第四十章 帰ってくること
春になった。
去年の冬に痛めた腰は、周が病院に何度か通ううちに少しずつ良くなっていた。
医者からは、無理をしないようにと言われていた。
周はそれを聞いて、
「仕事をしている人間に、無理するなって言われてもな。」
と笑った。
劉は、
「じゃあ、仕事をやめる?」
と聞いた。
「それは違うだろ。」
「でしょうね。」
二人は笑った。
ある日の午後、近所の李が家に来た。
手には野菜の袋を持っていた。
「畑で余ったから。」
「そんなにいらないのに。」
劉が言うと、李は、
「うちも食べきれないから。」
と言った。
三人でお茶を飲んでいると、李が息子の話を始めた。
「最近、あの子が週末に帰ってくるようになったのよ。」
「仕事は忙しくないのか?」
周が聞いた。
「忙しいみたい。でも、月に二回くらいは来る。」
「近いのか?」
「車で一時間半くらい。」
李は湯飲みを置いた。
「最初は、もっと帰ってこいって言ってたの。でも、あの子に言われたのよ。」
「何て?」
「帰ってこないと親不孝なのかって。」
周は黙った。
李も少し考えてから、
「私、答えられなかった。」
と言った。
劉が聞いた。
「それで?」
「それから、帰ってこいって言わなくなった。来るときは来るし、来ないときは電話してくる。」
「それでいいんじゃないか。」
周が言った。
李は笑った。
「そう思えるようになるまで、時間がかかったけどね。」
しばらくして、李は帰っていった。
その日の夜、周は息子から電話を受けた。
「父さん、今度の日曜日、そっち行こうか?」
「なんで?」
「特に理由はないけど。」
「仕事は?」
「休み。」
「じゃあ、来ればいい。」
「分かった。」
電話を切ったあと、劉が聞いた。
「何だったの?」
「日曜日に来るって。」
「そう。」
「何か作るか?」
「普通でいいでしょう。」
日曜日。
息子は昼前に来た。
手には果物の袋があった。
「これ、買ってきた。」
「こんなにいらない。」
劉が言う。
「安かったから。」
「そう。」
昼ご飯を食べたあと、息子は周の腰の具合を聞いた。
「もう大丈夫?」
「だいぶ良くなった。」
「病院は?」
「もう行ってない。」
息子は少し黙った。
「先生は、どう言ってた?」
「無理しなければいいって。」
「じゃあ、無理しないでよ。」
「分かってる。」
息子はそれ以上言わなかった。
午後、三人で買い物に出た。
スーパーの中で、周が重い米を持とうとすると、
「それ、俺が持つよ。」
と息子が言った。
「これくらい持てる。」
「分かってる。でも、俺がいるから。」
周は一瞬、息子を見た。
それから袋を渡した。
「じゃあ、頼む。」
帰り道、周は何も言わなかった。
昔なら、自分が持つと言って譲らなかったかもしれない。
息子も、それを知っていた。
家に着くと、劉が袋を片付けた。
「今日は助かった。」
「うん。」
夕方になり、息子が帰る準備を始めた。
玄関で靴を履きながら、
「また来るよ。」
と言った。
周は、
「無理しなくていいぞ。」
と答えた。
息子は笑った。
「それ、どっち?」
「何が?」
「来なくていいって意味?」
「そうじゃない。」
周も笑った。
「来たいときに来ればいい。」
「分かった。」
息子は玄関を出た。
車が見えなくなってから、劉が言った。
「来てくれると、やっぱり嬉しいでしょう。」
「まあな。」
「じゃあ、もっと来てほしいって言えばいいのに。」
周は少し考えた。
「言ったら、あいつが困るかもしれない。」
劉は黙った。
「でも、来てくれたら嬉しい。」
「それは言ってもいいんじゃない?」
周は笑った。
「そうだな。」
その夜、周は息子に短いメッセージを送った。
『今日はありがとう。』
少しして返信が来た。
『こちらこそ。』
周はその画面を見て、携帯を置いた。
一方、息子は車の中でそのメッセージを見ていた。
父親から「ありがとう」と言われることは、あまりなかった。
それが何を意味するのか、息子にもよく分からなかった。
ただ、少しだけ嬉しかった。
家に帰ると、妻が聞いた。
「今日はどうだった?」
「普通。」
「お父さん、大丈夫そう?」
「うん。腰も少し良くなったみたい。」
妻は頷いた。
「よかったね。」
息子は上着を脱いだ。
「でも、これからどうするんだろうな。」
「何が?」
「年を取ったら。」
妻は少し考えた。
「それは、そのときになってから考えるしかないんじゃない?」
息子は黙った。
両親の近くに住むこともできる。
遠くで働き続けることもできる。
頻繁に帰ることもできる。
電話だけの日があってもいい。
何かあれば手伝うこともできる。
けれど、まだ何も決まっていなかった。
そのことが、少し不安だった。
同時に、今の生活をすべて変える理由も、まだなかった。
翌週、周と劉は朝から庭の片付けをしていた。
周が古い箱を動かしていると、劉が言った。
「それ、もう捨てたら?」
「まだ使える。」
「何年使ってるの?」
「忘れた。」
「じゃあ、もう十分でしょう。」
周は箱を見た。
少し考えてから、
「じゃあ、これは捨てる。」
と言った。
劉は驚いた。
「珍しい。」
「何が?」
「あなたが捨てるの。」
「置いておいても邪魔だからな。」
二人は箱を外へ運んだ。
その中には、息子が小さいころに使っていた古い文房具も入っていた。
周は一つだけ取り出した。
「これ、まだあったのか。」
劉が覗き込んだ。
「昔の鉛筆削りね。」
周はそれを手に取った。
少し汚れていた。
「捨てる?」
劉が聞いた。
周はしばらく見ていた。
「いや。これは置いとく。」
「なんで?」
「分からない。」
劉は笑った。
「じゃあ、置いとけば。」
周も笑った。
物を捨てることと、思い出を捨てることは、同じではなかった。
子どもが家を出ることと、家族でなくなることも、同じではない。
近くにいることと、支配することも違う。
遠くにいることと、無関心であることも違う。
周は、古い鉛筆削りを棚の奥に戻した。
そして、いつものように庭の片付けを続けた。
春の風が、庭を通り抜けていった。




