第三十五章 同じ家の中で
春の終わり頃、母親の妹から電話があった。
林は夕食のあと、居間でテレビを見ていた。
母親は台所で電話をしていた。
「うん……分かった」
しばらく聞いている。
「そうね。あの子にも話したほうがいいと思う」
林はテレビの音を少し小さくした。
母親は電話を切ると、しばらくその場に立っていた。
「どうしたの?」
父親が聞いた。
「妹のところ、家をどうするかで話してるみたい」
「家?」
「息子さんがいるでしょう」
「いるな」
「娘さんもいる」
「そうだな」
母親は椅子に座った。
「家を息子に残すか、売って分けるかで、話がまとまらないんだって」
林はテレビを見ながら聞いていた。
「息子は、親と一緒に住むつもりらしいの」
「それなら、息子に残す話になるんじゃないか?」
父親が言った。
「でも、娘さんは、自分にも権利があるって言ってるみたい」
母親はそう言って、少し黙った。
「難しいな」
父親が言った。
「うん」
林は二人を見た。
「娘さんは何て言ってるの?」
「自分は家をもらいたいわけじゃないけど、最初から男だから全部って決められるのは嫌だって」
林は少し黙った。
「それなら、分かる気もする」
母親は林を見た。
「でも、息子さんは親と住むんでしょう?」
「そうみたい」
「じゃあ、息子さんが家を継ぐのも普通じゃない?」
母親は答えた。
林は少し考えた。
「住む人が家をもらうっていう考え方もあるよね」
「そうよ」
「でも、男だからって理由だけなら、また別じゃない?」
母親は何も言わなかった。
父親が口を開いた。
「結局、本人たちが話すしかないだろ」
その日の夜は、それ以上話さなかった。
数日後、林は母親と買い物に出かけた。
帰り道、母親が言った。
「女の子って、結婚したら大変よね」
「どうして?」
「相手の家のことも考えなきゃいけないし」
「男も同じじゃない?」
「そうかもしれないけど」
母親は少し笑った。
「昔は、女の子は嫁に行くものって考えてたからね」
「母さんもそう思ってた?」
「昔はね」
「今は?」
母親は少し考えた。
「今は、娘が自分で生活できるなら、それでいいと思う」
林は母親を見た。
「じゃあ、娘さんが結婚しなくても?」
「本人がそうしたいならね」
「家に帰ってこなくても?」
母親は少し笑った。
「たまには帰ってきてほしいけど」
「やっぱり帰ってきてほしいんだ」
「親だからね」
二人は歩き続けた。
スーパーの袋が少し重くなっていた。
家に帰ると、父親が買ったばかりの米を運んでいた。
「重いから置いて」
母親が言った。
「これくらい大丈夫だ」
父親が答えた。
林は袋を受け取った。
「俺が持つよ」
「いい」
「いいから」
林が持つと、父親は手を離した。
「最近、力がついたな」
「仕事してるから」
「そうか」
父親は笑った。
その日の夜、母親の妹からまた電話が来た。
今度は父親も一緒に聞いた。
「まだ決まってないのか?」
父親が聞く。
母親は電話の向こうの話を聞いてから答えた。
「うん。息子さんは家を残してほしいって言ってる。でも娘さんは、家じゃなくてもいいから、自分にも同じように話をしてほしいって」
父親は少し考えた。
「家そのものより、扱われ方の話なのかもしれないな」
母親は黙った。
林も黙っていた。
誰かが多くもらうことと、誰かが最初から話の外に置かれることは、同じではない。
林はそう思った。
けれど、それを口にする必要はないと思った。
電話が終わる。
母親はため息をついた。
「家族って、難しいね」
「そうだな」
父親が答えた。
「でも、家族だからって、同じ考えになるわけじゃないだろ」
母親は少し笑った。
「あなたも昔は、そんなこと言わなかったのにね」
「そうか?」
「そうよ」
父親は何も言わなかった。
林はテレビをつけた。
ニュースが流れていた。
別の町の住宅の話。
新しいマンション。
結婚する若い夫婦。
子どもを育てる家庭。
画面の中では、いろいろな生活が紹介されていた。
林はしばらく見ていた。
自分の家も、親戚の家も、近所の家も、それぞれ違う。
同じような言葉を使っていても、実際の生活は同じではない。
「男だから」
「女だから」
「長男だから」
「結婚したから」
「家を継ぐから」
そういう言葉だけでは、その人の生活全部を説明することはできない。
林はテレビを消した。
「寝るよ」
「明日仕事?」
母親が聞いた。
「うん」
「じゃあ、早く寝なさい」
「分かった」
林は自分の部屋へ戻った。
居間では、父親と母親がまだ話していた。
何を話しているのかは聞こえなかった。
林は布団に入った。
家族の話は、いつまでたっても終わらない。
誰かが決める。
誰かが反対する。
誰かが譲る。
誰かが譲らない。
そして、話し合った結果が、必ず全員にとって同じ意味になるわけでもない。
翌朝。
林はいつもの時間に家を出た。
玄関を閉めると、母親の声が聞こえた。
「気をつけてね」
「うん」
林は振り返らずに手を上げた。
今日も仕事がある。
それだけだった。




