第五十七章 借りる家
秋が深くなっていた。
朝晩は少し冷えるようになり、周は出かけるときに薄い上着を羽織るようになった。
その朝、劉は台所で朝食を作っていた。
「今日は買い物に行く?」
「昼からでいいだろ」
「卵がないよ」
「じゃあ、昼に買えばいい」
劉は冷蔵庫を開けて、中をもう一度見た。
「牛乳もない」
「じゃあ、一緒に買ってくるか」
「うん」
それだけの会話だった。
以前なら、朝から近所の誰かの話をしていたかもしれない。
誰が家を買ったとか、誰の子どもが結婚したとか、誰の息子が仕事を辞めたとか。
最近は、そういう話をすることが少し減っていた。
なくなったわけではない。
ただ、聞いた話をそのまま自分たちの生活に重ねることが少なくなった。
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昼前、周と劉は近くの市場へ出かけた。
帰り道、李と会った。
李は自転車を押していた。
「買い物か?」
「そうだ」
「最近、朝晩冷えるな」
「もうすぐ冬だな」
三人は道端で少し話した。
李の甥の話になった。
「この前言ってた家、どうなった?」
周が聞いた。
「まだ買ってないよ」
李が笑った。
「結局、もう少し考えるって」
「そうか」
「今のところ、二人とも仕事は続いてるし、急いで買う必要もないって」
「それなら、それでいいんじゃないか」
李はうなずいた。
「俺もそう思うようになった」
少し前なら、李は違うことを言っていたかもしれない。
若いうちに家を買ったほうがいい。
家があれば安心だ。
家族ができたら家が必要だ。
そういう言葉を何度も口にしていた。
今でも、そう思う部分は残っている。
ただ、それを相手の生活にそのまま当てはめることはしなくなった。
「じゃあ、またな」
「またな」
三人は別れた。
李は自転車を押して家へ戻り、周と劉は買い物袋を持って歩いた。
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その日の夕方、張の家では電話が鳴った。
張の息子からだった。
「今、帰ったのか?」
『うん。今日は早い』
「仕事はどうだ?」
『普通だよ』
「この前言ってた金は?」
『もう大丈夫』
「そうか」
張はそれ以上聞かなかった。
少し前なら、
今月はいくら残っているのか。
来月はどうするのか。
仕事は続けるのか。
車は売らないのか。
いろいろ聞いていた。
今日は聞かなかった。
電話の向こうで息子が言った。
『父さん』
「ん?」
『この前、ありがとう』
「何が」
『金を貸してくれたこと』
「貸したんじゃない。困ったときは使えばいい」
『でも、返すよ』
「急がなくていい」
少し沈黙があった。
『うん』
「じゃあ、仕事があるから切るぞ」
『うん。また電話する』
電話が終わった。
張はスマートフォンを机の上に置いた。
妻が聞いた。
「息子?」
「うん」
「何だって?」
「もう大丈夫だって」
「そう」
それだけだった。
二人は夕食の準備を始めた。
⸻
夜、周の家にも電話がかかってきた。
息子だった。
「もしもし」
『今、いい?』
「ああ」
『来月、そっちに行けるかもしれない』
「そうか」
『まだ仕事の予定が決まってないけど』
「決まったら教えてくれればいい」
『うん』
周は少し考えた。
「飯は何がいい?」
電話の向こうで息子が笑った。
『何でもいいよ』
「何でもって、一番困るんだぞ」
『じゃあ、魚』
「魚か」
『うん』
「分かった」
電話を切った。
劉が台所から顔を出した。
「帰ってくるの?」
「来月、来るかもしれないって」
「何食べたいって?」
「魚」
劉は少し笑った。
「じゃあ、魚にしようか」
「そうだな」
それ以上の話はしなかった。
⸻
その夜、周は寝る前に古い机を見た。
息子が小さいころに使っていたものだった。
今は引き出しの一つに工具が入っている。
机の上には、劉が買った裁縫道具も置いてあった。
息子の部屋だった場所は、もう息子だけの部屋ではない。
それでも、そこがなくなったわけではなかった。
周は引き出しを閉めた。
「寝るぞ」
劉が言った。
「ああ」
二人は電気を消した。
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翌朝。
張の息子は仕事に向かっていた。
李の甥は、借りている部屋で朝食を食べていた。
陳の娘は大学へ向かう電車の中で、スマートフォンを見ていた。
周の息子は、少し早めに家を出た。
それぞれが違う場所で、それぞれの一日を始めていた。
誰かは親と連絡を取り、誰かはしばらく連絡を取らず、誰かはこれから話すことを考えていた。
同じ家族でも、同じ生活をしているわけではない。
同じ世代でも、同じ道を歩いているわけではない。
それでも、朝になれば仕事へ行き、学校へ行き、買い物をして、帰る場所へ帰っていく。
その日も、特別なことは何も起こらなかった。
町にはいつものように人がいて、店が開き、車が走っていた。
それぞれの暮らしは、それぞれの場所で続いていた。




