第四十三章 空いた部屋
秋になった。
朝の風が少し冷たくなり、周の家でも、夜になると窓を閉めることが増えた。
ある土曜日の朝、劉は息子が昔使っていた部屋の掃除をしていた。
部屋には、古い机が一つ残っていた。
机の引き出しには、使いかけのノートや鉛筆、昔の教科書が入っていた。
壁には、何年も前に貼ったカレンダーがそのまま残っていた。
劉は一冊ずつ取り出して、床に並べた。
「こんなに残ってたのか。」
後ろから周が言った。
「あなたが捨てるなって言ったんでしょう。」
「そうだったか?」
「そうよ。」
劉は古いノートを開いた。
最初のページには、子どものころの字で名前が書いてあった。
「字も小さいね。」
「昔だからな。」
「当たり前でしょう。」
二人は笑った。
しばらくすると、周が古い教科書を手に取った。
「これ、数学か。」
「まだ使える?」
「もう使わないだろ。」
「じゃあ、捨てる?」
周は少し考えた。
「……捨てるか。」
劉は驚いた。
「本当に?」
「もう何年も使ってない。」
「じゃあ、これは?」
「それもいい。」
二人で少しずつ物を分けていった。
残すもの。
捨てるもの。
分からないもの。
分からないものは、いったん箱に入れた。
昼前になると、部屋の床が少し広くなった。
劉は窓を開けた。
風が入ってきた。
「前は狭かったのにね。」
「物が多かっただけだろ。」
「そうかもしれない。」
劉は部屋を見回した。
息子が小学生のころ、ここで宿題をしていた。
中学生になってからは、夜遅くまで勉強していた。
高校生になると、机の上に参考書が増えた。
大学に行ってからは、ほとんど帰ってこなくなった。
それでも、部屋だけはそのままだった。
「この部屋、どうする?」
劉が聞いた。
周は少し考えた。
「そのままでいいんじゃないか。」
「でも、もうほとんど使ってないよ。」
「帰ってきたときに使うだろ。」
「ホテルじゃないんだから。」
周は笑った。
「じゃあ、どうする?」
「分からない。」
劉も笑った。
結局、その日は決めなかった。
午後になって、息子から電話があった。
「何してるの?」
「部屋を片付けてる。」
「どの部屋?」
「お前の部屋。」
電話の向こうで少し間があった。
「まだあったんだ。」
劉は笑った。
「何言ってるの。ずっとあるでしょう。」
「もう何年も使ってないから。」
「だから片付けてるの。」
息子は少し黙った。
「捨てていいよ。」
「本当に?」
「うん。必要なものはもう持ってるし。」
劉は机の上を見た。
「本当に何も残さなくていいの?」
「写真とか、昔のものが少しあれば十分。」
周が横から聞いた。
「机は?」
「それも使わないなら、処分していいよ。」
劉は息子の言葉を聞きながら、少しだけ寂しくなった。
けれど、
「分かった。」
と答えた。
電話を切ったあと、周が言った。
「寂しいか?」
「ちょっとね。」
「俺も。」
劉は机を見た。
「でも、本人がいらないって言ってるものを、ずっと残しておく理由もないでしょう。」
「そうだな。」
二人はまた片付けを始めた。
机の引き出しから、古い消しゴムが出てきた。
劉が笑った。
「これ、あなたが買ったんでしょう。」
「覚えてない。」
「私は覚えてる。」
「なんで?」
「あなたが『勉強するならいいものを使わせたほうがいい』って言って、普通より高いのを買ったから。」
周は少し笑った。
「そんなこともあったな。」
「でも、本人は普通の消しゴムのほうが使いやすいって言ってた。」
「そうだったか。」
二人は顔を見合わせた。
そして笑った。
夕方までかかって、部屋はかなり片付いた。
机も、次の粗大ごみの日に出すことになった。
壁には何もなくなった。
床も広くなった。
それでも、部屋そのものはなくならない。
夜、劉はその部屋の前を通った。
ドアは少し開いていた。
中を見ると、何もない壁が見えた。
「空っぽだね。」
周が後ろから言った。
「うん。」
「寂しい?」
「少し。」
「俺も。」
二人はしばらく部屋を見ていた。
それから劉が言った。
「でも、あの子が家を出たときも、同じだったんじゃない?」
「何が?」
「部屋が空いたこと。」
周は何も言わなかった。
確かにそうだった。
大学に行った日も、仕事を始めた日も、家を出ていった日も、部屋は少しずつ空いていった。
ただ、物が残っていたから、完全に空いたようには感じなかっただけだった。
今になって、物を片付けることで、それが見えるようになった。
周は、
「じゃあ、これからどうする?」
と聞いた。
劉は少し考えた。
「物置にはしたくない。」
「そうだな。」
「帰ってきたときは使えるようにしておけばいい。」
「うん。」
「でも、ずっと空けておく必要もない。」
周は頷いた。
「俺たちが使ってもいい。」
劉は少し驚いた。
「何に?」
「分からない。」
二人で笑った。
翌週、二人はその部屋に小さな棚を置いた。
昔の写真を少しだけ入れた。
残った本も数冊だけ置いた。
それ以外は、二人が使う物を置くことにした。
部屋は、息子の部屋でもなくなった。
かといって、息子との関係がなくなったわけでもなかった。
ただ、家の中での使い方が変わっただけだった。
数日後、息子が帰ってきた。
部屋を見て、
「ずいぶん変わったね。」
と言った。
「嫌だった?」
劉が聞いた。
「ううん。」
息子は部屋の中を見回した。
「こっちのほうがいいと思う。」
周が聞いた。
「泊まるときはどうする?」
「ここでいいよ。」
「じゃあ、残しておいてよかったな。」
「うん。」
息子は笑った。
三人で夕飯を食べた。
食事のあと、息子はその部屋に荷物を置いた。
昔の机はなくなった。
昔の教科書もほとんどない。
けれど、そこに泊まることはできた。
家は少し変わった。
息子も変わった。
周と劉も変わった。
それでも、帰ってくる場所としての家まで、同じ形で残っている必要はなかった。
夜、息子が眠ったあと、周と劉は居間でテレビを見ていた。
劉が小さな声で言った。
「片付けてよかったね。」
周はテレビを見たまま、
「そうだな。」
と答えた。
それから少しして、
「でも、あの机、捨てるときはちょっと寂しかったな。」
と付け加えた。
劉は笑った。
「あなたもね。」
「何が?」
「捨てるの、最後まで迷ってたでしょう。」
「……そうだったか?」
「そうよ。」
テレビの音だけが、部屋に流れていた。
二人はそれ以上話さなかった。
家の中には、昔より少ない物があった。
その代わり、二人の今の生活に必要な物が少しずつ増えていた。
それでよかった。




