第五十三章 家を出たあと
春が来た。
周の家の前を通る道では、朝から自転車に乗る人が増えていた。
近所の工事も始まった。
古い家を壊して、新しい家を建てるらしい。
周は毎朝、その前を通って市場へ行った。
ある日、工事現場の前に立っていると、李がやって来た。
「また見てるのか?」
「毎日少しずつ変わるからな。」
「自分の家みたいだな。」
「そんな金はないよ。」
二人で笑った。
しばらくして、李が言った。
「息子が引っ越した。」
「結婚した息子?」
「そう。」
「遠いのか?」
「電車で二時間くらい。」
「結構遠いな。」
「最初は寂しかったよ。」
周は何も言わなかった。
「でも、毎日家にいてもらうわけにもいかないからな。」
「そうだな。」
「嫁さんも仕事があるし、息子も仕事がある。」
李は工事現場を見ながら続けた。
「家を出たら、親子じゃなくなるわけじゃない。」
「うん。」
「でも、同じ家にいる時とは違うな。」
周はうなずいた。
「それはそうだ。」
⸻
その日の午後、周は李の家へ行った。
以前息子が使っていた部屋は、もう片付けられていた。
ベッドは残っている。
机も残っている。
ただ、壁に貼ってあった写真や紙はなくなっていた。
「全部持っていったのか?」
「必要なものだけ。」
李は笑った。
「最初は部屋をそのままにしておこうと思った。」
「そうだろうな。」
「でも、妻が言ったんだ。」
「何て?」
「いつ帰ってくるか分からないのに、ずっと待ってる部屋にしておく必要はないって。」
周は部屋を見た。
「それで?」
「机を孫……じゃない、甥に貸そうかと思ってる。」
「甥?」
「近所の子が受験勉強するんだ。」
「そうか。」
部屋は少しずつ変わっていた。
誰かが出ていくと、家の中にも空いた場所ができる。
その場所をそのまま残す家もある。
別の用途に使う家もある。
李は机の上を拭いた。
「でもな。」
「何?」
「息子が帰ってきたら、また使える。」
「そうだな。」
「だから捨てる必要もない。」
周は笑った。
「そういうことだな。」
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夕方、周が家に帰ると、劉が庭にいた。
「どこ行ってたの?」
「李さんのところ。」
「何してたの?」
「息子さんの部屋を見てきた。」
劉は少し黙った。
「うちも片付けたね。」
「うん。」
「昔は、あの部屋をそのままにしておこうと思ってた。」
「俺も。」
「でも、今は物置になってる。」
周は笑った。
「物置じゃないだろ。」
「じゃあ何?」
「半分物置。」
劉も笑った。
家の中には、息子が昔使っていた机が残っている。
古い教科書も何冊かある。
もう使わないものも多い。
けれど、全部を捨てる必要もない。
必要なものは残し、必要のないものは片付ける。
それだけだった。
⸻
夜、息子から電話が来た。
「父さん、今いい?」
「いいぞ。」
「来月、休み取れそう。」
「帰ってくるのか?」
「うん。一泊だけ。」
「分かった。」
「母さん、いる?」
「いる。」
周は劉に電話を渡した。
「もしもし?」
劉の声が少し明るくなった。
「何食べたい?」
息子が何か言った。
「また魚?」
劉は笑った。
「分かった。じゃあ魚にする。」
電話が終わった。
「魚だって。」
周が言った。
「あなたが好きなんでしょ。」
「俺じゃないだろ。」
「じゃあ誰?」
「さあな。」
二人で笑った。
⸻
その夜、周は一人で庭に出た。
昔、息子がまだ小さかった頃は、この家の中に物が少なかった。
子どもの服。
学校のかばん。
教科書。
食器。
仕事道具。
必要なものを一つずつ買っていった。
子どもが大きくなるにつれて、物も増えた。
そして、家を出る時には、物の多くがまた減った。
家族が一緒に暮らす時間も、ずっと同じではない。
増える時期があり、減る時期がある。
周は庭の椅子に座った。
スマートフォンを見ると、息子からメッセージが来ていた。
「来月、帰る。」
周は短く返した。
「分かった。気をつけて。」
送信したあと、スマートフォンをポケットに入れた。
家を出た人が、家を忘れるわけではない。
家に残った人も、出ていった人の生活を全部知ることはできない。
それでも、帰る日があれば、また同じ食卓を囲む。
帰らない日は、それぞれの場所で生活する。
周にとって、その距離は、以前ほど不安なものではなくなっていた。
家の中には、まだ息子の椅子がある。
けれど、その椅子が空いていることを、毎日気にする必要はなかった。
夜になった。
周は庭の電気を消して、家の中へ戻った。




