第七十六章 頼まれたこと
梅雨に入ってから、晴れる日が少なくなった。
その日の朝は、久しぶりに雲が少なかった。
周は庭に出て、伸びた草を抜いていた。
腰を曲げると少し痛む。
以前なら、そのまま続けていたが、今は一度立ち上がってから、またしゃがむようにしている。
そこへ、近所の王が自転車を押してやって来た。
「周さん。」
「どうした?」
「ちょっと見てくれないか。」
王の自転車の後輪が、少し傾いていた。
周はしゃがんでタイヤを確認した。
「空気が少ないな。」
「昨日から変なんだ。」
「修理屋に持っていったほうがいい。」
「やっぱり?」
「俺が見ても、細かいところまでは分からない。」
王は少し困った顔をした。
「前だったら周さんが直してくれただろ。」
「前と今は違うよ。」
周は笑った。
「腰がな。」
王も笑った。
「そうだったな。」
二人で自転車を押して、近くの修理店まで歩いた。
店の主人はタイヤを外して、しばらく調べた。
「小さい穴がありますね。チューブを交換したほうが早い。」
王が値段を聞いた。
それほど高くはなかった。
「じゃあ、お願いします。」
修理を待つ間、王はベンチに座った。
「最近、息子から金を貸してくれって言われたんだ。」
周は王の顔を見た。
「いくら?」
「五千。」
「そうか。」
「大した金じゃないんだけどな。」
王は少し笑った。
「前なら、すぐ渡してた。でも今回は、何に使うのか聞いた。」
「何に使うんだ?」
「車の修理だって。」
「それなら必要なんじゃないか。」
「俺もそう思った。」
王は膝の上で手を組んだ。
「ただ、前にも何度か貸してるんだ。返ってきたこともあるし、返ってこないこともある。」
「じゃあ、今回はどうする?」
「まだ決めてない。」
周は少し考えた。
「それなら、決めてからでいいだろ。」
王は周を見る。
「貸したほうがいいと思う?」
「俺には分からない。」
「周さんなら?」
「俺だったら、自分が出せる金かどうかを先に考える。」
「出せるかどうか?」
「返ってこなくても、自分の生活に困らない金かどうか。」
王は黙っていた。
修理店の主人が奥から出てきた。
「終わりましたよ。」
王は自転車を受け取った。
後輪を押してみると、さっきまであった揺れがなくなっている。
「ありがとう。」
代金を払って店を出た。
道の途中で王が言った。
「息子に金を貸すのと、息子の生活を支えるのは違うんだな。」
周は歩きながら答えた。
「たぶん、そういうことだと思う。」
「たぶんか。」
「俺も全部分かってるわけじゃない。」
王は笑った。
「そうだよな。」
二人はそこで別れた。
周が家に戻ると、劉が庭の草を集めていた。
「どこ行ってたの?」
「王さんの自転車が壊れたから、一緒に修理屋まで行ってきた。」
「直った?」
「直った。」
「よかったね。」
昼食のあと、劉が冷蔵庫を開けながら言った。
「米、少なくなった。」
「明日買ってくる。」
「今日じゃなくていい?」
「まだあるだろ。」
「あるけど。」
「じゃあ、明日でいい。」
以前なら、こういう小さなことでも、周は自分の判断で決めることが多かった。
今は、必要なことだけ決める。
急がなくてもいいことは、急がない。
その違いは、本人にとっては小さかった。
けれど、家の中の空気は少し変わっていた。
夕方、息子からメッセージが届いた。
「来週、二日休みになった。」
周は画面を見た。
来るのかと思ったが、すぐには聞かなかった。
しばらくしてから、息子から続けて届いた。
「一日は友達と会う。」
周は、
「そうか。」
と返した。
少しして、
「もう一日はそっちに行こうかな。」
と届いた。
周は笑った。
「来られるなら来ればいい。」
送信してから、携帯を置いた。
劉が横から見た。
「来るの?」
「一日だけ。」
「何を食べさせようかな。」
「まだ決まってないぞ。」
「来るって言ったんだから、考えるくらいいいでしょ。」
劉は台所へ向かった。
「魚がいいかな。」
「また魚か。」
「じゃあ何がいいの?」
周は答えなかった。
台所から、冷蔵庫を開ける音が聞こえる。
しばらくして劉が、
「鶏肉もあるね。」
と言った。
周は庭に出た。
雨が降ったあとの土から、草の匂いがしていた。
来週、息子が来る。
それだけのことだった。
何を話すのか。
どれくらいいるのか。
仕事のことを話すのか。
何も話さないのか。
まだ分からない。
周は庭の端に落ちていた枝を拾った。
家の中から劉の声が聞こえる。
「周さん、これ捨てていい?」
「いいよ。」
「本当に?」
「うん。」
それだけ答えて、周は枝をゴミ袋に入れた。
遠くで自転車のベルが鳴った。
夕方の道を、何人かの人がそれぞれの家へ戻っていく。
周も家の中へ戻った。
来週のことは、来週になれば分かる。
今夜は今夜の生活をする。
それで十分だった。




