第六十七章 何もなかったように
三月の初め、風が少し暖かくなった。
周は朝から庭に出ていた。
先月掘った土の横に、小さな苗を二つ置いている。
劉が玄関から出てきた。
「結局、これにしたの?」
「店の人が、今植えても大丈夫だって」
「何の花?」
「名前は聞いたけど、忘れた」
劉は苗の札を見た。
「ちゃんと書いてあるじゃない」
「字が小さい」
「老眼鏡は?」
「家の中」
「じゃあ取ってくればいいのに」
周は笑った。
「そこまでしなくても分かるだろ」
「分からないなら、調べればいいのに」
「そうだな」
結局、劉が老眼鏡を持ってきた。
二人で札を読んだ。
小さな花の名前だった。
周は名前を覚えようとしたが、植え終わるころにはもう忘れていた。
昼前、電話が鳴った。
息子だった。
「父さん、今度の日曜なら行ける」
「そうか」
「今度は大丈夫だと思う」
「分かった」
「この前、行けなくなってごめん」
「仕事なら仕方ない」
「うん」
少し間があった。
「母さんに代わって」
周は劉に電話を渡した。
劉は息子と話しながら、台所の冷蔵庫を開けた。
「何食べたい?」
「何でもいいよ」
「何でもいいって一番困るのよ」
電話の向こうから笑い声が聞こえた。
「じゃあ、魚」
「また魚?」
「好きだから」
「分かった」
電話が終わった。
劉は冷蔵庫を閉めた。
「魚だって」
「本人がそう言ったならいいだろ」
「あなたも好きでしょう」
「俺は何でもいい」
「それも困るんだよ」
二人は笑った。
その日の午後、周は市場へ行った。
帰り道、王の家の前を通ると、玄関先に王が立っていた。
「周さん」
「どうした?」
「ちょっと手伝ってくれ」
王は物置から古い棚を出していた。
「これ、捨てるんだ」
周も棚を持った。
二人で家の外まで運んだ。
棚はかなり古かった。
「これ、娘が小さいときに使ってたんだ」
王が言った。
「まだ持ってたのか」
「ずっと置いてた」
「今は?」
「もう使わない」
王は棚を見た。
「この前、娘が来てさ。『これ、もう捨ててもいいよ』って」
周は何も言わなかった。
「俺は最初、残しておこうと思ったんだ」
「思い出だから?」
「そう」
王は少し笑った。
「でも、娘に『もう使わないものを置いておく場所も、家の場所だから』って言われた」
周も笑った。
「それはそうだな」
「だから捨てることにした」
棚は粗大ごみの日まで、家の横に置かれることになった。
二人は玄関先でお茶を飲んだ。
王が言った。
「娘とは、あれから普通に話してる」
「そうか」
「前の喧嘩のことは、まだ話してない」
「そうか」
「でも、この前、娘が飯を作ってくれた」
周は笑った。
「それなら、いいじゃないか」
王は少し考えた。
「普通に戻っただけなんだけどな」
「普通に戻ることもあるだろ」
「そうだな」
王は湯飲みを見た。
「ただ、あのときのことがなくなったわけじゃないんだよな」
周は答えなかった。
しばらくして、
「そうだな」
と言った。
二人はそれ以上話さなかった。
夕方、周が家に戻ると、劉が掃除をしていた。
「何してたの?」
「王さんの棚を運ぶのを手伝ってた」
「まだ古いもの持ってたの?」
「今日捨てるって」
劉は笑った。
「うちにもあるよ」
「何が?」
「あなたが捨てられないもの」
「俺はそんなにない」
「あるよ」
劉は棚の上を指差した。
そこには、古い工具箱があった。
周は見た。
「それは使う」
「いつ?」
「必要になったら」
「何年も使ってないでしょう」
「工具だから」
劉は何も言わずに掃除を続けた。
夜になった。
周は工具箱を開けた。
中には古いドライバーやペンチが入っていた。
確かに、ほとんど使っていない。
それでも、周はすぐには捨てられなかった。
翌日、息子が来る予定だった。
劉は朝から魚を買いに出た。
周は庭に出て、先月植えた苗を見た。
まだ小さい。
葉も少ない。
水をやっていると、携帯電話が鳴った。
今度は息子ではなかった。
昔の仕事仲間だった。
「久しぶり」
「どうした?」
「今度こっちに来ることになった。時間があったら飯でも食わないか」
周は少し考えた。
「いいよ」
「じゃあ、また連絡する」
「分かった」
電話が切れた。
周はホースを置いた。
人は、何かが起きたあとでも、また普通に話すことがある。
何も説明しないまま。
何も謝らないまま。
何も忘れていないまま。
それでも、次の日には仕事に行き、飯を食べ、電話をし、買い物をする。
周は庭の苗を見た。
まだ名前を覚えていない。
それでも、昨日より少しだけ葉が開いていた。




