第五十六章 それぞれの選択
秋が深くなったころ、李の家に一人の若い夫婦が来た。
李の妻の甥だった。
二人は結婚して二年ほどになる。子どもはいない。今は二人とも働いていて、同じ町のアパートを借りて暮らしていた。
その日、二人は李の家で夕食を食べていた。
食事の途中で、男が言った。
「そろそろ家を買おうかと思ってる」
李は箸を止めた。
「買うのか」
「うん。会社の近くで探してる」
李は少し考えてから聞いた。
「金は足りるのか」
「頭金は少しある。あとはローンになると思う」
李の妻が口を挟んだ。
「今の家賃ももったいないからね」
男の妻は黙ってご飯を食べていた。
李が聞いた。
「お前たちは、もう決めたのか?」
「まだ。二人で話してるところ」
「そうか」
それ以上、李は何も言わなかった。
以前なら、
「若いうちに買ったほうがいい」
とか、
「家は持っておいたほうが安心だ」
と言っていたかもしれない。
けれど、今の李には、家を買ったあとに毎月いくら払うことになるのか、二人の仕事が何年続くのか、これからどこで暮らしたいのかまでは分からなかった。
食事が終わると、二人はスマートフォンで物件を見始めた。
駅から徒歩十五分。
築二十年。
三階建ての二階。
写真には、明るいリビングが写っていた。
「これなら今より広いね」
妻が言った。
「でも、管理費もある」
男が画面を指で動かした。
「こっちは少し安いけど、駅から遠い」
二人はしばらく画面を見ていた。
李は隣でお茶を飲んでいた。
昔なら、横から口を出していたかもしれない。
しかし、その日は何も言わなかった。
帰り際、男が李に言った。
「叔父さん、もし買うことになったら、少し相談してもいい?」
「ああ。分かることならな」
「ありがとう」
二人が帰ったあと、李の妻が言った。
「結局、家を買うのかね」
「まだ分からないだろ」
「でも、買ったほうが安心じゃない?」
李は少し考えた。
「安心かどうかも、人によるんじゃないか」
妻は黙った。
しばらくして、台所から水の流れる音がした。
⸻
数日後、周の家にもその話が伝わってきた。
劉が夕食の準備をしながら言った。
「李さんの甥、家を買うらしいよ」
「そうか」
「若いのに、ローンを組むんだって」
周はご飯をよそいながら聞いた。
「本人たちはどう考えてるんだ?」
「さあ。そこまでは知らない」
「じゃあ、まだ分からないな」
劉は少し笑った。
「最近、あんた、すぐそう言うね」
「何が」
「分からないって」
「分からないことは分からないだろ」
そう言って、周は箸を取った。
しばらく二人で食べていると、周のスマートフォンが鳴った。
息子からだった。
「もしもし」
『今、帰ったところ』
「仕事か?」
『うん。今日は少し遅くなった』
「飯は?」
『食べた』
「そうか」
短い会話だった。
以前なら、周は仕事のことをもっと聞いていた。
給料はいくらなのか。
会社は大丈夫なのか。
家はどうするのか。
結婚は考えているのか。
最近は、そういうことを一度に聞かなくなった。
電話の向こうで、息子が言った。
『そういえば、今の部屋、来年契約が切れるんだ』
「引っ越すのか?」
『まだ決めてない。少し広いところにするかもしれない』
「そうか」
『家を買うことも考えたけど、今はまだいいかなと思ってる』
周は少し黙った。
「お前がそう思ってるなら、それでいいんじゃないか」
『うん。もう少し貯金してから考える』
「そうしたらいい」
電話を切ったあと、周はスマートフォンをテーブルの上に置いた。
劉が聞いた。
「家を買わないんだって?」
「今は買わないらしい」
「もったいないね。家賃を払うくらいなら……」
劉はそこまで言って、口を止めた。
周も何も言わなかった。
二人の間に、しばらくテレビの音だけが流れていた。
⸻
翌週、周は銀行に用事があって町へ出た。
帰りに、昔から知っている人に会った。
張だった。
張は以前より少し痩せていた。
「最近どうだ?」
周が聞くと、張は笑った。
「まあ、普通だよ」
二人は近くの店でお茶を飲んだ。
話しているうちに、張が言った。
「うちの息子、最近また金が足りないって言ってきたよ」
「仕事は?」
「働いてる。けど、車のローンと家賃があるからな」
「そうか」
「自分で生活すると言ってたのに、結局こっちに頼ってくる」
張は少し不満そうだった。
「いくら渡したんだ?」
「今回は五千元だけ」
周は黙って聞いた。
張は続けた。
「別に渡せない金じゃない。でも、毎回こうだと、いつまで続くのかと思う」
「息子には言ったのか?」
「言ったよ。自分で考えろって」
張はそう言ってから、少し笑った。
「でも、結局また渡した」
「そうか」
「お前ならどうする?」
周はすぐには答えなかった。
昔なら何か言えたかもしれない。
しかし、今は人の家のことを簡単には言えなかった。
「分からないな」
張が笑った。
「またそれか」
「人それぞれだろ」
「そうだな」
二人はお茶を飲んだ。
張の息子が自分で生活したいと思っていることも、親に頼っていることも、どちらも事実だった。
張も、助けたいと思う気持ちと、いつまでも助けたくないという気持ちを同時に持っていた。
その二つは、必ずしも一つに決められるものではなかった。
⸻
その夜、張は家に帰ってから息子に電話した。
「この前の金、使ったか?」
『うん』
「今月はもう大丈夫か?」
『たぶん』
「たぶんじゃ分からないだろ」
少し間があった。
『分からない』
張は何か言おうとした。
けれど、そこでやめた。
「じゃあ、また足りなくなったら言え」
『うん』
電話が切れた。
張は財布を開いた。
中には銀行のカードと、少しの現金が入っていた。
机の上には、息子が送ってきた写真が一枚置いてあった。
去年、一緒に食べた食事の写真だった。
張はそれをしばらく見てから、財布を閉じた。
⸻
同じころ、周の家では、劉が洗った皿を拭いていた。
周は居間でテレビを見ていた。
「ねえ」
「ん?」
「もし息子が、またお金が必要になったらどうする?」
周はテレビを見たまま答えた。
「必要なら相談してくればいいだろ」
「いくらでも?」
「いくらでも、とは言ってない」
劉は笑った。
「そうだね」
周も少し笑った。
「出せるかどうかは、そのとき考えればいい」
皿を拭き終えた劉は、食器棚を閉めた。
外はもう暗くなっていた。
窓の向こうでは、向かいの家の明かりが一つずつ消えていった。
周はテレビの音を少し小さくした。
明日の朝も、いつもの時間に起きる。
息子は息子の部屋で起きる。
それぞれの家で、それぞれの生活が続いていく。




