第四十二章 言わないこと
夏の終わりが近づいていた。
周の家では、扇風機が一日中回っていた。
夕方になると少し涼しくなる。
劉は庭に水をまき、周は椅子に座って新聞を読んでいた。
「今年は暑かったね。」
劉が言った。
「毎年言ってるな。」
「だって暑いもの。」
周は笑った。
その日の夕方、近所の李がやって来た。
いつもと違って、少し疲れた顔をしていた。
「どうした?」
周が聞いた。
「息子とちょっと話したの。」
「喧嘩したのか?」
「喧嘩というほどじゃないけどね。」
李は椅子に座った。
息子から、仕事の都合で今後はもっと遠くに住むかもしれないと言われたらしい。
「今でも車で一時間半なのに、もっと遠くなるのか。」
劉が聞いた。
「そう。」
李は湯飲みを両手で持った。
「最初に聞いたときは、なんだか寂しくなってね。」
「それはそうだろう。」
周が言った。
「でも、あの子が仕事を辞めてまで近くにいる必要もないし。」
李はそう言ったあと、少し笑った。
「自分で言っておいて、変な話だけどね。」
「変じゃない。」
周は新聞をたたんだ。
「寂しいのと、反対するのは別だからな。」
李は周を見た。
「それ、最近よく言うね。」
「そうか?」
「前だったら、もっと『近くにいたほうがいい』って言ってたでしょう。」
周は少し考えた。
「そうかもしれない。」
李は笑った。
「人って、少しずつ変わるものね。」
「少しだけな。」
三人で笑った。
李が帰ったあと、劉は庭に出た。
周も後からついていった。
しばらく二人とも何も言わなかった。
やがて劉が、
「あなたは、息子がもっと遠くに行ったらどうする?」
と聞いた。
「どうもしない。」
「寂しくない?」
「寂しいだろうな。」
「じゃあ、どうもしないっていうのは?」
周は少し考えた。
「寂しいって言うことはできる。」
「それだけ?」
「それ以上は、あいつが決めることだろ。」
劉は黙った。
周は続けた。
「俺が寂しいからって、あいつの仕事まで変えさせるわけにはいかない。」
「そうね。」
二人は庭の草を見た。
夏の間に伸びた草が、まだ少し残っていた。
翌週、息子が帰ってきた。
夕飯を食べながら、仕事の話をした。
「来年、異動の話があるかもしれない。」
周は箸を止めた。
「どこに?」
「まだ決まってない。少し遠いところかもしれない。」
劉は息子の顔を見た。
「遠いの?」
「今よりは。」
周は何も言わなかった。
息子が、
「父さん、どう思う?」
と聞いた。
周はすぐには答えなかった。
以前なら、条件を聞き、会社の話を聞き、生活費を計算し、
「行かないほうがいい。」
と言っていたかもしれない。
けれど、その日は、
「お前はどう思ってる?」
と聞いた。
「まだ分からない。」
「そうか。」
「給料は少し上がるかもしれない。でも、生活は変わる。」
「じゃあ、考えてみればいい。」
息子は父親を見た。
「それだけ?」
「それだけって何だ。」
「もっと何か言うかと思った。」
周は笑った。
「俺が言ったら、答えが出るのか?」
息子も笑った。
「出ないね。」
「だったら、自分で考えろ。」
言ったあと、周は少しだけ気になった。
以前の自分なら、
「自分で考えろ。」
と言うだけで終わっていた。
今は、その言葉の後に、
「必要なら話は聞く。」
という気持ちがあった。
けれど、それをわざわざ口にする必要もないと思った。
息子はしばらく考えてから、
「分かった。」
と言った。
夕食が終わったあと、息子は食器を洗った。
劉が、
「置いといていいよ。」
と言った。
「いいよ。俺がやる。」
周はテレビを見ながら、その様子を見ていた。
昔なら、
「そんなことしなくていい。」
と言っていたかもしれない。
今は何も言わなかった。
食器を洗い終えると、息子は自分の携帯電話を見た。
「そろそろ帰る。」
「気をつけて。」
周が言った。
玄関まで見送りに行った。
息子が靴を履いているとき、周は何か言おうとした。
「遠くなっても……」
そこまで言って、止まった。
息子が振り返る。
「何?」
周は少し考えた。
「いや、何でもない。」
「そう?」
「気をつけて帰れ。」
「うん。」
息子は家を出た。
車のドアが閉まる。
エンジンがかかる。
車がゆっくりと道路へ出ていった。
周はしばらく立っていた。
劉が隣に来た。
「何か言おうとしてたでしょう。」
「分かった?」
「分かるわよ。何年一緒にいると思ってるの。」
周は笑った。
「遠くに行っても、たまには帰ってこいって言おうと思った。」
「言えばよかったじゃない。」
「そうだな。」
「どうして言わなかったの?」
周は道路の先を見た。
「帰ってきてほしいっていうのは、俺の気持ちだからな。」
「それで?」
「言ってもいいと思う。でも、言わなくてもいいかなって。」
劉は少し黙った。
「難しいね。」
「そうだな。」
二人は家の中へ戻った。
夜になって、息子からメッセージが届いた。
『今日はありがとう。』
周は画面を見た。
少し考えてから、
『こっちこそ。気をつけてな。』
と返した。
しばらくして、もう一通届いた。
『また帰るよ。』
周はその文章を見て、笑った。
それから携帯電話を置いた。
帰ってくるかどうかは、まだ決まっていない。
どこで働くのかも、まだ決まっていない。
これから家族がどのくらい離れて暮らすのかも分からない。
ただ、その夜は、それ以上考えなかった。
劉がテレビの音量を少し下げた。
「明日、買い物行く?」
「行く。」
「何買う?」
「魚。」
「また?」
「この前うまかったから。」
「じゃあ、少し安いのにしましょう。」
「分かった。」
二人はいつものように話した。
息子のことも、仕事のことも、これからのことも、完全には決まっていなかった。
それでも、次の日の買い物だけは決まった。
それで十分な日もあった。




