第七十三章 帰ってきた理由
五月の連休が近づいていた。
町の道路には、いつもより車が増えていた。
周は朝から庭の手入れをしていた。
先月咲いた花は、もう少しずつ散り始めている。
「終わるのも早いね」
劉が言った。
「咲いたら散るだろ」
「そうだけど」
劉は落ちた花びらを拾った。
そのとき、向かいの家の門が開いた。
娘が戻ってきた。
手には買い物袋を持っている。
周と目が合うと、軽く頭を下げた。
「こんにちは」
「こんにちは。お母さん、どう?」
「だいぶ良くなりました」
「それはよかった」
「この前は、いろいろ聞いてくださってありがとうございました」
「俺は何もしてないよ」
「話を聞いてもらえるだけでも、助かることがありますから」
周は少し笑った。
娘は家の中へ入っていった。
昼過ぎ、劉が買い物から戻ってきた。
「向かいの娘さん、また来てた?」
「うん」
「お母さん、良くなったって?」
「そうらしい」
「じゃあ、また仕事に戻るのかな」
「たぶん」
その日の夕方、向かいの家の娘が周の家を訪ねてきた。
「すみません、ちょっといいですか?」
「どうぞ」
娘は玄関先に立ったままだった。
「この前、仕事を休んだって話しましたよね」
「うん」
「会社に戻ることにしました」
「そうか」
「母も、もう大丈夫だからって」
娘は少し笑った。
「最初は、仕事を辞めたほうがいいのかなって思ってました」
「うん」
「母のそばにいたほうがいいって思ったし、周りからもそう言われました」
周は黙って聞いていた。
「でも、母に聞いたら、『仕事を辞める必要はない』って言われました」
「そうか」
「『自分の生活も大事にしなさい』って」
周は少し驚いた。
娘は続けた。
「母がそう言ったから、戻ることにしました」
「それならよかったな」
「はい」
娘は少し考えてから、
「私、母のために何かすることばかり考えてたんです」
と言った。
「でも、母は私に自分の生活を捨ててほしいわけじゃなかったみたいです」
周はうなずいた。
「親子でも、考えてることが同じとは限らないからな」
「そうですね」
娘は笑った。
「私も、母ならきっとこうしてほしいだろうって勝手に考えてました」
「そういうことはある」
「母も私に言わないし、私も聞かなかった」
周はその言葉を聞いて、少し考えた。
「言わないままだと、分からないこともあるな」
「はい」
娘は頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いや」
娘が帰ったあと、劉が玄関から出てきた。
「何だったの?」
「仕事に戻るって」
「そう」
「お母さんが、自分の生活も大事にしろって言ったらしい」
劉は少し黙った。
「親が子どもにそう言えるのって、難しいね」
「そうか?」
「自分が苦しいときに、子どもにそばにいてほしいって思うでしょう」
「思うだろうな」
「でも、それを言わないことも必要なのかな」
周は少し考えた。
「言わないほうがいいときもあるし、言ったほうがいいときもある」
「難しいね」
「だから、そのときにならないと分からない」
劉はうなずいた。
夕食のあと、息子から電話が来た。
「父さん、来月の予定なんだけど」
「うん」
「ちょっと仕事が忙しくなりそうで、帰れるかまだ分からない」
「そうか」
「また分かったら連絡する」
「分かった」
劉が横から聞いた。
「来られないの?」
周は電話を手で覆った。
「まだ分からないって」
「そう」
周は電話に戻った。
「母さんが、帰ってくるか気にしてる」
電話の向こうで息子が笑った。
「分かってるよ」
「無理しなくていいからな」
「うん」
少し沈黙があった。
息子が言った。
「父さんも、最近あまり無理しないでね」
「分かってる」
「本当に?」
「本当だ」
「じゃあ、また連絡する」
「うん」
電話が切れた。
劉は周を見た。
「帰ってくるかな」
「分からない」
「そう」
「来たら一緒に飯を食べればいいし、来られなかったら二人で食べればいい」
劉は少し考えた。
「そうだね」
その夜、周は庭に出た。
花はほとんど散っていた。
先月まで咲いていた場所には、緑の葉だけが残っている。
周はしばらく見ていた。
花が散ったことを、失ったとは思わなかった。
また咲くかもしれない。
咲かないかもしれない。
それはまだ分からない。
家の中から劉が呼んだ。
「周さん、窓閉めるよ」
「今行く」
周は庭を離れた。
門を閉めると、向かいの家にも明かりがついていた。
それぞれの家で、それぞれの夜が始まっていた。




