第七十五章 話さない日
六月の初め、朝から雨が降っていた。
周はいつもより遅く起きた。
窓の外を見ると、庭の葉に雨粒が溜まっている。
「今日は出ないの?」
台所から劉の声がした。
「出ない。雨だからな。」
「市場は?」
「昨日行った。」
劉は「そう」とだけ答えた。
朝食を食べ終わると、周は椅子に座ったまま、しばらくテレビを見ていた。
ニュースでは、どこかの地域で大雨が降っているという話をしていた。
劉は洗った食器を拭いている。
二人とも、特に話すことはなかった。
昔は、こういう時間になると、劉が近所の話を始めた。
誰かの息子が帰ってきた。
誰かの娘が仕事を辞めた。
誰かの家で夫婦げんかがあった。
周もそれを聞きながら、自分の知っている話を付け加えた。
最近は、そういう話が少なくなった。
話題がなくなったというより、他人の家のことを詳しく話しても、自分たちの生活が変わるわけではないと分かってきたのだった。
昼前、周の携帯にメッセージが届いた。
息子からだった。
「今日は休み。」
短い一文だった。
周は少し考えてから、
「そうか。ゆっくり休め。」
と返した。
しばらくして、
「父さんも。」
と返ってきた。
それだけだった。
周は携帯を伏せた。
劉が聞いた。
「息子から?」
「うん。今日は休みらしい。」
「帰ってくればいいのに。」
「仕事があるから、そう簡単には帰れないだろ。」
「今日は休みなんでしょ?」
「休みだからって、帰らなきゃいけないわけじゃない。」
劉は少し黙った。
「昔なら、帰ってこいって言ってたよね。」
「言ってたな。」
周は笑った。
「今は?」
「今は、本人が決めればいい。」
劉は食器を片付けながら、
「そうだね。」
と言った。
午後になっても雨は止まなかった。
周は古い棚の整理を始めた。
引き出しの中には、昔の領収書や薬の袋、壊れたボールペンなどが入っていた。
一つずつ取り出して、必要のないものをゴミ袋に入れていく。
その中に、古い携帯電話があった。
息子がまだ学生だった頃に使っていたものだった。
画面には傷があり、充電器も見当たらない。
周はしばらく手に持っていた。
「それ、まだあったの?」
劉が後ろから覗いた。
「いつのだろうな。」
「息子が使ってたやつじゃない?」
「たぶん。」
「捨てる?」
周は少し考えた。
「分からない。」
「使わないよ。」
「そうだな。」
結局、古い携帯は棚の隅に戻した。
すぐに捨てる理由もなかった。
けれど、残しておく理由も、それほどなかった。
周は引き出しを閉めた。
夕方になって雨が弱くなった。
近所の道路を、学校帰りの子どもが傘を差して歩いている。
その後ろを、母親らしい女性が少し離れて歩いていた。
周は玄関先から眺めていた。
昔の自分たちも、ああやって息子の帰りを待っていた。
学校から帰れば、宿題をしたかと聞いた。
テストがあれば点数を聞いた。
悪ければ理由を聞いた。
良ければ次はもっと取れると言った。
そのときは、それが普通だと思っていた。
周は玄関の柱に手を置いた。
今になって考えても、全部が間違っていたとは思わなかった。
ただ、あの頃には分からなかったこともある。
心配することと、相手の行動を決めることは、同じではなかった。
何かを言うことと、相手がその言葉に従わなければならないことも、同じではなかった。
それを理解するまでに、ずいぶん時間がかかった。
夜、息子から電話があった。
「もしもし。」
「今、何してた?」
「夕飯食べてた。」
「何食べた?」
「魚。」
「また魚?」
「最近、魚が安いんだ。」
息子が笑った。
「そうなんだ。」
少しだけ仕事の話をした。
息子は、休みの日でも仕事のことを考えてしまうと言った。
周は「そうか」と聞いた。
「父さんは?」
「今日はずっと家にいた。」
「腰、大丈夫?」
「大丈夫。」
「無理しないでよ。」
周は一瞬黙った。
以前なら、「お前も無理するな」とすぐに返していた。
今日は少し違う言葉を選んだ。
「分かった。気をつける。」
「うん。」
電話を切ったあと、周はしばらく携帯を持ったまま座っていた。
劉が向かいに座る。
「何話してたの?」
「たいしたことじゃない。」
「そう。」
劉はそれ以上聞かなかった。
外では、雨がまた少し降り始めていた。
二人はテレビをつけた。
画面には、明日の天気予報が映っている。
明日は晴れるらしい。
周は窓の外を見た。
晴れたら庭の雑草でも取ろうと思った。
それだけを考えて、テレビの音を聞いていた。
誰かと話さない時間にも、生活は続いている。
話さなかったからといって、何かが失われるわけでもない。
話したからといって、何かが決まるわけでもない。
その日の夜は、それ以上、誰も何も言わなかった。




