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家にいる人  作者: 亀


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第七十章 言ったことのない言葉

春の雨が続いていた。


朝から空は暗く、庭の土は濡れていた。


周は窓から外を見た。


先月植えた苗は、雨の中でも倒れていなかった。


「傘、干しておいて」


劉が玄関から言った。


「分かった」


周は傘を開いて、玄関の脇に立てかけた。


そのとき、電話が鳴った。


王だった。


「周さん、今大丈夫?」


「大丈夫だよ」


「この前の話なんだけど」


「娘さんの?」


「うん」


王は少し黙った。


「昨日、娘がまた来た」


「そうか」


「今度は、昔の話をいくつかした」


周は黙って聞いた。


「俺は、ほとんど覚えてなかった」


「そうか」


「でも、娘は覚えてた」


王の声は少し小さかった。


「俺にとっては、その日のことでしかなかったんだよな。仕事で疲れてて、家に帰って、子どもが何かして、怒って……それで終わったと思ってた」


周は窓の外を見た。


雨が軒先から落ちていた。


「でも、子どもは覚えてるんだな」


「そういうこともある」


「娘がさ、『お父さんにとっては一日でも、私にとっては何年も残ってることがある』って」


周はしばらく何も言わなかった。


「それで?」


「謝った」


「また?」


「うん」


王は笑った。


「一回謝ったら、次も謝れるようになった」


周も少し笑った。


「そうか」


「でも、娘も全部許したわけじゃないと思う」


「そうだろうな」


「それでいいんだろうな」


王の声には、以前より落ち着きがあった。


電話を切ったあと、周はしばらく携帯電話を見ていた。


劉が台所から出てきた。


「王さん?」


「うん」


「何かあった?」


「娘さんと話したって」


「そう」


劉はそれだけ言った。


周は少し考えてから、


「俺たちも、言ったことない言葉があるな」


と言った。


劉は周を見た。


「例えば?」


「分からない」


「分からないのに言うの?」


「そういうこともある」


劉は笑った。


「変なの」


昼前、周は古い箱を整理していた。


中には昔の写真が入っていた。


息子が小学生だったころの写真。


学校の前で撮ったもの。


運動会の日。


家族三人で撮った写真。


周は一枚ずつ見ていた。


写真の中の自分は、今より若かった。


息子も小さかった。


劉が横に座った。


「懐かしいね」


「うん」


「この日、覚えてる?」


「運動会だろ」


「違う。その前の日」


周は写真を見た。


「何かあった?」


「あなた、息子にすごく怒ってた」


「何で?」


「忘れた」


「じゃあ、覚えてないじゃないか」


「でも、怒ってたことは覚えてる」


二人は笑った。


写真の裏には日付だけが書かれていた。


周は写真を箱に戻した。


「こういうの、残しておく?」


劉が聞いた。


「全部?」


「うん」


周は少し考えた。


「残しておけばいいんじゃないか」


「捨てないの?」


「まだ捨てる理由もない」


劉はうなずいた。


午後、息子からメッセージが来た。


「今日は仕事が早く終わった」


周は、


「そうか。少し休め」


と返した。


しばらくして、


「父さんは?」


「こっちは雨」


「風邪ひかないで」


「分かってる」


そこまで打って、周は一度手を止めた。


昔なら、


「お前も気をつけろ」


とだけ返していた。


今回は少し考えてから、


「心配してくれてありがとう」


と送った。


息子からすぐには返事が来なかった。


十分ほどして、


「うん」


とだけ返ってきた。


周は携帯を置いた。


それだけだった。


特別なことではない。


何かが大きく変わったわけでもない。


ただ、今まであまり言わなかった言葉を、一つ言った。


夕方、雨が少し弱くなった。


周は庭に出た。


苗の葉に水滴が残っている。


指で触れると、冷たい水が落ちた。


後ろから劉が来た。


「濡れるよ」


「もう濡れてる」


「風邪ひくよ」


「分かってる」


劉は笑った。


「最近、そればっかりだね」


「何が?」


「『分かってる』って」


周も笑った。


「本当に分かってるからな」


二人は家の中へ戻った。


玄関で周は靴を脱いだ。


そのとき、ふと昔の自分を思い出した。


何かを言えば、相手も分かると思っていた。


言わなくても、相手は分かっていると思っていた。


謝らなくても、時間が経てば普通に戻ると思っていた。


実際、それで生活は続いてきた。


けれど、続いてきたことと、何も残らなかったことは同じではない。


周はそのことを、少しずつ考えるようになっていた。


夕食のあと、劉が写真の箱を棚に戻した。


「これは、まだ捨てないでおくね」


「うん」


「いつか息子に見せる?」


「見せたいなら見せればいい」


「あなたは?」


「俺は……」


周は少し考えた。


「そのときになったら考える」


劉は何も言わなかった。


家の中は静かだった。


外では、雨がまた降り始めていた。

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