第七十二章 別の家の話
四月に入ると、近所の庭にも花が増え始めた。
朝、周が外に出ると、向かいの家の門の前に自転車が一台置かれていた。
見慣れない自転車だった。
劉が洗濯物を持って出てきた。
「誰か来てるの?」
「たぶんな」
昼前になって、向かいの家の娘が出てきた。
周は以前、何度か見たことがあった。
結婚してから別の町に住んでいると聞いていた。
「お久しぶりです」
娘のほうから声をかけてきた。
「久しぶりだね」
「母が、最近少し体調が悪くて」
「大丈夫か?」
「大したことではないです。病院には行ってます」
周はそれ以上聞かなかった。
その日の午後、向かいの家の前に車が止まった。
娘の夫らしい男性が荷物を運んでいた。
夕方、劉が言った。
「しばらくこっちにいるのかな」
「どうだろう」
「旦那さんも仕事があるでしょう」
「そうだな」
翌日になっても、娘は帰らなかった。
その次の日もいた。
近所では、少しずつ話が広がった。
「仕事を休んで来てるらしい」
「旦那さんとは大丈夫なのかしら」
「お母さんのためでしょう」
周はその話を聞いたが、何も言わなかった。
劉も最初は誰かから聞いた話を周に話そうとした。
「向かいの家、娘さん……」
周は、
「本人たちにしか分からないだろ」
と言った。
劉は少し黙った。
「そうだね」
それで終わった。
数日後、周は市場へ向かう途中で、その娘に会った。
「お母さん、どう?」
「少し良くなりました」
「それならよかった」
娘は少し迷ってから、
「しばらく仕事を休むことになりました」
と言った。
「そうか」
「会社には迷惑をかけるけど、今は母のほうを優先しようと思って」
周はうなずいた。
「自分で決めたなら、それでいいんじゃないか」
「ありがとうございます」
娘は笑った。
「でも、会社に戻れるかは分からなくて」
「そうか」
「夫も仕事があるので、ずっとこっちにいるわけにはいかないし」
周は何も言わなかった。
娘は少し考えて、
「母が元気になったら、また考えます」
と言った。
「そうすればいい」
それだけ話して、二人は別れた。
帰宅すると、劉が聞いた。
「娘さん、何て言ってた?」
「仕事を休んでるって」
「辞めるのかな」
「分からないって」
「そう」
劉は少し考えた。
「周りは、すぐに辞めるとか、夫婦がどうとか言うけどね」
「本人もまだ決めてないんだろ」
「そうだね」
夕食のあと、周はテレビを見ていた。
劉が隣に座った。
「私だったら、どうするかな」
「何が?」
「子どもが遠くに住んでいて、親が病気になったら」
周は少し考えた。
「分からないな」
「あなたなら帰ってきてほしい?」
「帰ってきてほしいとは思うだろうな」
「でも?」
「それだけで決めさせるのは違うだろ」
劉は黙った。
「子どもには子どもの生活があるから」
しばらくして、劉が言った。
「昔のあなたなら、違うこと言ってたかもね」
「そうか?」
「たぶん」
周は笑った。
「俺も変わったのかな」
「少しは」
「少しだけ?」
「少しだけ」
二人で笑った。
翌朝、向かいの家の前に置かれていた自転車がなくなっていた。
娘は帰ったらしい。
その日の昼、周は庭に出た。
先月植えた花が咲いていた。
小さな花だった。
「咲いたよ」
劉が後ろから言った。
「そうだな」
「名前、覚えた?」
周は少し考えた。
「……忘れた」
「もう」
劉は笑った。
周も笑った。
向かいの家では、いつものように洗濯物が干されていた。
娘が戻ったのか。
母親が自分で干したのか。
周には分からなかった。
それを確かめる必要もなかった。
それぞれの家には、それぞれの事情がある。
外から見えるのは、その一部分だけだった。
午後、周は花に水をやった。
花は風に揺れていた。




