第三十一章 それぞれの暮らし
冬が近づいてきた。
朝の空気が少しずつ冷たくなり、林は出勤するときに薄い上着を一枚重ねるようになった。
仕事を始めてから、もうしばらく経っていた。
最初の頃ほど緊張することはなくなったが、仕事が楽になったわけではない。
忙しい日は帰る時間が遅くなる。
反対に、仕事が少ない日は定時より少し早く帰れることもある。
給料が入ると、林はスマートフォンのメモを開いて、その月の支出を書き出していた。
家に入れるお金。
食費。
交通費。
携帯電話。
それから、毎月少しずつ残している貯金。
以前は、給料というものをただ「働いた分のお金」と考えていた。
今は、そのお金が一か月の生活の中でどこへ消えていくのかを考えるようになった。
ある土曜日の午後、林は周の家に寄った。
周は庭先で古い道具を整理していた。
「休みか」
「はい」
林は少し離れたところに立った。
「手伝います」
「いいよ。そんなにないから」
「じゃあ、少しだけ」
林は隣にしゃがんだ。
しばらく二人とも黙っていた。
周が古い箱を持ち上げる。
「仕事、どうだ」
「普通です」
「普通か」
「忙しい日は忙しいです。でも、前よりは慣れました」
「それならよかったな」
周はそれ以上聞かなかった。
林は少し意外に思った。
以前なら、
「給料はいくらだ」
「残業はあるのか」
「会社は大丈夫なのか」
「いつまで続けるんだ」
と、いろいろ聞かれていた。
今日は、それがなかった。
林は自分から言った。
「この前、給料が入ったので、少し貯金しました」
「そうか」
「まだ少ないですけど」
「少なくても、残せるなら残しておけばいい」
「はい」
周は箱の中から古い工具を取り出した。
「結婚する予定はないのか」
林は少し笑った。
「周さんまで言うんですか」
「いや、聞いただけだ」
「今は考えてないです」
「そうか」
「仕事もまだ分からないですし。生活も、まだこれからなので」
周は少し考えてから言った。
「まあ、そういうこともあるな」
林は周の顔を見た。
「前だったら、もっと何か言ってましたよね」
「何を」
「結婚したほうがいいとか」
「俺だって、そんなに言ってないだろ」
「言ってましたよ」
周は笑った。
「そうか」
「はい」
二人はまた作業に戻った。
しばらくして、林が言った。
「この前、母が近所の人から話を聞いてきたんです」
「何の話だ」
「息子さんが結婚するって」
「そうか」
「家も買うらしいです」
周は工具を置いた。
「それは大変だな」
「母は、いい話だって言ってました」
「人の家だからな」
林は笑った。
「それ、周さんも言うんですね」
「何が」
「人の家は、人の家って」
周は少し考えた。
「前に、そういう話をしたからな」
「はい」
「人の家のことを聞いて、自分の家も同じにしなきゃいけないと思うと、疲れるだろ」
林は返事をしなかった。
自分も以前、そうだった。
同級生が就職した。
誰かが結婚した。
誰かが家を買った。
誰かが子どもを持った。
そのたびに、自分だけが遅れているような気がしていた。
仕事がない時期には、その感覚がもっと強かった。
家にいるだけで、何かに負けているような気がした。
今は仕事をしている。
それでも、周りの人の生活を見れば、別の不安が出てくる。
自分の生活は、どこへ向かっているのか。
まだ分からない。
「周さん」
「ん?」
「仕事をしてても、悩みってなくならないですね」
周は少し笑った。
「なくならないだろうな」
「そうですよね」
「仕事がなければ仕事のことで悩む。仕事があれば、別のことで悩む」
「家があれば、ローンですか」
「そうかもしれないな」
林は笑った。
「結婚したら、結婚したで別のことがあるんでしょうね」
「そうだろうな」
周はそう言ってから、少し間を置いた。
「でも、だから結婚するなとか、したほうがいいとか、俺が言うことじゃないだろ」
林は黙って聞いていた。
周自身も、昔なら違うことを言っていたかもしれない。
結婚したほうがいい。
家を持ったほうがいい。
安定した仕事をしたほうがいい。
そういう言葉を、周も何度も聞いてきた。
そして、自分も誰かに言ってきた。
そのことを、今になって少し思い出していた。
夕方、林は家に帰った。
母親は台所にいた。
「今日は周さんのところに行ってたの?」
「うん」
「仕事の話、した?」
「少し」
母親は鍋の蓋を開けた。
「この前の人の息子さん、来月結婚するんだって」
「そうなんだ」
「家も買うらしいよ」
林は靴を脱ぎながら言った。
「へえ」
母親は林の顔を見る。
「あなたはどうするの?」
「何が?」
「結婚」
「まだ考えてない」
「そう」
母親はそれ以上言わなかった。
少し前なら、そこからいくつもの話が続いていた。
誰それが結婚した。
何歳までには結婚したほうがいい。
一人だと老後が大変だ。
親戚に何を言われる。
でも今日は、鍋の蓋を閉めただけだった。
林は少し不思議に思った。
「母さん」
「何?」
「俺が結婚しないって言ったら、心配?」
母親は少し考えた。
「心配はするよ」
「やっぱり」
「親だからね」
「でも、無理に結婚させるつもりはない?」
母親は少し笑った。
「そんなこと、できるわけないでしょ」
林も笑った。
「そうだよね」
母親は皿を並べながら言った。
「ただ、誰かと知り合う機会くらいはあってもいいと思うけど」
「それくらいなら」
「嫌なの?」
「嫌っていうか、今は仕事のほうが先かな」
「そう」
母親は頷いた。
「じゃあ、今は仕事を頑張りなさい」
「うん」
それだけだった。
食事が始まると、二人は別の話をした。
近所の道路工事のこと。
最近寒くなったこと。
父親が昼間に買ってきた野菜のこと。
結婚の話は、それ以上続かなかった。
林はご飯を食べながら、ふと思った。
以前と何かが大きく変わったわけではない。
母親は今でも心配する。
父親も仕事について聞く。
近所の人たちは、それぞれの家のことを話す。
誰かが結婚すれば、別の誰かがその話を聞く。
誰かが家を買えば、また別の誰かが考える。
そういうことは、これからも続いていくのだろう。
ただ、自分がその話を聞いたときに、すぐ自分の生活と比べなくてもいい。
林はそう思った。
まだ、何も決まっていない。
結婚するかもしれない。
しないかもしれない。
今の仕事を続けるかもしれない。
別の仕事を探すかもしれない。
家を買うかもしれない。
買わないかもしれない。
その一つ一つを、今すぐ決める必要はなかった。
食事が終わると、林は食器を流しに運んだ。
「置いといて」
母親が言った。
「洗うよ」
「いいって」
「今日は俺がやる」
母親は何も言わなかった。
林は水を出した。
外はもう暗くなっていた。
窓の向こうでは、近所の家にも明かりがついている。
それぞれの家で、それぞれの人が暮らしている。
同じように見えても、同じ生活ではない。
林は皿を洗いながら、そのことを考えていた。




