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家にいる人  作者: 亀


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第七十四章 帰り道の話

六月に入る少し前の夕方だった。


周は市場からの帰り道、自転車の前かごに野菜を入れて走っていた。


空はまだ明るかったが、風は少し湿っていた。


昼間に降った雨のせいで、道路の端には小さな水たまりが残っている。


交差点の手前で自転車を止めたとき、後ろから声をかけられた。


「周さん。」


振り返ると、以前同じ現場で働いていた陳だった。


「久しぶりだな。」


「本当だな。最近、見なかった。」


陳は笑いながら、自転車を脇に寄せた。


「ちょっと仕事を変えたんだ。」


「そうか。」


周はそれ以上、すぐには聞かなかった。


陳のほうから話し始めた。


「前のところ、悪くはなかったんだけどな。朝が早くて、帰るのも遅かった。給料は前より少し良かったけど、家に帰って飯を食って寝るだけだった。」


「今は?」


「今は近くの工場。給料は少し下がった。」


「それでも変えたのか。」


「うん。」


陳は信号を見ながら言った。


「前は給料が高いほうがいいと思ってたんだけど、最近は家にいる時間も金と同じくらい大事かなって思って。」


周は少し笑った。


「俺も昔は、金が多ければ何とかなると思ってたよ。」


「今は?」


「今は、金がなければ困ると思ってる。」


二人とも笑った。


信号が青になった。


少し先のコンビニまで一緒に走った。


店の前で自転車を止めると、陳は飲み物を一本買った。


「周さんは、仕事もうあまりしないの?」


「たまにはする。でも、前みたいにはできないな。」


「腰?」


「そう。」


周は腰のあたりを軽く叩いた。


「年を取ったってことだ。」


陳は何か言いかけたが、やめた。


その代わり、


「無理しないほうがいいですよ。」


と言った。


周は一瞬、息子から同じことを言われたときのことを思い出した。


「お前も、そういうこと言うようになったな。」


「何が?」


「いや、何でもない。」


陳は不思議そうな顔をしたが、深く聞かなかった。


二人はそこで別れた。


家に戻ると、劉が台所に立っていた。


「今日は遅かったね。」


「陳に会った。」


「誰?」


「前に一緒に仕事してた人。」


周は買ってきた野菜をテーブルに置いた。


劉が袋の中を覗いた。


「またトマト買ったの?」


「安かったから。」


「この前も買ったじゃない。」


「じゃあ、明日食べればいい。」


劉は何も言わず、トマトを冷蔵庫に入れた。


少ししてから、周の携帯が鳴った。


息子からだった。


「もしもし。」


「今、帰ったところ。」


「そうか。」


「そっちは?」


「まだ仕事。」


「忙しい?」


「今日は普通。来月、そっちに行けるかもしれないけど、まだ分からない。」


「そうか。」


以前なら、周はすぐに日付を聞いていた。


何日に来るのか。


何時に着くのか。


泊まるのか。


今回は聞かなかった。


「決まったら教えてくれればいい。」


「うん。」


少し沈黙があった。


「父さん。」


「ん?」


「この前、仕事のことで話しただろ。」


「うん。」


「もう少し今のところでやってみることにした。」


「そうか。」


「うん。」


周は窓の外を見た。


庭の隅に植えた苗が、前より少し大きくなっている。


「じゃあ、しばらくやってみればいい。」


「そうする。」


「無理だったら、そのとき考えればいい。」


「分かった。」


電話を切ったあと、周は携帯をテーブルに置いた。


劉が聞いた。


「息子?」


「うん。」


「来月来るの?」


「まだ分からないって。」


「そう。」


劉はそれ以上聞かなかった。


夕飯の準備を続けた。


その夜、二人はテレビをつけたまま食事をした。


ニュースの音が小さく聞こえている。


劉が魚の骨を取りながら言った。


「陳さん、仕事変えたんだね。」


「そうらしい。」


「給料、下がったんでしょ?」


「少しな。」


「それでも変えたんだ。」


「本人には、本人の事情があるんだろ。」


劉は少し考えてから、


「そうだね。」


と言った。


昔だったら、そこから近所の誰かの話になっていたかもしれない。


誰々の息子はどこで働いている。


誰々の娘は結婚した。


誰々の家は車を買った。


今は、そういう話をすることも少なくなった。


話さなくなったというより、話しても仕方がないことが少しずつ分かってきたのかもしれない。


食事のあと、周は庭に出た。


雨上がりの土はまだ柔らかかった。


植えた苗の周りに、小さな雑草が生えている。


しゃがんで、それを一本ずつ抜いた。


家の中から劉の声が聞こえた。


「明日、雨だって。」


「じゃあ、水やらなくていいな。」


「そうだね。」


周は立ち上がった。


空には雲が残っていた。


明日のことは、まだ分からない。


息子が来る日も。


陳が今の仕事をどれだけ続けるのかも。


自分がまた仕事をするのかどうかも。


それでも、翌朝になれば、またそれぞれの場所で一日が始まる。


周は庭の土を靴で軽くならしてから、家の中へ戻った。

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