第四十九章 仕事を辞める日
春になった。
周の家の前にある木にも、小さな葉が出始めていた。
ある日の夕方、張がやって来た。
玄関に入るなり、ため息をついた。
「どうした?」
周が聞いた。
「息子が仕事を辞めた。」
周は少し黙った。
「前に言ってた仕事か?」
「そう。」
張は椅子に座った。
「三か月しか続かなかった。」
「何があった?」
「会社が悪いのか、息子が悪いのか、俺には分からない。」
周はお茶を入れた。
「本人は何て言ってる?」
「合わなかったって。」
「それだけ?」
「それだけ。」
張は湯呑みを持ったまま、しばらく黙っていた。
「俺は、もう少し我慢してもいいと思うんだ。」
「そうか。」
「三か月じゃ何も分からないだろ。」
「そうかもしれない。」
「でも、本人はもう辞めた。」
周はうなずいた。
「じゃあ、今は辞めた後のことを考えるしかないな。」
張は苦笑した。
「周さん、そういうところ変わったよな。」
「俺が?」
「前なら、『辞めるな』って言ってたんじゃないか?」
周は少し考えた。
「たぶんな。」
「今は?」
「今も心配だよ。」
「でも言わない。」
「言っても、もう辞めたからな。」
張は笑った。
「それもそうだ。」
⸻
その夜、周は息子に電話した。
「今、話せるか?」
「うん。」
「張さんの息子、仕事辞めたらしい。」
「そうなんだ。」
「お前も、前に辞めたことあっただろ。」
「あるね。」
「その時、何考えてた?」
息子は少し黙った。
「よく覚えてないけど、もう続けられないと思った。」
「そうか。」
「父さん、あの時はかなり心配してたよね。」
「してた。」
「電話も多かった。」
「そうだったな。」
二人とも笑った。
「今思えば、あの時もう少し自分で考えたかった。」
「そうか。」
「でも、父さんが心配してたのも分かってた。」
周は黙った。
それは、以前なら少し引っかかった言葉だった。
今は、その二つが同時に存在していてもいいと思えた。
「じゃあ、今度は俺も気をつける。」
「何を?」
「電話しすぎない。」
息子が笑った。
「それは助かる。」
「でも、何かあったら言えよ。」
「うん。」
電話を切った。
⸻
数日後、張の息子が周の家に来た。
「叔父さん、父さんから聞いた。」
「何を?」
「俺が仕事辞めたこと。」
「そうか。」
「父さん、かなり心配してる。」
「そうだろうな。」
「でも、俺も考えてる。」
「何を?」
「次の仕事。」
「もう決まったのか?」
「まだ。」
「そうか。」
周はそれ以上聞かなかった。
男は少し驚いたような顔をした。
「聞かないんですか?」
「聞いても、まだ決まってないんだろ?」
「はい。」
「じゃあ、決まってから聞けばいい。」
男は笑った。
「父さんと全然違う。」
「俺も昔は同じだったよ。」
「そうなんですか?」
「うん。」
周は湯呑みにお茶を注いだ。
「親になると、いろいろ聞きたくなるんだ。」
男はお茶を受け取った。
「分かります。」
二人はしばらく話した。
仕事のことだけではなかった。
家賃。
通勤時間。
給料。
貯金。
友人。
将来のこと。
けれど、どれもその場で答えを出す話ではなかった。
帰る前に、男が言った。
「また仕事が決まったら、話します。」
「うん。」
「その時、聞いてください。」
周は笑った。
「分かった。」
玄関を出ていく背中を、周はしばらく見ていた。
そして扉を閉めた。
家の中に戻ると、劉が聞いた。
「誰だったの?」
「張さんの息子。」
「仕事辞めた子?」
「そう。」
「次、決まった?」
「まだ。」
「大丈夫かな。」
周は少し考えた。
「さあ。」
劉も何も言わなかった。
夕方の台所から、鍋の音が聞こえた。
その音を聞きながら、周は窓の外を見た。
春になっても、仕事が決まるとは限らない。
仕事を辞めても、すぐに次が見つかるとは限らない。
それでも、人は次の日になると起きる。
朝になれば、求人を見る人もいる。
履歴書を書く人もいる。
何もしない日を過ごす人もいる。
そして、また何かを始める人もいる。
周には、その一つ一つを決めることはできなかった。
できるのは、帰ってきた時にお茶を出すことくらいだった。




