第六十四章 言わなかったこと
年が明けてしばらくして、周は昔のことを思い出していた。
きっかけは、特別な出来事ではなかった。
朝、劉が棚の奥から古い薬箱を取り出した。
「これ、まだあるんだね」
「何が?」
「昔の薬」
周は箱を受け取った。
中には、何年も前に病院でもらった薬の袋がいくつか入っていた。
「もう捨ててもいいだろ」
「そうだね」
劉は袋を一つずつ確認した。
そのとき、周がふと笑った。
「前にもこういうの、あったな」
「何が?」
「俺が風邪をひいたとき、お前が薬を間違えて買ってきたこと」
劉は少し考えた。
「そんなことあった?」
「あったよ」
「覚えてない」
「俺は覚えてる」
二人は笑った。
薬の袋はゴミ箱に入った。
その日の午後、周は近所の小さな食堂に入った。
入口の近くに、王が座っていた。
「周さん、こっち」
周は隣に座った。
「最近どう?」
「まあまあだよ」
王は湯飲みを手にした。
「この前、娘と喧嘩した」
「また?」
「またって言うなよ」
二人とも笑った。
王はしばらく黙っていた。
「俺、昔からあまり謝らないんだよな」
周は王を見た。
「何かあったのか?」
「娘に言われたんだ。『お父さん、一回も自分が悪かったって言わないよね』って」
「何て答えた?」
「何も言えなかった」
王は湯飲みを置いた。
「考えてみたら、本当に言ってないんだよ」
周は黙って聞いていた。
「別に、俺が全部正しいと思ってるわけじゃない。でも、わざわざ口にする習慣がないんだよな」
「昔から?」
「たぶん」
王は外を見た。
「俺の親父もそうだった」
しばらく二人とも話さなかった。
食堂の奥で、皿を洗う音がしていた。
「それで、娘には何て言ったんだ?」
周が聞いた。
「その日は何も言わなかった」
「今は?」
「まだ言ってない」
周はうなずいた。
王は苦笑した。
「情けないよな」
「そういう人もいるだろ」
「周さんも?」
周は少し考えた。
「俺も、言ってないことはあるよ」
王は笑った。
「だろ?」
二人はそれ以上話さなかった。
夕方、周が家に戻ると、劉が夕食の準備をしていた。
「今日、王さんに会った」
「何か言ってた?」
「娘と喧嘩したって」
劉は鍋の中をかき混ぜながら、
「親子って、いろいろあるね」
と言った。
「うん」
「昔のことって、忘れたつもりでも、子どもは覚えてるのかな」
周は少し考えた。
「覚えてるんじゃないか」
「そうだね」
劉はそれ以上聞かなかった。
夕食のあと、周は古い椅子に座った。
息子がまだ小さいころに使っていた椅子だった。
背もたれには、小さな傷が残っている。
周はその傷を指でなぞった。
昔、自分が息子に強く言ったことを思い出した。
何かを壊したとき。
試験の成績が悪かったとき。
自分の言ったことを聞かなかったとき。
そのとき、自分は何を考えていたのか。
心配だった。
失敗してほしくなかった。
自分より苦労してほしくなかった。
そういう気持ちは、確かにあった。
けれど、それだけだったのか。
周には、もう分からなかった。
携帯電話が鳴った。
息子からだった。
「父さん、起きてる?」
「起きてるよ」
「今度、そっちに行けるかもしれない」
「そうか」
「まだ予定だけど」
「分かった」
少し話したあと、息子が言った。
「そういえば、昔のことなんだけど」
周は黙って聞いた。
「高校のとき、一回だけ、俺が数学のことで怒られたの覚えてる?」
周は思い出した。
「覚えてる」
「俺、あのとき結構嫌だったんだよ」
「そうか」
周はしばらく黙った。
そして、
「そうだったのか」
と言った。
息子も少し黙った。
「うん」
それだけだった。
周は、
「悪かったな」
と言いかけた。
しかし、言葉が途中で止まった。
何と言えばいいのか分からなかった。
昔のことを、今さら一言で片付けられるとも思わなかった。
息子も何も求めなかった。
「じゃあ、また連絡する」
「うん」
電話が終わった。
周はしばらく携帯電話を持ったまま座っていた。
謝るというのは、ただ一言言えば終わることではないのかもしれない。
だからといって、何も言わなければいいわけでもない。
周にはまだ分からなかった。
その夜、周は椅子を元の場所に戻した。
古い傷は、そのまま残っていた。




