第三十三章 家を買う話
春が近づいていた。
張の娘の結婚式が終わったという話を、林は母親から聞いた。
「昨日、張さんのところに行ってきたの」
夕食のあと、母親が言った。
「結婚式、無事に終わったって」
「そうなんだ」
「家も決まったみたい」
「もう決まったの?」
「うん。二人で見に行って決めたらしいよ」
林は頷いた。
「張さん、お金を出したの?」
「少し出したって」
「少し?」
「家の頭金を少し手伝ったみたい」
林は箸を置いた。
「娘さんは何て言ってた?」
「ありがとうって言ってたって」
「それならいいね」
母親は少し笑った。
「でも、張さん、今度は自分たちの生活が苦しくなるって言ってた」
林は何も言わなかった。
しばらくして、父親が口を開いた。
「いくら出したんだ?」
「知らない」
「聞かなかったのか」
「そんなこと、聞けないでしょ」
「そうか」
父親はそれ以上言わなかった。
食事が終わると、林は自分の部屋に戻った。
スマートフォンを見ると、張の娘からではないが、同じ町の知り合いから結婚式の写真が送られてきていた。
新郎新婦が並んでいる。
後ろには大きな花が飾られている。
林は写真を少し見て、スマートフォンを伏せた。
翌週の日曜日、林は買い物の帰りに張の家へ寄った。
玄関には以前と違う靴が置かれていた。
「張さん、いますか」
「おう、林か」
張が出てきた。
「どうした?」
「近くまで来たので」
「入れ」
居間には新しい写真が飾られていた。
結婚式の写真だった。
「きれいですね」
林が言うと、張は笑った。
「まあな」
「家も決まったんですよね」
「ああ」
「よかったですね」
張は少し考えた。
「よかったのかどうかは、まだ分からんな」
林は黙っていた。
「娘たちは喜んでる」
「はい」
「でも、これからローンもあるしな」
「張さんもお金を出したんですよね」
「少しだけだ」
張はそう言ってから、ため息をついた。
「少しのつもりだったんだけどな」
「何かあったんですか?」
「家具も必要だ、家電も必要だって話になってな」
林は黙って聞いた。
「娘には、自分たちでやれって言ったんだ」
「はい」
「でも、見てると、困ってるのも分かる」
「それで?」
「結局、また少し出した」
張は笑った。
「親っていうのは、そういうものなのかもしれんな」
林は返事をしなかった。
張は窓の外を見た。
「出した金が惜しいわけじゃないんだ」
「はい」
「ただな」
張は少し間を置いた。
「これから先も、何かあるたびに俺が出すことになるのかなって思うんだ」
林はその言葉を聞いていた。
張の家の中には、結婚式の写真と新しい家具があった。
けれど、以前と同じように古い時計も壁に掛かっていた。
生活そのものが、急に変わったわけではない。
「娘さんは何て言ってます?」
「自分たちでやるって言ってる」
「じゃあ、大丈夫じゃないですか」
張は笑った。
「そうだといいけどな」
帰り道、林はゆっくり歩いた。
自分の両親だったらどうするだろう。
もし自分が結婚すると言ったら。
もし家を買うと言ったら。
もしお金が足りないと言ったら。
助けてくれるかもしれない。
助けてくれないかもしれない。
その時になってみないと分からない。
林は以前より、そういうことを急いで決めなくなっていた。
家に帰ると、父親が庭にいた。
「張さんのところに行ってきたのか」
「はい」
「何か言ってたか?」
「いろいろです」
「そうか」
林は少し迷ってから言った。
「父さん」
「ん?」
「もし俺が結婚して、家を買うことになったら」
「うん」
「父さんが出せる分だけでいいから、出してほしいって言ったらどうする?」
父親は少し考えた。
「そのときの生活次第だな」
「出してくれないこともある?」
「あるかもしれない」
林は少し笑った。
「正直だね」
「金がないのに、あるふりして出すわけにはいかないだろ」
「そうだね」
父親は続けた。
「それに、出せるからといって、全部出す必要もないだろ」
林は黙っていた。
「お前が自分で払えるなら、自分で払えばいい」
「でも、親が出してくれたら助かる」
「そりゃそうだ」
父親は笑った。
「助けてもらったら、ありがたいと思えばいい」
「うん」
「でも、助けてもらったからって、その後まで全部親の言う通りにしなきゃならないわけじゃない」
林は父親を見た。
父親はそれ以上何も言わなかった。
その日の夜、林は自分の貯金を確認した。
まだ大きな金額ではない。
家を買うことなど、とても考えられない。
けれど、今の自分には、今の自分の生活がある。
毎月の給料。
毎月の支出。
少しずつ増える貯金。
そして、まだ決めていないこと。
結婚。
家。
仕事。
これから先の暮らし。
林はスマートフォンを閉じた。
その頃、張の家では、娘が新しい家の鍵をテーブルの上に置いていた。
「お父さん」
「ん?」
「この前はありがとう」
張は鍵を見た。
「俺は少し手伝っただけだ」
「分かってる」
「これからは自分たちでやれよ」
娘は笑った。
「分かってるって」
張も笑った。
それ以上、二人は何も言わなかった。
それぞれの家で、それぞれの生活が始まっていた。
誰かが助けてもらうこともある。
誰かが自分でやることもある。
その後の暮らしまで、同じになるわけではなかった。




