第三十二章 してあげたいこと
年が明けた。
寒い朝が続いていた。
林は出勤前に、スマートフォンで天気を確認してから家を出た。
駅へ向かう途中、近所の家の前に新しい車が止まっていた。
以前から見かけていた家だった。
玄関の前には、まだ段ボールがいくつか積まれている。
引っ越してきたばかりなのかもしれない。
林は少し見ただけで、そのまま通り過ぎた。
会社に着くと、同僚が言った。
「林さん、最近忙しそうですね」
「そうですか?」
「前より慣れてきた感じがします」
「慣れただけですよ」
「それが大事なんですよ」
林は笑った。
仕事が終わった夜、母親から電話が来た。
「今日、張さんのところに行ってきたの」
「張さん?」
「近所の張さん」
「ああ」
「娘さん、結婚するんだって」
「そうなんだ」
「家も買うらしいよ」
林は少し黙った。
またその話かと思った。
「結婚するなら、家も必要なのかな」
「知らないわよ」
母親は笑った。
「でも、二人とも働いてるんだから、何とかなるんじゃない?」
「そうかな」
「張さんも少し出すって言ってた」
「いくら?」
「そこまでは聞いてない」
林はスマートフォンを見ながら答えた。
「親も大変だね」
「そうね」
電話の向こうで、母親が少し黙った。
「うちだって、あなたが結婚するときは、できることならしてあげるよ」
林はすぐには返事をしなかった。
「ありがとう」
「でも、無理なことはできないからね」
「うん」
「家を買うとか、結婚するとか、そういうことになったら、そのとき考えればいい」
「分かった」
母親の声はいつもと変わらなかった。
それ以上、話は続かなかった。
数日後、林は張の家の前で張本人に会った。
「林か」
「こんにちは」
「仕事帰りか?」
「はい」
張は少し疲れた顔をしていた。
「今度、娘が結婚するんだ」
「聞きました」
「そうか」
張は笑った。
「何かと金がかかるな」
「家も買うんですよね」
「そうだ」
「大変ですね」
張は少し黙った。
「してやりたいことはあるんだよ」
「はい」
「でも、できることとは違うからな」
林は何も言わなかった。
張は続けた。
「結婚式もある。家もある。家具もいる。向こうの親とも話さなきゃならない」
「そうですよね」
「娘が困っていたら、助けてやりたい」
「うん」
「でも、こっちにも生活がある」
張は苦笑した。
「親っていうのも、難しいな」
林はその言葉を聞いて、少しだけ考えた。
「娘さんは、何て言ってるんですか?」
「自分たちでやるって言ってる」
「じゃあ、いいんじゃないですか」
「そうなんだけどな」
張は家の中を見た。
「親としては、何かしてやりたいんだよ」
林は頷いた。
その気持ちは、分からないわけではなかった。
家に帰ると、父親がテレビを見ていた。
林は靴を脱ぎながら言った。
「今日、張さんに会いました」
「そうか」
「娘さんの結婚、大変みたいです」
「結婚は金がかかるからな」
父親はテレビを見たまま答えた。
「家も買うんだって」
「そうか」
「張さん、できることと、してやりたいことは違うって言ってました」
父親は少し黙った。
「まあ、そうだな」
林は椅子に座った。
「父さんだったら、俺が結婚するとき、どうする?」
父親はテレビを消した。
「どうするって?」
「お金を出す?」
父親は少し考えた。
「できるなら出すだろ」
「どれくらい?」
「そのときにならないと分からない」
「家を買うなら?」
「お前が本当に必要だと思って買うなら、考える」
林は父親を見る。
「俺が欲しいって言ったら?」
「欲しいだけじゃなくて、生活できるかどうかを考えるだろ」
林は少し笑った。
「やっぱり父さんだ」
「何が」
「結局、心配するんだなって」
父親も笑った。
「親だからな」
しばらく二人とも黙っていた。
やがて父親が言った。
「ただな」
「うん」
「金を出したからって、親が全部決めるのは違うと思う」
林は父親の顔を見た。
以前なら、父親自身もそんなふうには言わなかったかもしれない。
「それ、前にも言ってたよね」
「そうか?」
「言ってた」
父親は少し笑った。
「じゃあ、覚えてたんだな」
「覚えてるよ」
林も笑った。
その夜、林は自分の部屋に戻った。
スマートフォンには、友人からメッセージが来ていた。
「最近どう?」
林はしばらく考えてから、
「普通。仕事してる」
と返した。
少しして、友人から返事が来た。
「じゃあ安定じゃん」
林はその言葉を見た。
以前なら、その言葉を聞いて安心したかもしれない。
今は、少し違った。
安定しているかどうかは、自分でもまだ分からない。
仕事は続いている。
給料も入っている。
少しずつ貯金もできている。
けれど、これから十年、二十年のことまで決まったわけではない。
それでも、今の生活は自分で考えて続けている。
林は返信した。
「まあ、今はね」
送信してから、スマートフォンを机に置いた。
窓の外は静かだった。
どこかの家からテレビの音が聞こえる。
別の家では、誰かが食器を洗っているらしく、水の音がした。
それぞれの家に、それぞれの事情がある。
親が子どものために何かをしてやりたいと思うこともある。
子どもが親に助けてもらいたいと思うこともある。
助けてもらわずに自分でやりたいと思う人もいる。
同じ家の中でも、その時々で考えが変わることがある。
林は布団に入った。
明日も仕事だった。
結婚するかどうかも、家を買うかどうかも、まだ決めていない。
今は、朝起きて会社へ行く。
給料が入ったら、自分の生活を計算する。
それだけだった。
それでも、以前より少しだけ、自分の生活を自分で見ているような気がした。




