第五十章 帰ってくる人
夏が近づいていた。
周は朝から庭の草を取っていた。
日差しはまだ強くなかったが、少し動くと汗が出た。
昼前、息子から電話が来た。
「父さん、今度の日曜日、帰る。」
「そうか。」
「一泊する。」
「分かった。」
周は少し考えてから聞いた。
「何かあるのか?」
「別に。たまには帰ろうと思って。」
「そうか。」
「母さん、いる?」
「いる。」
「代わって。」
周は家の中へ入った。
「劉、電話。」
劉は手を拭いて、スマートフォンを受け取った。
「もしもし?」
声を聞いた瞬間、顔が少し明るくなった。
「日曜日?」
「うん。」
「じゃあ、何食べたい?」
電話の向こうから何か聞こえた。
「何でもいい?」
劉は笑った。
「それが一番困るんだよ。」
周は隣で聞いていた。
「魚にする?」
劉が聞いた。
息子が何か答えた。
「じゃあ、魚にしよう。」
電話が終わった。
「魚だって。」
「聞こえてた。」
「じゃあ、日曜日買ってこよう。」
「土曜日に買えばいいだろ。」
「新しいほうがいいじゃない。」
周は笑った。
⸻
日曜日の昼前、息子が帰ってきた。
手には小さなバッグしかなかった。
「ただいま。」
「おう。」
周は玄関まで出た。
「疲れたか?」
「大丈夫。」
「朝飯食った?」
「食べた。」
「じゃあ、昼まで少し休め。」
「うん。」
昔なら、帰ってきた途端にいろいろ聞いていた。
仕事はどうだ。
給料はどうだ。
会社の人はどうだ。
いつ結婚する。
家はどうする。
今後どうする。
けれど、今日は何も聞かなかった。
息子は居間に座り、昔使っていた椅子を見た。
「まだあるんだ。」
「捨てるのも面倒だからな。」
「そう。」
息子は笑った。
机の上には、昔使っていた鉛筆削りが置かれていた。
「これも?」
「それは母さんが置いてる。」
「まだ使える?」
「たぶん。」
息子は手に取った。
しばらく眺めてから、元の場所へ戻した。
「懐かしい。」
周は何も言わなかった。
⸻
昼食の時、三人で魚を食べた。
劉は何度も息子の皿に料理を入れようとした。
「自分で取るよ。」
「いいから。」
「母さん、俺もう子どもじゃないよ。」
「知ってる。」
そう言いながら、劉はまた魚を取った。
周が笑った。
「何笑ってるの?」
「いや。」
「何よ。」
「昔と同じだなと思って。」
劉は少し笑った。
「帰ってきた時くらい、いいじゃない。」
「そうだな。」
食事が終わると、息子は食器を片付け始めた。
「置いとけばいい。」
「いいよ。自分の分くらいやる。」
劉は何も言わずに台所を空けた。
周はその様子を見ていた。
昔なら、
「客なんだから座ってろ」
と言っていたかもしれない。
けれど今は言わなかった。
息子は皿を洗い、布巾で手を拭いた。
「母さん、これどこ?」
「そこ。」
「分かった。」
それだけだった。
⸻
午後、息子は近所を歩きたいと言った。
周も一緒に出た。
二人で並んで歩いた。
「父さん、最近どう?」
「普通だ。」
「腰は?」
「前よりいい。」
「病院は?」
「行ってる。」
「薬は?」
「飲んでる。」
息子はそれ以上聞かなかった。
少し歩いてから、
「俺、来月また出張になるかもしれない。」
と言った。
「そうか。」
「しばらく帰れないかも。」
「分かった。」
「母さんに言っておいて。」
「自分で言えばいいだろ。」
「帰ってから言う。」
周は笑った。
「そうしろ。」
しばらく歩いた。
息子が言った。
「父さん、昔よりあんまり聞かなくなったね。」
「そうか?」
「うん。」
「聞いても分からないことが増えたからな。」
息子は少し笑った。
「俺も、自分で分からないこと多いよ。」
「それでいいんじゃないか。」
「そうかな。」
「分からないなら、考えればいい。」
周は前を向いた。
「急いで決めなくてもいいこともある。」
息子は黙って歩いた。
やがて、昔よく遊んでいた空き地の前を通った。
今は小さな建物が建っている。
「ここ、昔何もなかったよね。」
「そうだったな。」
「時間経つの早いね。」
「そうだな。」
二人はそれ以上話さなかった。
⸻
夕方、息子が帰る時間になった。
劉は残った料理を袋に入れた。
「これ持っていきなさい。」
「多いよ。」
「会社で食べればいい。」
「分かった。」
周は玄関で靴を履く息子を見ていた。
「気をつけて帰れよ。」
「うん。」
「着いたら連絡しろ。」
「分かった。」
息子は外へ出た。
少し歩いてから振り返った。
「じゃあ、また。」
「おう。」
門が閉まった。
劉はしばらく玄関に立っていた。
「行ったね。」
「ああ。」
「次はいつ帰ってくるかな。」
周は少し考えた。
「分からない。」
劉もそれ以上聞かなかった。
二人は家の中へ戻った。
食卓には、昼に使った皿がまだ一枚だけ残っていた。
周がそれを片付けた。
家はまた二人になった。
けれど、息子が帰ってきたことで何かが変わったわけでもなかった。
帰ってきた日があり、帰らない日がある。
電話をする日もあれば、しない日もある。
それぞれに仕事があり、それぞれの生活がある。
周はそのことを考えながら、台所の電気を消した。
外はまだ明るかった。




