第七章 自分で決めたい
子どもが小学校の高学年になる頃には、背も少し伸びていた。
それまで周の腰あたりまでしかなかった頭が、いつの間にか胸のあたりまで来ている。
服もすぐに小さくなった。
劉はよく言った。
「また短くなってる。」
周が見る。
「本当だな。」
「去年買ったばかりなのに。」
「大きくなってるんだから仕方ない。」
「じゃあ、買わないと。」
周は少し考えてから言った。
「まだ着られるだろ。」
劉が服の裾を見る。
「無理でしょう。」
「もう少しなら。」
「子どもが動きにくそうにしてるよ。」
周は何も言わなかった。
結局、その週末に新しい服を一着買った。
高いものではなかった。
それでも子どもは嬉しそうだった。
「ありがとう。」
周は少し照れながら言った。
「大事に着ろよ。」
「うん。」
周は、それで十分だと思った。
子どもに必要なものは買う。
必要のないものは買わない。
それが家のやり方だった。
ある日、学校から帰ってきた子どもが、机の上に一枚の紙を置いた。
「お父さん。」
「何だ?」
「先生がこれ、書いてくれた。」
周が紙を見る。
次の学期に向けた学習についての連絡だった。
周は最後まで読んだ。
「成績、少し上げないとな。」
子どもは黙った。
「数学はどうだった?」
「まあまあ。」
「まあまあって何点だ?」
「八十二。」
周は少し黙った。
「前より下がったな。」
「うん。」
「どうして?」
「分からない。」
周は椅子に座った。
「分からないじゃなくて、どこが分からないのか考えろ。」
子どもは答えなかった。
周は教科書を開いた。
「ここ、やってみろ。」
子どもは問題を解いた。
途中で手が止まった。
周が説明する。
子どもは聞いていた。
しばらくして、周が言った。
「分かったか?」
「分かった。」
「じゃあ、次。」
子どもはまた問題を解いた。
今度は正解した。
周は頷いた。
「ほら。できるじゃないか。」
子どもは何も言わなかった。
周は、その沈黙を気にしなかった。
その夜、劉が台所で食器を洗っていると、子どもがそばへ来た。
「お母さん。」
「何?」
「お父さんって、どうしていつも勉強のこと言うの?」
劉は水を止めた。
少し考えてから答えた。
「あなたのことを心配してるんでしょう。」
「でも、疲れる。」
劉は子どもを見る。
「そうだね。」
「僕だって、やってる。」
「うん。」
「なのに、いつも足りないって言われる。」
劉はすぐには答えなかった。
「お父さんは、自分が子どもの頃に勉強が得意だったからね。」
「だから?」
「だから、自分が教えられることは教えたいんじゃない?」
子どもは少し考えた。
「僕はお父さんじゃないよ。」
劉はその言葉を聞いて、少し黙った。
「そうだね。」
それ以上は言わなかった。
数日後、学校で遠足があった。
子どもは帰ってくるなり、嬉しそうに話した。
「今日、みんなで山に行った。」
「寒くなかった?」
劉が聞く。
「大丈夫。」
周も聞いた。
「先生の言うことはちゃんと聞いたか?」
「聞いた。」
「勝手なことしなかったか?」
「してない。」
周は頷いた。
「それならいい。」
子どもは少し考えてから言った。
「今度、友達と一緒に図書館へ行きたい。」
「いつ?」
「土曜日。」
「誰と?」
子どもが友達の名前を二人ほど言った。
周は聞いた。
「何時に帰ってくる?」
「夕方。」
「駄目だ。」
子どもの顔が変わった。
「どうして?」
「遠いだろ。」
「近いよ。」
「子どもだけで行くところじゃない。」
「みんな行く。」
「みんなが行けば、お前も行くのか?」
子どもは黙った。
周は続けた。
「まだ小学生だ。遊ぶなら家の近くで遊べ。」
「でも、本を読みに行くだけだよ。」
「本なら家でも読める。」
子どもは少し強い声で言った。
「家じゃ読めない本がある。」
周は眉を寄せた。
「何だ、その言い方は。」
子どもは黙った。
劉が横から言った。
「行かせてみてもいいんじゃない?」
周は劉を見る。
「お前まで。」
「図書館でしょう。」
「何かあったら誰が責任を取る?」
「それなら、時間を決めればいいでしょう。」
「駄目なものは駄目だ。」
子どもはその場を離れた。
ドアが閉まる。
周はため息をついた。
「最近、あいつ、言い方が悪くなったな。」
劉は言った。
「大きくなったんでしょう。」
「大きくなったからって、親にそんな言い方していいのか?」
「親だから何でも言っていいわけでもないでしょう。」
周は劉を見た。
二人とも黙った。
しばらくして、周が言った。
「俺は家族のことを考えてる。」
「分かってる。」
「なら、何でいつも俺が悪いみたいに言うんだ。」
劉は答えなかった。
周は椅子から立ち上がった。
「もういい。」
その日の夕食は静かだった。
子どもも何も言わなかった。
翌朝、子どもが学校へ行ったあと、劉が言った。
「あなた、あの子に一度、理由を聞いてみたら?」
「何の?」
「どうして図書館へ行きたいのか。」
「本を読むためだろ。」
「それだけじゃないかもしれない。」
周は黙った。
「友達と一緒にいたいのかもしれないし、自分で何か決めてみたいのかもしれない。」
周は湯飲みを持ったまま、しばらく考えていた。
「まだ子どもだ。」
「そう。」
「だから俺が考えないと。」
劉は何も言わなかった。
その日の夜、周は子どもの部屋へ入った。
子どもは宿題をしていた。
「宿題、終わったか?」
「もう少し。」
周は椅子に座った。
「昨日の図書館のことだけど。」
子どもの手が止まった。
「うん。」
「何で行きたいんだ?」
子どもはしばらく黙った。
「友達と行きたい。」
「それだけか?」
「うん。」
周は子どもの顔を見る。
「本を読むためじゃないのか?」
「それもある。」
「なら、家で読めばいい。」
子どもは少し考えた。
そして、初めてはっきりと言った。
「お父さんは、いつも僕が何をするか決めるじゃん。」
周は黙った。
「勉強も、遊ぶ時間も、帰る時間も。」
子どもは続けた。
「僕だって、自分で決めたい。」
周はすぐには答えなかった。
その言葉を聞いた瞬間、胸の中に何か引っかかるものがあった。
けれど、それが何なのかは分からなかった。
「お前はまだ小さい。」
「分かってる。」
「だから、俺が考えるんだ。」
「でも、僕も考えられる。」
周は黙った。
子どもの言葉は、間違っているようには聞こえなかった。
それでも、簡単に認めることもできなかった。
「今日はもう寝ろ。」
「うん。」
周は部屋を出た。
廊下を歩きながら、さっきの言葉を何度も思い出していた。
自分で決めたい。
その言葉が、なぜか気になった。
周にとって、家族のことを考えることと、家族のことを決めることの違いは、まだはっきりしていなかった。
翌日、周は仕事から帰ってきた。
子どもはまだ帰っていなかった。
劉が夕食の準備をしていた。
「今日、あの子は?」
「友達のところ。」
周は時計を見る。
「聞いてない。」
「学校から直接行くって言ってた。」
「俺には?」
「言い忘れたんじゃない?」
周は少し不機嫌になった。
「こういうのは、ちゃんと俺に言ってくれないと困る。」
劉は振り返った。
「本人が言ってたよ。」
「何を?」
「友達のところへ行っていいかって。」
「俺に聞いたのか?」
「聞いた。」
「俺は駄目だって言った。」
「それでも、今日は学校で一緒に勉強するって。」
周は黙った。
「勝手に行ったのか。」
「そういう言い方をしないで。」
「じゃあ何て言うんだ。」
劉は火を弱くした。
「自分で決めたんでしょう。」
その言葉を聞いて、周は何も言えなくなった。
夜になって、子どもが帰ってきた。
玄関を開ける。
「ただいま。」
「おかえり。」
劉が答える。
周は居間にいた。
子どもは少し緊張した顔で周を見る。
「どこ行ってた?」
「友達の家。」
「何時に帰るって言った?」
「夕方。」
「今、何時だ?」
子どもは時計を見る。
「少し遅くなった。」
周は黙った。
怒鳴ることもできた。
いつものように、
「言うことを聞け。」
と言うこともできた。
けれど、昨日の言葉が頭に残っていた。
自分で決めたい。
周は少し息を吐いた。
「次から、帰る時間はちゃんと決めろ。」
子どもが顔を上げた。
「うん。」
「遅れるなら連絡しろ。」
「分かった。」
「今日はもういい。飯を食え。」
子どもは頷いた。
「うん。」
劉は二人を見ていた。
何も言わなかった。
その夜、三人で食卓を囲んだ。
大きな変化はなかった。
周はまだ、子どもが心配だった。
子どももまだ、父親の言うことを全部受け入れていたわけではない。
劉も、二人の間に挟まれることが増えていた。
ただ、一つだけ違っていた。
周は初めて、
子どもにも自分の考えがあるのだということを、少しだけ意識した。
それが家族にとって何を意味するのかは、まだ分からなかった。
けれど、その小さな違いは、これから何度も三人の暮らしの中に現れることになる。




