、周は子どもの机の上に置かれた教科書を見た。
「最近、ちゃんと勉強してるな。」
「うん。」
「このまま続けろ。」
「うん。」
周は満足そうに頷いた。
そして、机の横に新しい鉛筆を数本置いた。
「使え。」
子どもは鉛筆を見る。
「買ってくれたの?」
「ああ。」
「ありがとう。」
「なくすなよ。」
「分かった。」
その夜、二人は同じ小さな部屋で眠った。
部屋は狭かった。
壁は薄かった。
外を車が通るたびに、少し音がした。
それでも周は、この生活でいいと思っていた。
子どもの学校が近い。
勉強する時間もある。
自分も働ける。
必要なものは買ってやれる。
それなら、十分だと思った。
ただ、その「十分」の中には、周がまだ気づいていないものが一つあった。
自分がこれだけ家族のために働いているのだから、
家族も自分の考えを理解してくれるはずだ。
そして、その考えは、これから少しずつ、
「家族のために働く」
という責任から、
「家族のことは自分が決める」
という感覚へ変わっていくことになる。




