第五章 よその子ども
子どもが三歳を過ぎると、家の中の声が少しずつ増えていった。
それまでは、食事のときに話すのは二人だけだった。
それが、いつの間にか、食卓にもう一つ小さな声が加わった。
ちゃんと聞き取れることもあれば、何を言っているのか分からないこともあった。
劉が聞く。
「今日は幼稚園で何したの?」
子どもは一生懸命に話す。
しばらく聞いても、結局何の話なのか分からない。
周が横から聞く。
「本当か?」
子どもは頷く。
「うん。」
周も頷いた。
「そうか。」
そんなふうに、毎日が過ぎていった。
子どもが幼稚園へ通うようになると、朝は少し早くなった。
劉が子どもの服を着せる。
周がお湯を沸かす。
ときどき、そのことでも二人は言い合った。
「その服、昨日洗ったんじゃなかった?」
「まだ乾いてないの。」
「じゃあ、別のを着ればいい。」
「別のは小さくなった。」
「もう小さいのか?」
「この子が大きくなったの。」
周は何も言わなかった。
子どもを見る。
確かに、服の丈が少し短くなっていた。
夜、周が仕事から帰ってくる頃には、子どもはもう眠っていることが多かった。
周はベッドの横に立って、しばらく寝顔を見る。
劉は服を畳んでいた。
「今日、先生は何か言ってた?」
「幼稚園では大人しいって。」
「ほかには?」
「それだけ。」
周は頷いた。
少ししてから、また聞いた。
「飯はちゃんと食べた?」
「まあね。」
「好き嫌いは?」
「少しある。」
「男の子なんだから、何でも食べないとな。」
劉が周を見る。
「まだ三歳だよ。」
「小さいうちから慣れさせたほうがいい。」
劉は何も言わなかった。
周も、それ以上は言わなかった。
その頃には、そんな会話は特別なものではなかった。
ある日、周が仕事から帰ってくると、机の上に一枚の紙が置いてあった。
そこには、子どもが書いた数字がいくつか並んでいた。
少し曲がっている。
周は紙を手に取った。
「これ、誰が書いた?」
子どもが走ってきた。
「僕。」
「お前が書いたのか?」
「うん。」
周は紙を見る。
「これは?」
子どもが一つの数字を指差した。
「一。」
「じゃあ、これは?」
子どもはしばらく考えた。
答えない。
周がもう一度聞いた。
「これ、何だ?」
子どもは黙ったままだった。
周は少し眉を寄せた。
「教えたことあるだろ。」
劉が台所から出てきた。
「まだ習い始めたばかりじゃない。」
周は紙を机の上に置いた。
「分かってる。」
子どもはその場に立っていた。
しばらくすると、ゆっくりその場を離れた。
劉は周を見る。
「帰ってきて、いきなり勉強のこと聞かなくてもいいでしょう。」
「何も言ってない。」
「顔に出てるよ。」
周は自分の顔を触った。
「そんなに?」
「うん。」
食事のとき、周はまた子どもに聞いた。
「今日は何を習った?」
「分からない。」
「どうして分からないんだ?」
劉が言った。
「まだ幼稚園だよ。」
周は何も言わなかった。
下を向いて食べる。
しばらくして、周が言った。
「これからは、ちゃんと勉強させないとな。」
劉は箸を動かしながら答えた。
「そうね。」
周は、子どもがそれから何も言わなくなったことに気づかなかった。
その夜、周はベッドの中で、自分が子どもの頃のことを思い出していた。
家は貧しかった。
兄弟姉妹も多かった。
けれど、数学と物理だけは得意だった。
先生が黒板に書いた問題を、自分だけ先に解けることもあった。
ある試験で、かなりいい点を取ったことがある。
父親が珍しく喜んでくれた。
それは、周にとって子どもの頃の数少ない記憶だった。
その後、軍隊へ入る機会もあった。
結局、選ばれなかった。
それでも、そのことは長い間、周の中に残っていた。
自分は何もできない人間ではなかった。
ただ、家が貧しかった。
やりたいことがあっても、すべてできるわけではなかった。
だから周はずっと思っていた。
子どもが勉強できれば、将来の道が一つでも多くなる。
その考えを、周は疑ったことがなかった。
翌日、仕事から帰ると、周はまた紙を一枚取り出した。
「ほら。」
子どもが机の前に座る。
周は紙の数字を指差した。
「これ、どうやって計算する?」
子どもは紙を見る。
少し考えてから、答えを書いた。
周が見る。
「正解。」
子どもが顔を上げる。
周は言った。
「もう一つ。」
子どもはまた書いた。
今度も正解だった。
周は笑った。
「なかなかいいじゃないか。」
子どもも笑った。
その様子を、劉が横から見ていた。
何も言わなかった。
その日の夜、周は機嫌がよかった。
食事のとき、子どもの皿に肉を多めに入れた。
「もっと食べろ。」
子どもは皿を見る。
「食べきれない。」
「食べられる。」
劉が言った。
「そんなに入れなくてもいいよ。」
「子どもは今、体が大きくなる時期なんだから。」
「分かってる。」
周はさらに一切れ、子どもの皿に入れた。
「食べろ。」
子どもは黙って食べた。
その頃の周は、ただ、子どもが勉強できることが嬉しかった。
まだ、それがこの家の中でどんな意味を持つようになるのかは考えていなかった。
子どもが初めて学校の試験を受けたとき、周は子ども以上に緊張していた。
その夜、子どもが一枚の答案を持って帰ってきた。
周が受け取る。
紙の上には、大きく「89」と書かれていた。
周はしばらく見ていた。
「どうして八十九なんだ?」
子どもは何も言わない。
周は答案をめくった。
「ここ、どうして間違えた?」
「分からなかった。」
「先生は教えなかったのか?」
「教えた。」
「じゃあ、どうして分からなかった?」
子どもは下を向いた。
周は答案を机に置いた。
「次はちゃんとやれ。」
子どもが頷く。
「うん。」
劉が言った。
「初めての試験なんだから、そんなに言わなくてもいいでしょう。」
周は劉を見る。
「俺は、ちゃんとやれって言ってるだけだ。」
「さっきからずっと聞いてるじゃない。」
「怒ってない。」
「怒ってるように見えるよ。」
周は答えなかった。
子どもはその場に立っていた。
しばらくして、自分の部屋へ入っていった。
その夜、周はもう一度答案を見た。
八十九点。
別に悪い点ではない。
それでも周は思った。
もう少し真面目にやれば、もっと取れたはずだ。
翌日、周が村で買い物をしていると、知り合いに会った。
「お前のところの子、勉強どうだ?」
周は笑った。
「まあまあだ。」
「うちの子は、今回は九十五だった。」
「そうか。」
「うん。」
「それはいいな。」
帰り道、周はその言葉を思い出していた。
九十五。
自分の子どもは八十九。
六点の差だった。
大きな差ではない。
けれど、その数字は周の頭に残った。
その夜、食事をしながら周が言った。
「李さんのところの子、今回九十五点だったらしい。」
劉が周を見る。
「それで?」
「別に。」
「また、よその子と比べるつもり?」
「いつ俺が比べた?」
「よその子の話をすると、その後は決まってるでしょう。」
周は下を向いて食べた。
「もっと勉強させたいだけだ。」
「まだ小さいよ。」
「今やらなかったら、いつやる?」
劉は答えなかった。
子どもは隣で食事をしていた。
二人は気づかなかった。
子どもの箸が、少しだけ遅くなっていたことに。
それから、そういう話が少しずつ増えていった。
村の誰それの子は成績がいい。
誰それの子は県城の学校へ行った。
誰それの子は賞状をもらった。
誰それの子は、自分の子より何点高かった。
劉も、ときどき言った。
「ほら、小明のところの子は、毎日ちゃんと家の手伝いをしてるよ。」
周も言った。
「小芳のところの子は、また一番だったらしい。」
二人とも、子どもを傷つけようとして言っているわけではなかった。
むしろ、本人たちは励ましているつもりだった。
もっと頑張れ。
もっとちゃんとしろ。
そう言いたいだけだった。
けれど、子どもが受け取ったものは、少し違っていた。
よその子は、みんな自分よりいい。
自分は、まだ足りない。
そんな感覚が、少しずつ残っていった。
ある日、子どもが試験で七十点台を取った。
周が帰ってきて答案を見ると、顔が変わった。
「どうしたんだ?」
子どもは答えない。
「聞いてるんだ。」
「分からなかった。」
「どうして分からない?」
子どもは下を向いた。
周の声が少しずつ大きくなった。
「普段から勉強しろって言ってるだろ。」
子どもは黙っていた。
「よその子を見てみろ。」
劉が横から入った。
「もういいよ。先にご飯食べよう。」
「飯なんか食ってる場合か?」
周は答案を机に置いた。
「このままだったら、これからどうするんだ?」
子どもはその場に立ったまま動かなかった。
劉が言った。
「もう分かったでしょう。そんなに言わなくても。」
周はそれ以上言わなかった。
しばらくして、外へ出ていった。
家の中が静かになった。
劉は机の上の答案を拾った。
子どもを見る。
「怖がらなくていいよ。」
子どもは何も言わない。
「お父さんも、あなたのためだから言ってるんだから。」
子どもは黙ったままだった。
劉は頭を撫でた。
「次はもう少し頑張ればいい。」
子どもは小さく頷いた。
その夜、周が帰ってきたときには、子どもはもう寝ていた。
周はベッドの横に座った。
しばらく寝顔を見ていた。
劉が聞いた。
「まだ怒ってる?」
「怒ってない。」
「なら、よかった。」
周は少し黙った。
「俺、言い過ぎたかな。」
劉はすぐには答えなかった。
「自分ではどう思う?」
周は下を向いた。
「ただ、将来困らないようにしたいだけだ。」
「分かってる。」
「俺が子どもの頃に、もっと条件が良かったら……」
周はそこで言葉を止めた。
劉も何も聞かなかった。
二人には、周が何を言いたいのか分かっていた。
周には、子どもの頃に十分な選択肢がなかった。
だから、自分の子どもには少しでも多くの選択肢を持ってほしかった。
その気持ちは、周にとって本物だった。
けれど、子どもに必要なのは、選択肢だけではない。
そのことを、周はまだ知らなかった。
翌朝、子どもが起きたとき、周はもう仕事へ出ていた。
机の上には、卵焼きが一つ置いてあった。
劉が言った。
「お父さんが残していったよ。」
子どもが聞いた。
「お父さんは?」
「仕事。」
子どもは頷いた。
卵焼きを食べ終えると、ランドセルを背負った。
玄関まで行ったところで、ふと振り返った。
「お母さん。」
「なに?」
子どもは少し迷ってから聞いた。
「僕って、頭悪いの?」
劉は一瞬、何も言えなかった。
それから子どものところへ行き、服の襟を直した。
「誰がそんなこと言ったの?」
子どもは答えなかった。
「今回は、ちょっとできなかっただけ。」
子どもが頷く。
「うん。」
そして、ランドセルを背負ったまま外へ出ていった。
劉は玄関に立って、その背中を見ていた。
何も言わなかった。
その夜、周が帰ってくると、子どもは机に向かって宿題をしていた。
周が近づく。
「何してる?」
「宿題。」
「今日は試験、どうだった?」
子どもの手が少し止まった。
「まだ分からない。」
周は頷いた。
「じゃあ、やれ。」
そう言って、周はその場を離れた。
このとき、周は気づいていなかった。
自分が言った言葉が、少しずつ子どもの中に残っていることに。
そして、その言葉のいくつかは、周自身の中にも残っていくことになる。
後になって周は、自分が子どもの頃に一番聞きたくなかった言葉を、自分も子どもに言っていることに気づく。
けれど、その頃はまだ知らなかった。
父親とは、そういうものだと思っていた。
子どもは、大人の言うことを聞くものだと思っていた。
勉強は、ちゃんとしなければならない。
子どものためなら、少しくらい厳しいことを言ってもいい。
それが、当時の周にとっての家族だった。
そして、その考え方は、子どもが少しずつ大きくなるにつれて、三人の暮らしの中へ深く入っていくことになる。




